陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

285.鈴木貫太郎海軍大将(5)スパイをやれという命令は受けていない

2011年09月09日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 その後、幾度かの実験をした結果、鈴木説が正しいということが軍令部のほうにも分かってきた。だが、急に転向するわけにもゆかず、日露戦争まで血のにじむような研究が続けられた。だが、結局鈴木説の当否は、戦場において審判されるようになった。

 ともかく、軍務局長以下の不同意の重要書類が、大臣、次官によって決済されたということは、前代未聞であった。

 明治三十四年七月二十九日付けで、鈴木貫太郎少佐はドイツ国駐在を命ぜられた。任務は「ドイツ海軍の教育を取り調べよ」というものだった。

 九月七日、郵船会社の「丹波丸」で、ドイツに向け出発、十月三十日ベルリンに到着した。滞在中は、支給される年額手当ては三千五百円だった。当時文部省の留学生などは千八百円だった。

 当時は二百円あれば十分生活できる時代だったので、三千五百円あれば遊ぼうと思えば、派手に遊ぶことができた。

 だが鈴木少佐は、遊びには興味を持たず、ドイツ国内はもちろん、イギリスを初め、欧州各国を根気よく視察旅行し、人情、風俗から国民性の相違まで、自分の眼で見て回った。

 明治三十五年五月、公使館付武官として滝川具和大佐(海兵六・海大一・少将)が、ベルリンに赴任してきた。

 しばらくして、滝川大佐は鈴木少佐に「キール軍港に行って語学の勉強をしながら海軍の状況を偵察せよ」と申し渡した。

 鈴木少佐は「それは最初の任務とは違う。ドイツ海軍の教育の調査に来ている、スパイをやれという命令は受けていない」と拒絶した。

 当時ドイツは新興国として、英国に追いつき追い抜けと、非常な勢いで海軍の拡張を行っていた。どのように海軍拡張を進めているか、滝川大佐は知りたかった。

 だが、鈴木少佐に正面から拒絶されて、滝川大佐は鼻白らむ思いだった。それから鈴木少佐に対する態度が冷たくなった。

 鈴木少佐は滝川大佐の思惑など気にせず、相変わらず視察旅行を続けていたが、ベルリンに帰ってみると、伊藤乙次郎(いとう・おとじろう)中佐(海兵一三・海大選科・中将・呉工廠長・神戸製鋼所社長)、田所広海(たどころ・ひろみ)少佐(海兵一七・海大三・中将・鎮海警備府司令長官)、筑土次郎(つくど・じろう)大尉(海兵二四・海大六・少将)が着任していた。

 日本海軍の中央部でもドイツに並々ならぬ関心を寄せていることが分かった。鈴木少佐は、キールと並んで最大の軍港であるウイルヘルムに行った。

 そして表玄関から堂々と軍港の視察を願い出た。ところがドイツ海軍は喜んで親切に案内してくれた。規模は広大で軍紀も厳正だった。

 次にキール軍港に行った。鈴木少佐は鎮守府長官・チスター元帥やモルトケ参謀長に会って、「軍港の施設を見学させてもらいたい」と申し込んだ。

 すると「軍港内を見学したいなら、いちいち案内人はつけないから、自由に見学して宜しい。一日、二日では本当のことは分かるものではない。ゆっくり見学して行け」と大歓迎してくれた。

 この軍港には造船所、兵学校、海兵団、弾薬庫、火薬庫、魚雷製造工場、民間の造船所等、広大な施設があった。海軍の魚雷工場以外は見学させてくれて、行く先々で鈴木少佐にビールのご馳走をしてくれた。

 キールでもウイルヘルムでも、鈴木少佐は本省にも公使館付武官にも、報告書は一切書かなかった。手紙は全部ハガキで済ませた。

 ドイツの海軍は盲目ではない。外国の海軍武官が毎日どんなことをしているかは、恐らく百も承知していた。それだけの目は光っていると思わなければならない。

 だから、鈴木少佐はスパイなどの嫌疑をかけられぬよう用心に用心をしていた。同地に二ヶ月ばかり滞在していたが、不愉快な思いをしたことは一度もなかった。

 ドイツ海軍としては、日本の海軍をたいしたことはないと思っていたかも知れないし、一方では、ドイツ海軍の威容を誇示したいと、鈴木少佐に充分の視察を許したものと思われた。

 当時、三国干渉で恨み骨髄に徹している日本は、いつかロシアを叩かねばならぬと、軍備の拡張を行っていた。

 そこで、鈴木少佐もロシア海軍についても視察したいと思い、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどを回って、ロシアの首都、ペテルスブルグ(サンクト・ペテルブルグ)に行った。

 ここには駐在武官の川原袈裟太郎(かわはら・けさたろう)少佐(海兵一七・中将・旅順警備府司令長官)がいて、鈴木少佐に親切にいろんな情報をくれた。