それは、恭子が一年前、従兄の正徳を通して十か条を出して、「真っ平ごめん」と言われた板倉中尉だったのだ。
恭子は今度も「酒乱だそうですから」と言って断った。だが、井浦少佐は「そんなことはないから会ってごらんなさい」と言って強くすすめた。
それで、「真っ平ごめん」とばかり言っていられなくなり、昭和十三年十一月十四日、遠洋航海途中、大連港に碇泊中の「八雲」の艦上でお見合いということになった。
恭子と母親は、井浦少佐の案内で、少佐以上の士官室で、板倉中尉と一緒に食事をした。井浦少佐は板倉中尉に「三年考えるのも三日考えるのも一緒だから今晩一晩考えて返事せよ」と言った。
その翌日の十五日、井浦少佐と板倉中尉が、大連の恭子の家を訪問した。井浦少佐は「板倉は結婚することを承知したので同道した」と言った。
当日付けで海軍大尉に昇進した板倉が、恭子の母親に「お嬢さんをください」と言ったので、恭子は内心ホッとするやら、ヤレヤレという気持ちだった。
井浦少佐の計らいで、固めの盃も取り交わし、酒の席になった。飲むうちに、板倉大尉が「盃が小さい」などと言い出し、大盃でグイグイやり始めた。
それを見かねた井浦少佐が「貴様、いい加減にせんか」となじった。すると、酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた。食器類がコッパミジンに砕け飛び散った。
それを見た井浦少佐は「この無礼者が!」と、立ち上がり、挨拶もそこそこに、帰って行った。恭子と母親は唖然とするばかりだった。
恭子は「あんな人、嫌だ、やめる」と言った。ところが、母親は「若いうちはあれぐらい元気があったほうがよい。いまから落ち着いていたら、井浦様のお年くらいになったらオジイサンくさくなってしまう」と、動ずる色もなく言った。
板倉大尉はさすがに酔いもさめて、バツの悪そうな顔をして帰ろうとしていたが、母親が「お話はなかったことにして、お酒がよほどお好きのようですから、もう少し召し上がってお帰りください」と言うと、また、そこでおみこしを据えてしまった。
そのとき、恭子は、初めて、板倉大尉といろいろ話をしたのだった。一年前、伊号第六八潜水艦乗組みのとき、恭子が従兄の正徳に出した十か条の手紙のことも、板倉大尉は「鹿島さんに見せてもらいましたよ」と言った。
さらに、板倉大尉は「大連沖を通るたびに、あの娘さん、今頃どうしているかな、と思っていました」と言った。これには、恭子は驚いた。
二人の話は、はずんでいった。その間に板倉大尉は、恭子の母親にあらためて、結婚の了承を得た。そのあと、板倉大尉は、ゴロンと横になって寝てしまった。
翌朝、井浦少佐から電話がかかってきた。「早く板倉を帰してください。艦が出港します」とのことだった。恭子はあわてて、タクシーを呼んで、母親と一緒に板倉大尉を乗せて、埠頭まで行った。
練習艦隊の旗艦、「八雲」は、軍楽隊の「蛍の光」の演奏を奏でながら、まさに岸壁を離れようとしていた。お土産の甘栗太郎を抱えた板倉大尉が、今にも引き上げられそうになっている舷梯に飛び乗って、宙吊りのようになりながら、ようやく艦上にたどり着いた。
こうして、昭和十四年二月、板倉大尉と池田恭子は、芝の水交社で結婚式を挙げた。仲人は、井浦少佐夫妻だった。
昭和十四年十一月、板倉光馬大尉は水雷学校高等科学生を命じられた。潜水艦長になるには、まず、水雷学校高等科を卒業して、潜水艦の航海長として慣熟する必要があった。
次に、潜水学校乙種学生を命じられ、潜航指揮法を修得する。それから潜水艦の水雷長を命じられる。潜水艦長になるには、さらに、潜水学校の甲種学生として、襲撃法をマスターしなければならなかった。こうして駆逐艦長と同格の潜水艦長になるのだが、このコースは歳月がかかった。
