「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、井上成美(しげよし)は生涯を通じて、自分が正しいと信じたことについては、上司に対しても絶対に所信を曲げることはなかった。
昭和19年7月、サイパン陥落により東條英機内閣は崩壊した。
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、嶋田繁太郎海軍大臣更迭の件で重臣岡田啓介は元軍令部総長で海軍の実力者であった伏見宮を訪れた。
この時、岡田は伏見宮に
「海軍の現在の多くの人の意見としましては、海軍で大臣を探すとすれば、現役大将では満点とはいえないにしても先ず豊田であろう。中堅から選べば兵学校の井上ではないかと申しております」
と言った。
すると伏見宮は
「井上はいかん。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦のとき、敵をもっと追撃すべきときに空しく引かえしてしまった」
と答えたという。
遡って昭和8年3月、伏見宮博恭軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。
これは軍令部長が宮様であることを楯に、次長の高橋三吉中将(艦隊派)を中心にした海軍軍令部が、海軍の伝統や慣習を無視して、一切の権限を海軍省から軍令部に集約しようとしたものであった。
当時海軍省軍務局第一課長であった井上成美大佐はこれに強く反対して、徹底抗戦を行なった。
このような経緯から、伏見宮の井上中将に対する覚えは、あまりめでたくなかったのである。
当時の大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も軍令部の要求にしぶしぶ屈し、残りは軍務局の井上第一課長だけになっていた。
軍令部だけでなく、さらに海軍省の上司の説得にもかかわらず、井上第一課長は最後まで、承諾の判を押さなかった。
この時、井上第一課長は海軍を辞めるつもりでいた。判を押すことを拒否し、辞めることにより、自分の所信を貫こうとしたのである。
だが、海軍は井上成美を辞めさせなかった。井上第一課長は更迭され、横須賀鎮守府付に転任、その後、光栄ある練習戦艦比叡艦長に発令された。
この人事について、当時、伏見宮博恭軍令部長は、意外にも、井上第一課長が徹底して軍令部案に抵抗した点を高く評価し、人事局第一課長に次の様に話したという。
「井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自分の正しいと信ずることに忠実な点は見上げたものである。第一課長は更迭止む無しとしても、必ず井上は良いポストに就けるように」
自分の信念を貫くということは、戦前、戦中の当時の国情では許されないことであった。
だが井上成美海軍大将は、半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた。
<井上成美(しげよし)海軍大将プロフィル>
明治22年12月9日宮城県仙台市東二番町に生まれる。
明治42年11月海軍兵学校37期卒、179人中2番。
明治43年12月海軍少尉、鞍馬乗組。
大正元年12月海軍中尉。
大正4年12月海軍大尉、扶桑分隊長。
大正6年1月原喜久代と結婚。
大正7年12月スイス駐在。
大正10年9月フランス駐在、12月海軍少佐。
大正11年12月海軍大学校甲種学生。
大正13年11月海軍大学校22期卒、12月軍務局員。
大正14年12月海軍中佐。
昭和2年11月イタリア駐在武官。
昭和4年11月海軍大佐。
昭和5年1月海軍大学校戦略教官。
昭和7年11月海軍省軍務局第一課長、妻喜久代没。
昭和8年11月練習戦艦比叡艦長。
昭和10年11月海軍少将、横須賀鎮守府参謀長。
昭和11年11月軍令部出仕兼海軍省出仕。
昭和12年10月海軍省軍務局長。
昭和14年10月支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、11月海軍中将。
昭和15年10月海軍航空本部長。
昭和16年8月第四艦隊司令官。
昭和17年10月海軍兵学校長。
昭和19年8月海軍次官。
昭和20年5月海軍大将、軍事参議官、10月予備役、横須賀長井の自宅に隠棲、英語塾開始。
昭和28年、63歳で秋田原富士子(53歳)と再婚、英語塾閉鎖。
