石原が陸軍大学校在学中の話。「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、ある土曜日、陸大の学生が翌日の日曜の予定を話し合っていた。
歩兵第一連隊のある中尉が「地方から来ている連中は行く所があって、いいなあ。俺は東京だから、どこへ行ってもつまらない。昼寝でもするか」と言ったら、石原が「馬鹿野郎、それでも、貴様、軍人か」とどなりつけた。
「馬鹿野郎とは何だ。理由も言わずに、突然怒鳴りつける奴があるか、許さんぞ」その中尉は石原より一期上である。相手が怒るのも無理はない。
しかし石原は「俺達は皆原隊に兵隊を置いてきている。親が子供を置きっぱなして来ているようなものだ。気がかりではないのか?地方連隊のものはなかなか行けない。貴様なんか目の前に原隊があるじゃないか。それなのに行く所がないなど、将校の風上にも置けない男だから、馬鹿野郎と言うのだ。文句があるか」ときめつけた。
石原は、陸軍大学校卒業後、大学校の兵学教官、ドイツ留学、また兵学教官を経て、昭和3年8月、陸軍歩兵中佐に昇進し、10月、関東軍参謀に補された。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和3年11月に発足した満州青年連盟の主張は「日漢両民族が提携して現住民族を以って独立国を建てる」というものであった。
その満州青年連盟は過激派が多く、当時の関東軍に対し「腰の軍刀は竹光か」「関東軍は刀の抜き方を忘れたか」などと公開演説会などで平然と批判していた。
それで関東軍の呼びかけで参謀と青年連盟幹部の会見が行われる事になった。軍は三宅参謀長以下幕僚全員が出席して日本料理と灘の生一本で丁重に青年連盟幹部をもてなした
連盟幹部は理事長の金井章次博士が総括を説明し、次に岡田という幹部が内地遊説で満蒙へ目を向けよと同胞に呼びかけて来た興奮がまださめていないから、高い調子で話しだした。
参謀一同がシンとして聞き入っていると、「ああああああ、ああああああ」と聞こえよがしに大あくびをした男がある。作戦課長の石原参謀であった。
石原は当時まだ有名ではなく、中佐といっても、どこにもごろごろいて、青年連盟幹部達にとっても未知の人物であった。
人を呼んでしゃべらせておいて、話しの最中にあくびをするとは失礼な男だと岡田はムッとしたが、喧嘩は後でやろうと一応話し終えた。
すると彼の言葉が終わるのを待ちかねたように石原は「結局、何のかのといっても、青年連盟の諸君も権益主義者の集まりか」とわざとらしく横を向いてつぶやいた。
岡田よりも理事長の金井博士が怒って国際法や条約論で説明すると、石原は「あなたのおっしゃるのも、満州を食い物にしようとするそこいらの利権屋どもと同じではありませんか、こみいった理屈がついているだけで」と、さらに「そもそも、いけないのは日本人なんだ。日本人が権力を笠に着て、支那人を圧迫し金もうけしようとするから排斥されるんだ。排日運動が起こるのは当然です」と言った。
連盟幹部は一斉に仲間の山口重次の方を向いて「喧嘩鶉(うずら)、出ろ」と目で合図した。喧嘩鶉は山口の別名で喧嘩早い性格だった。
山口は「そこな参謀さん。あんたはわれわれを権益主義者と呼ばれたが、とんでもない誤解だ。われわれはむしろ、くだらない権益は放棄した方がいいという意見なんです」などと青年連盟の理想をまくしたてた。
石原は「理想は分かったが、具体的な解決策はどうなりますか?」と質問した。山口が「そんなものはない」と吐き出すように言うと、石原は「というと?」と言った。
山口は「日本はもっぱら権益を主張し、張学良は中国国民党と提携し失権回復をさけんでいる。これでは水と油だ」などと主張した。
