陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

14.石原莞爾陸軍中将(4)  石原はスリッパをはいて飛行機に乗って行った

2006年06月23日 | 石原莞爾陸軍中将
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和4年、関東軍では「北満現地戦術」研究の参謀旅行を実施した。

 その時石原莞爾が参加者の参謀に配布した論文の一つに「満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず、多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり。即ち、正義の為日本が進んで断行すべきものなり」と記されていた。

 この石原の根本理念が歴史的な満州事変を起こし、満州国建国となるのだが、同時にこの基本理念は石原の陸軍軍人としての生き方に矛盾を内包しており、後年、陸軍上層部と根本的なところで徐々に食い違いを生じさせていった。

 「丸」別冊「日本陸軍の栄光と最後」(潮書房)にようると、中国兵による中村震太郎大尉虐殺事件、朝鮮人の開拓団に中国兵が銃撃した万宝山事件の後、昭和6年9月18日、満鉄線路が爆破されるという柳条溝事件で満州事変が始まった。

  これは奉天駅付近の柳条溝で、中国正規軍が満州鉄道の線路を爆破し、たまたま演習中だった日本軍の独立守備隊の兵を射撃した。

 日本軍はただちに応戦し、日中両軍は戦闘状態に入った、というのが公表されたが。この柳条溝事件は石原を中心とする関東軍参謀が謀ったシナリオだった。

 彼ら参謀の上司である関東軍司令官の本庄繁中将も、この謀略を知らずに中国側を非難して軍の出動命令を出した。

  「昭和陸軍秘史」(番町書房)で今井武夫元少将の回想によると、昭和6年9月18日の柳条溝事件後、9月28日、日本から参謀本部第二部長の橋本虎之助少将を中心として、西原一策少佐(陸軍省軍事課)、遠藤三郎少佐(参謀本部作戦課)、今井武夫大尉(参謀本部支那課)の4人が中央との連絡のために関東軍に派遣された。

 奉天の旅館で橋本少将ら4人が応接室で待っていると、関東軍の三宅参謀長、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉らがどかどかと入ってきた。

  両方とも突っ立ったままで、相対して、「こんにちわ」とも「やあ」とも挨拶をしない。やがて、一応お辞儀して両方で腰掛けた。

 いきなり「貴官らはいかなる任務で来たか」と追求された。橋本少将が何か言った。それから二、三応答があって、関東軍の参謀達はドカドカと出て行った。

 今井大尉は板垣高級参謀、石原参謀、片倉参謀らと熟知の間柄だったにもかかわらす、気楽に声をかけるような雰囲気ではなかったという。

 石原参謀は以前今井大尉の陸大の教官だったので、「石原教官しばらくです」「ご苦労様です」と言ったら、「君によく言っとくが、君たちは何をしてもぼくらによくわかるよ。いつも憲兵5、6人尾行しているからそう思え」と、それをみんなに聞こえるように大きな声で言った。訳が分からないので、今井大尉は「はあ」と言って、あっけにとられた。

 関東軍の参謀は自分達が仕掛けた柳条溝事件を、橋本少将らが探りに来たと思ったのである。しかしこの時、橋本少将らは疑念は持っていたが事実は知らなかった。奉天に着いて2日目には関東軍の謀略だと全て分かったという。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)で今井武夫元少将の回想によると、満州事変勃発当時、張学良は日本軍に対する反攻のため錦州に奉天軍を終結しつつあった。

 昭和6年10月8日、関東軍は突如、錦州爆撃を行った。これにより、国際連盟理事会も強硬態度に出た。その真相は石原が飛行機を集めて、偵察に行き、錦州上空に到達した時、爆撃を行ったのだった。

 このとき石原はスリッパをはいて飛行機に乗って行ったので、後に軍司令官に叱られた。帰ってきて石原はこう言ったという。「いやあ、偵察に言ったら、向こうのやつがポンポン撃ちゃがるから、われわれ爆弾を積んで行ったし、この爆弾をどこかに落としてこなければ着陸する時に自爆するかも知れん。どうせ落とすんならというわけでちょっと落としたよ」と。

 今井大尉が翌朝本庄繁軍司令官の所に行ったら、司令官が「ゆうべ一晩眠れなかった、大変なことをやった」と打ち明けたと言う。

 当時、関東軍参謀は、鳥を落とす勢いで、作戦会議でも石原を中心に作戦がたてられ、軍司令官は黙って聞いているだけだったといわれている。当時すでに、関東軍ではいわゆる下克上の風潮が見られたのである。