明治三十二年二月、鈴木貫太郎少佐は軍令部を免じられて、軍務局軍事課専補となった。同時に陸軍大学校兵学教官にもなった。
その後鈴木少佐は、五月末に海軍大学校教官に兼補され、七月には学習院の教授兼務を嘱託された。
この時の軍務局軍事課長は加藤友三郎大佐(海兵七・海大甲号一・大将・海軍大臣・総理大臣・子爵)だった。
鈴木少佐は、軍務局勤務をしながら、三つの学校で教えるとは、随分ひどいことをするなと思った。だが自分の修養にもなるし、やるだけやってみろと、続けた。
だが、時間の経済から、家から出るにも人力車を雇って出なければならなかった。経済上有難くないことだし、骨が折れることも一層だったが、黙ってやっていた。
明治三十二年の暮れ、加藤友三郎課長が「君は家から出る時に自分の車に乗って来るそうだ、そりゃ困るだろう」と鈴木少佐に言った。
鈴木少佐は「困ります」と正直に答えた。その年から陸海軍の交換教官には賞与を与えることになった。これが車代となって残った。加藤課長の発案だった。
明治三十三年初頭、軍令部の発案で、甲種魚雷と称し、千メートル進行の魚雷の調整弁に修正を加え、速力を著しく減じて、その代わり到達距離を三千メートルに延長し、遠距離より敵艦を攻撃する計画を立て、軍令部長から海軍大臣に提出された。
これはロシアの戦術家、マカロフ海軍大将(戦術の権威・日露戦争で戦死)の戦術書から由来されたものだった。
この問題の解決は、軍務局員である鈴木少佐の主務に属するものだった。鈴木少佐は、直ちにこの計画に反対した。その理由は次の様なものだった。
「このような十二、三ノットばかりの速力の遅い魚雷は、昼間敵艦進行中に襲撃しても、直ぐ回避される恐れがある。また、当たっても今の爆発装置では発火しない。発火するためには敵艦の速力よりも五ノット以上の速力を保たなければならない」
「また、夜間碇泊艦を襲撃するにしても、二千メートルや三千メートルの遠距離よりからは敵艦を認識することはできない。少なくとも、五、六百メートル以内に接近しなければ確実な成功は期せられない」
「いずれにしても、このような計画は有害無益で、いたずらに我が勇敢な軍人を卑怯者にするばかりである。マカロフ将軍は尊敬すべき戦術家であるが、この問題についてはおそらく机上の考案に過ぎず、我々は、日清役実戦の経験より、とうていこれに賛成できぬのである」。
以上のように鈴木少佐が反対すると、軍令部から鈴木少佐の友人で海兵同期の高島万太郎少佐(海兵一四・大佐)が来て「貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ」と言った。
鈴木少佐は「そうはいかぬ。これは将来我が海軍に必ず累を及ばすから、軍令部でこの書類を引っ込めたらどうか」と言ってどうしても承知しなかった。
そこで軍令部から瓜生外吉(うりゅう・そときち)大佐(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)や外波内蔵吉(となみ・くらきち)中佐(海兵一一・海大二・少将)が軍事課長・加藤友三郎大佐に交渉すると、加藤課長は「鈴木の言うことが正しい」と言って承知しなかった。
それに軍務局長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(海兵二・常備艦隊司令官・中将)も同様なので、軍令部は大いに困却した。
ついに軍令部次長・伊集院五郎少将(海兵五・英国海軍大学校・軍令部長・元帥・男爵)が「一少佐の分際で生意気な」と怒って、海軍大臣・山本権兵衛中将(海兵二・大将・総理大臣・伯爵)に談じ込んだ。
軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(神戸海軍操練所・元帥・伯爵)は山本海軍大臣より先輩であり、伊集院軍令部次長も山本海軍大臣と同じ鹿児島出身である。
山本海軍大臣も困って、次官・斉藤実(さいとう・まこと)大佐(海兵六・大将・総理大臣・子爵)に一切の処置を命じた。軍務局長、軍事課長、主任官が真っ向から反対しているので、斉藤次官も弱った。
斉藤次官は鈴木少佐を呼んで「君の主張はよく分かった。しかし大臣がこれを決裁されることになれば、君はどうするか」と訊いた。
鈴木少佐は「私は海軍将来のために自説を固執しているのですから、大臣の方でそれはいかんと言って軍令部案には同意せられるのなら、何も文句はありません」と答えた。