それを聞くと石原は態度を変え、このあと青年連盟と真剣なやり取りをして、軍の方針を誠実に説明し、青年連盟と親交を得るようになったということである。
歩兵第一連隊のある中尉が「地方から来ている連中は行く所があって、いいなあ。俺は東京だから、どこへ行ってもつまらない。昼寝でもするか」と言ったら、石原が「馬鹿野郎、それでも、貴様、軍人か」とどなりつけた。
「馬鹿野郎とは何だ。理由も言わずに、突然怒鳴りつける奴があるか、許さんぞ」その中尉は石原より一期上である。相手が怒るのも無理はない。
しかし石原は「俺達は皆原隊に兵隊を置いてきている。親が子供を置きっぱなして来ているようなものだ。気がかりではないのか?地方連隊のものはなかなか行けない。貴様なんか目の前に原隊があるじゃないか。それなのに行く所がないなど、将校の風上にも置けない男だから、馬鹿野郎と言うのだ。文句があるか」ときめつけた。
石原は、陸軍大学校卒業後、大学校の兵学教官、ドイツ留学、また兵学教官を経て、昭和3年8月、陸軍歩兵中佐に昇進し、10月、関東軍参謀に補された。
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和3年11月に発足した満州青年連盟の主張は「日漢両民族が提携して現住民族を以って独立国を建てる」というものであった。
その満州青年連盟は過激派が多く、当時の関東軍に対し「腰の軍刀は竹光か」「関東軍は刀の抜き方を忘れたか」などと公開演説会などで平然と批判していた。
それで関東軍の呼びかけで参謀と青年連盟幹部の会見が行われる事になった。軍は三宅参謀長以下幕僚全員が出席して日本料理と灘の生一本で丁重に青年連盟幹部をもてなした
連盟幹部は理事長の金井章次博士が総括を説明し、次に岡田という幹部が内地遊説で満蒙へ目を向けよと同胞に呼びかけて来た興奮がまださめていないから、高い調子で話しだした。
参謀一同がシンとして聞き入っていると、「ああああああ、ああああああ」と聞こえよがしに大あくびをした男がある。作戦課長の石原参謀であった。
石原は当時まだ有名ではなく、中佐といっても、どこにもごろごろいて、青年連盟幹部達にとっても未知の人物であった。
人を呼んでしゃべらせておいて、話しの最中にあくびをするとは失礼な男だと岡田はムッとしたが、喧嘩は後でやろうと一応話し終えた。
すると彼の言葉が終わるのを待ちかねたように石原は「結局、何のかのといっても、青年連盟の諸君も権益主義者の集まりか」とわざとらしく横を向いてつぶやいた。
岡田よりも理事長の金井博士が怒って国際法や条約論で説明すると、石原は「あなたのおっしゃるのも、満州を食い物にしようとするそこいらの利権屋どもと同じではありませんか、こみいった理屈がついているだけで」と、さらに「そもそも、いけないのは日本人なんだ。日本人が権力を笠に着て、支那人を圧迫し金もうけしようとするから排斥されるんだ。排日運動が起こるのは当然です」と言った。
連盟幹部は一斉に仲間の山口重次の方を向いて「喧嘩鶉(うずら)、出ろ」と目で合図した。喧嘩鶉は山口の別名で喧嘩早い性格だった。
山口は「そこな参謀さん。あんたはわれわれを権益主義者と呼ばれたが、とんでもない誤解だ。われわれはむしろ、くだらない権益は放棄した方がいいという意見なんです」などと青年連盟の理想をまくしたてた。
石原は「理想は分かったが、具体的な解決策はどうなりますか?」と質問した。山口が「そんなものはない」と吐き出すように言うと、石原は「というと?」と言った。
山口は「日本はもっぱら権益を主張し、張学良は中国国民党と提携し失権回復をさけんでいる。これでは水と油だ」などと主張した。
それを聞くと石原は態度を変え、このあと青年連盟と真剣なやり取りをして、軍の方針を誠実に説明し、青年連盟と親交を得るようになったということである。