昭和50年12月15日長井の自宅で死去、86歳。
昭和52年6月富士子死去、77歳。
昭和19年7月、サイパン陥落により東條英機内閣は崩壊した。
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、嶋田繁太郎海軍大臣更迭の件で重臣岡田啓介は元軍令部総長で海軍の実力者であった伏見宮を訪れた。
この時、岡田は伏見宮に
「海軍の現在の多くの人の意見としましては、海軍で大臣を探すとすれば、現役大将では満点とはいえないにしても先ず豊田であろう。中堅から選べば兵学校の井上ではないかと申しております」
と言った。
すると伏見宮は
「井上はいかん。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦のとき、敵をもっと追撃すべきときに空しく引かえしてしまった」
と答えたという。
遡って昭和8年3月、伏見宮博恭軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。
これは軍令部長が宮様であることを楯に、次長の高橋三吉中将(艦隊派)を中心にした海軍軍令部が、海軍の伝統や慣習を無視して、一切の権限を海軍省から軍令部に集約しようとしたものであった。
当時海軍省軍務局第一課長であった井上成美大佐はこれに強く反対して、徹底抗戦を行なった。
このような経緯から、伏見宮の井上中将に対する覚えは、あまりめでたくなかったのである。
当時の大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も軍令部の要求にしぶしぶ屈し、残りは軍務局の井上第一課長だけになっていた。
軍令部だけでなく、さらに海軍省の上司の説得にもかかわらず、井上第一課長は最後まで、承諾の判を押さなかった。
この時、井上第一課長は海軍を辞めるつもりでいた。判を押すことを拒否し、辞めることにより、自分の所信を貫こうとしたのである。
だが、海軍は井上成美を辞めさせなかった。井上第一課長は更迭され、横須賀鎮守府付に転任、その後、光栄ある練習戦艦比叡艦長に発令された。
この人事について、当時、伏見宮博恭軍令部長は、意外にも、井上第一課長が徹底して軍令部案に抵抗した点を高く評価し、人事局第一課長に次の様に話したという。
「井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自分の正しいと信ずることに忠実な点は見上げたものである。第一課長は更迭止む無しとしても、必ず井上は良いポストに就けるように」
自分の信念を貫くということは、戦前、戦中の当時の国情では許されないことであった。
だが井上成美海軍大将は、半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた。
<井上成美(しげよし)海軍大将プロフィル>
明治22年12月9日宮城県仙台市東二番町に生まれる。
明治42年11月海軍兵学校37期卒、179人中2番。
明治43年12月海軍少尉、鞍馬乗組。
大正元年12月海軍中尉。
大正4年12月海軍大尉、扶桑分隊長。
大正6年1月原喜久代と結婚。
大正7年12月スイス駐在。
大正10年9月フランス駐在、12月海軍少佐。
大正11年12月海軍大学校甲種学生。
大正13年11月海軍大学校22期卒、12月軍務局員。
大正14年12月海軍中佐。
昭和2年11月イタリア駐在武官。
昭和4年11月海軍大佐。
昭和5年1月海軍大学校戦略教官。
昭和7年11月海軍省軍務局第一課長、妻喜久代没。
昭和8年11月練習戦艦比叡艦長。
昭和10年11月海軍少将、横須賀鎮守府参謀長。
昭和11年11月軍令部出仕兼海軍省出仕。
昭和12年10月海軍省軍務局長。
昭和14年10月支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、11月海軍中将。
昭和15年10月海軍航空本部長。
昭和16年8月第四艦隊司令官。
昭和17年10月海軍兵学校長。
昭和19年8月海軍次官。
昭和20年5月海軍大将、軍事参議官、10月予備役、横須賀長井の自宅に隠棲、英語塾開始。
昭和28年、63歳で秋田原富士子(53歳)と再婚、英語塾閉鎖。
昭和50年12月15日長井の自宅で死去、86歳。
昭和52年6月富士子死去、77歳。