昭和十一年十二月一日、板倉少尉は海軍中尉に進級し、伊号第六十八潜水艦(イ六八潜)に通信長として乗り組みを命じられた。
イ六八潜は海大六型の一番艦で、常備排水量一七八〇トン、発射管六門(艦首四、艦尾二)を装備し、水上速力二三・五ノットは、当時、世界のレベルを超えるものだった。
イ六八潜の艦長は栢原保親(かしわばら・やすちか)少佐(愛媛・海兵四九・イ二四潜艦長・イ六八潜艦長・イ七二潜艦長・中佐・潜水学校教官・イ一〇潜艦長・第十九潜水隊司令・イ一五九潜艦長・大佐・第十九潜水隊司令・第二十二潜水隊司令・戦死・少将)だった。
板倉中尉がイ六八潜に乗組んだ昭和十一年十二月一日当時、イ六八潜は第十二潜水隊に属していた。当時の第二潜水戦隊の編成は次の通り。
第二潜水戦隊は、母艦「迅鯨」、第十二潜水隊(イ六八・イ六九・イ七〇)、第二十九潜水隊(イ六一・イ六二・イ六四)、第三十潜水隊(イ六五・イ六六・イ六七)で編成されていた。各指揮官は次の通り。
第二潜水戦隊司令官は、大和田芳之助(おおわだ・よしのすけ)少将(茨城・海兵三五・第四二潜艦長・潜水学校教官・中佐・第四潜水司令・潜水学校教官・第十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「長鯨」艦長・巡洋艦「那智」艦長・呉防備隊司令・少将・第二潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・予備役)。
母艦「迅鯨」の艦長は、岡敬純(おか・たかずみ)大佐(大阪・海兵三九・海大二一首席・ジュネーヴ会議全権随員・大佐・潜水母艦「迅鯨」艦長・軍務局第一課長・軍令部第三部長・少将・軍務局長・中将・海軍次官・鎮海警備府司令長官)。
板倉中尉の所属する、第十二潜水隊司令は、石崎昇(いしざき・のぼる)大佐(東京・海兵四二・イ五六潜艦長・イ五三潜艦長・中佐・イ三潜艦長・第二十七潜水隊司令・米国出張・大佐・第十二潜水隊司令・給油艦「石廊」艦長・潜水学校教頭・第一潜水隊司令・戦艦「日向」艦長・第八潜水戦隊司令官・少将・第十一潜水戦隊司令官・第二十二戦隊司令官)。
第二十九潜水隊司令は、原田覚(はらだ・かく)中佐(福島・海兵四一・ロ二六潜艦長・ロ一八潜艦長・イ二四潜艦長・イ三潜艦長・中佐・第六潜水隊司令・第二十九潜水隊司令・大佐・潜水母艦「大鯨」艦長・空母「鳳翔」艦長・少将・第七潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・第三十三特別根拠地隊司令官・戦病死・中将)。
第三十潜水隊司令は、伊藤尉太郎(いとう・じょうたろう)大佐(広島・海兵四二・ロ六三潜艦長・イ五七潜艦長・イ六三潜艦長・中佐・潜水学校教官・巡洋艦「磐手」副長・第二十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「剣崎」艦長・潜水学校教頭・呉潜水基地隊司令・水上機母艦「日進」艦長・戦死・少将)。
イ六八潜座乗の第十二潜水隊司令・石崎昇大佐は、サムライだった。板倉中尉は着任早々、先輩から「司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない」と注意されていた。
日ならずして、通信長である板倉中尉は、司令の雷名を、身をもって知らされた。佐伯湾在泊中のことだった。
作業地では、司令官や艦長は、投錨すると母艦にゆき、出港間際に帰艦する慣わしになっていた。たまたま、板倉中尉が航海長と当直を交替した直後だった。
赤旗をかざした内火艇が近づいてきた。赤旗は司令乗艇の合図である。板倉中尉は急いで舷梯に出迎えた。
石崎司令は、甲板に上がるやいなや、差し出した信号綴りをひったくるようにして目を通していたが、唇がわなわなと震えていた。
雷が落ちる前兆だった。いやな予感が板倉中尉のみぞおちあたりを走った。その直後、石崎司令はかみつくように「天気図を持ってこいッ!」と怒鳴った。
板倉中尉が急いで取り寄せると、一目見るなり、石崎司令は天気図をくるくると棒のようにまいて、ポカッ!と板倉中尉の横面を、いやというほどひっぱたいた。