恭子は今度も「酒乱だそうですから」と言って断った。だが、井浦少佐は「そんなことはないから会ってごらんなさい」と言って強くすすめた。
それで、「真っ平ごめん」とばかり言っていられなくなり、昭和十三年十一月十四日、遠洋航海途中、大連港に碇泊中の「八雲」の艦上でお見合いということになった。
恭子と母親は、井浦少佐の案内で、少佐以上の士官室で、板倉中尉と一緒に食事をした。井浦少佐は板倉中尉に「三年考えるのも三日考えるのも一緒だから今晩一晩考えて返事せよ」と言った。
その翌日の十五日、井浦少佐と板倉中尉が、大連の恭子の家を訪問した。井浦少佐は「板倉は結婚することを承知したので同道した」と言った。
当日付けで海軍大尉に昇進した板倉が、恭子の母親に「お嬢さんをください」と言ったので、恭子は内心ホッとするやら、ヤレヤレという気持ちだった。
井浦少佐の計らいで、固めの盃も取り交わし、酒の席になった。飲むうちに、板倉大尉が「盃が小さい」などと言い出し、大盃でグイグイやり始めた。
それを見かねた井浦少佐が「貴様、いい加減にせんか」となじった。すると、酔いがまわっていた板倉大尉が、いきなり大盃をたたきつけた。食器類がコッパミジンに砕け飛び散った。
それを見た井浦少佐は「この無礼者が!」と、立ち上がり、挨拶もそこそこに、帰って行った。恭子と母親は唖然とするばかりだった。
恭子は「あんな人、嫌だ、やめる」と言った。ところが、母親は「若いうちはあれぐらい元気があったほうがよい。いまから落ち着いていたら、井浦様のお年くらいになったらオジイサンくさくなってしまう」と、動ずる色もなく言った。
板倉大尉はさすがに酔いもさめて、バツの悪そうな顔をして帰ろうとしていたが、母親が「お話はなかったことにして、お酒がよほどお好きのようですから、もう少し召し上がってお帰りください」と言うと、また、そこでおみこしを据えてしまった。
そのとき、恭子は、初めて、板倉大尉といろいろ話をしたのだった。一年前、伊号第六八潜水艦乗組みのとき、恭子が従兄の正徳に出した十か条の手紙のことも、板倉大尉は「鹿島さんに見せてもらいましたよ」と言った。
さらに、板倉大尉は「大連沖を通るたびに、あの娘さん、今頃どうしているかな、と思っていました」と言った。これには、恭子は驚いた。
二人の話は、はずんでいった。その間に板倉大尉は、恭子の母親にあらためて、結婚の了承を得た。そのあと、板倉大尉は、ゴロンと横になって寝てしまった。
翌朝、井浦少佐から電話がかかってきた。「早く板倉を帰してください。艦が出港します」とのことだった。恭子はあわてて、タクシーを呼んで、母親と一緒に板倉大尉を乗せて、埠頭まで行った。
練習艦隊の旗艦、「八雲」は、軍楽隊の「蛍の光」の演奏を奏でながら、まさに岸壁を離れようとしていた。お土産の甘栗太郎を抱えた板倉大尉が、今にも引き上げられそうになっている舷梯に飛び乗って、宙吊りのようになりながら、ようやく艦上にたどり着いた。
こうして、昭和十四年二月、板倉大尉と池田恭子は、芝の水交社で結婚式を挙げた。仲人は、井浦少佐夫妻だった。
昭和十四年十一月、板倉光馬大尉は水雷学校高等科学生を命じられた。潜水艦長になるには、まず、水雷学校高等科を卒業して、潜水艦の航海長として慣熟する必要があった。
次に、潜水学校乙種学生を命じられ、潜航指揮法を修得する。それから潜水艦の水雷長を命じられる。潜水艦長になるには、さらに、潜水学校の甲種学生として、襲撃法をマスターしなければならなかった。こうして駆逐艦長と同格の潜水艦長になるのだが、このコースは歳月がかかった。