それなら書類をすぐ官房のほうに回せと命じ、官房から次官、大臣の決裁を経て、軍令部案を一応承認することになった。
その後鈴木少佐は、五月末に海軍大学校教官に兼補され、七月には学習院の教授兼務を嘱託された。
この時の軍務局軍事課長は加藤友三郎大佐(海兵七・海大甲号一・大将・海軍大臣・総理大臣・子爵)だった。
鈴木少佐は、軍務局勤務をしながら、三つの学校で教えるとは、随分ひどいことをするなと思った。だが自分の修養にもなるし、やるだけやってみろと、続けた。
だが、時間の経済から、家から出るにも人力車を雇って出なければならなかった。経済上有難くないことだし、骨が折れることも一層だったが、黙ってやっていた。
明治三十二年の暮れ、加藤友三郎課長が「君は家から出る時に自分の車に乗って来るそうだ、そりゃ困るだろう」と鈴木少佐に言った。
鈴木少佐は「困ります」と正直に答えた。その年から陸海軍の交換教官には賞与を与えることになった。これが車代となって残った。加藤課長の発案だった。
明治三十三年初頭、軍令部の発案で、甲種魚雷と称し、千メートル進行の魚雷の調整弁に修正を加え、速力を著しく減じて、その代わり到達距離を三千メートルに延長し、遠距離より敵艦を攻撃する計画を立て、軍令部長から海軍大臣に提出された。
これはロシアの戦術家、マカロフ海軍大将(戦術の権威・日露戦争で戦死)の戦術書から由来されたものだった。
この問題の解決は、軍務局員である鈴木少佐の主務に属するものだった。鈴木少佐は、直ちにこの計画に反対した。その理由は次の様なものだった。
「このような十二、三ノットばかりの速力の遅い魚雷は、昼間敵艦進行中に襲撃しても、直ぐ回避される恐れがある。また、当たっても今の爆発装置では発火しない。発火するためには敵艦の速力よりも五ノット以上の速力を保たなければならない」
「また、夜間碇泊艦を襲撃するにしても、二千メートルや三千メートルの遠距離よりからは敵艦を認識することはできない。少なくとも、五、六百メートル以内に接近しなければ確実な成功は期せられない」
「いずれにしても、このような計画は有害無益で、いたずらに我が勇敢な軍人を卑怯者にするばかりである。マカロフ将軍は尊敬すべき戦術家であるが、この問題についてはおそらく机上の考案に過ぎず、我々は、日清役実戦の経験より、とうていこれに賛成できぬのである」。
以上のように鈴木少佐が反対すると、軍令部から鈴木少佐の友人で海兵同期の高島万太郎少佐(海兵一四・大佐)が来て「貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ」と言った。
鈴木少佐は「そうはいかぬ。これは将来我が海軍に必ず累を及ばすから、軍令部でこの書類を引っ込めたらどうか」と言ってどうしても承知しなかった。
そこで軍令部から瓜生外吉(うりゅう・そときち)大佐(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)や外波内蔵吉(となみ・くらきち)中佐(海兵一一・海大二・少将)が軍事課長・加藤友三郎大佐に交渉すると、加藤課長は「鈴木の言うことが正しい」と言って承知しなかった。
それに軍務局長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(海兵二・常備艦隊司令官・中将)も同様なので、軍令部は大いに困却した。
ついに軍令部次長・伊集院五郎少将(海兵五・英国海軍大学校・軍令部長・元帥・男爵)が「一少佐の分際で生意気な」と怒って、海軍大臣・山本権兵衛中将(海兵二・大将・総理大臣・伯爵)に談じ込んだ。
軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(神戸海軍操練所・元帥・伯爵)は山本海軍大臣より先輩であり、伊集院軍令部次長も山本海軍大臣と同じ鹿児島出身である。
山本海軍大臣も困って、次官・斉藤実(さいとう・まこと)大佐(海兵六・大将・総理大臣・子爵)に一切の処置を命じた。軍務局長、軍事課長、主任官が真っ向から反対しているので、斉藤次官も弱った。
斉藤次官は鈴木少佐を呼んで「君の主張はよく分かった。しかし大臣がこれを決裁されることになれば、君はどうするか」と訊いた。
鈴木少佐は「私は海軍将来のために自説を固執しているのですから、大臣の方でそれはいかんと言って軍令部案には同意せられるのなら、何も文句はありません」と答えた。
それなら書類をすぐ官房のほうに回せと命じ、官房から次官、大臣の決裁を経て、軍令部案を一応承認することになった。