「馬鹿者ッ! どこに雨が降っているか!」。殴られた原因が、天気予報であったことに、板倉中尉は腹が立った。
当時の天気予報は、当たるのが不思議なくらいで、はずれて当たり前だった。だが、気圧配置や前線の移動から判断して、天気がくずれるのは明らかだった。
イ六八潜は海大六型の一番艦で、常備排水量一七八〇トン、発射管六門(艦首四、艦尾二)を装備し、水上速力二三・五ノットは、当時、世界のレベルを超えるものだった。
イ六八潜の艦長は栢原保親(かしわばら・やすちか)少佐(愛媛・海兵四九・イ二四潜艦長・イ六八潜艦長・イ七二潜艦長・中佐・潜水学校教官・イ一〇潜艦長・第十九潜水隊司令・イ一五九潜艦長・大佐・第十九潜水隊司令・第二十二潜水隊司令・戦死・少将)だった。
板倉中尉がイ六八潜に乗組んだ昭和十一年十二月一日当時、イ六八潜は第十二潜水隊に属していた。当時の第二潜水戦隊の編成は次の通り。
第二潜水戦隊は、母艦「迅鯨」、第十二潜水隊(イ六八・イ六九・イ七〇)、第二十九潜水隊(イ六一・イ六二・イ六四)、第三十潜水隊(イ六五・イ六六・イ六七)で編成されていた。各指揮官は次の通り。
第二潜水戦隊司令官は、大和田芳之助(おおわだ・よしのすけ)少将(茨城・海兵三五・第四二潜艦長・潜水学校教官・中佐・第四潜水司令・潜水学校教官・第十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「長鯨」艦長・巡洋艦「那智」艦長・呉防備隊司令・少将・第二潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・予備役)。
母艦「迅鯨」の艦長は、岡敬純(おか・たかずみ)大佐(大阪・海兵三九・海大二一首席・ジュネーヴ会議全権随員・大佐・潜水母艦「迅鯨」艦長・軍務局第一課長・軍令部第三部長・少将・軍務局長・中将・海軍次官・鎮海警備府司令長官)。
板倉中尉の所属する、第十二潜水隊司令は、石崎昇(いしざき・のぼる)大佐(東京・海兵四二・イ五六潜艦長・イ五三潜艦長・中佐・イ三潜艦長・第二十七潜水隊司令・米国出張・大佐・第十二潜水隊司令・給油艦「石廊」艦長・潜水学校教頭・第一潜水隊司令・戦艦「日向」艦長・第八潜水戦隊司令官・少将・第十一潜水戦隊司令官・第二十二戦隊司令官)。
第二十九潜水隊司令は、原田覚(はらだ・かく)中佐(福島・海兵四一・ロ二六潜艦長・ロ一八潜艦長・イ二四潜艦長・イ三潜艦長・中佐・第六潜水隊司令・第二十九潜水隊司令・大佐・潜水母艦「大鯨」艦長・空母「鳳翔」艦長・少将・第七潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・第三十三特別根拠地隊司令官・戦病死・中将)。
第三十潜水隊司令は、伊藤尉太郎(いとう・じょうたろう)大佐(広島・海兵四二・ロ六三潜艦長・イ五七潜艦長・イ六三潜艦長・中佐・潜水学校教官・巡洋艦「磐手」副長・第二十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「剣崎」艦長・潜水学校教頭・呉潜水基地隊司令・水上機母艦「日進」艦長・戦死・少将)。
イ六八潜座乗の第十二潜水隊司令・石崎昇大佐は、サムライだった。板倉中尉は着任早々、先輩から「司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない」と注意されていた。
日ならずして、通信長である板倉中尉は、司令の雷名を、身をもって知らされた。佐伯湾在泊中のことだった。
作業地では、司令官や艦長は、投錨すると母艦にゆき、出港間際に帰艦する慣わしになっていた。たまたま、板倉中尉が航海長と当直を交替した直後だった。
赤旗をかざした内火艇が近づいてきた。赤旗は司令乗艇の合図である。板倉中尉は急いで舷梯に出迎えた。
石崎司令は、甲板に上がるやいなや、差し出した信号綴りをひったくるようにして目を通していたが、唇がわなわなと震えていた。
雷が落ちる前兆だった。いやな予感が板倉中尉のみぞおちあたりを走った。その直後、石崎司令はかみつくように「天気図を持ってこいッ!」と怒鳴った。
板倉中尉が急いで取り寄せると、一目見るなり、石崎司令は天気図をくるくると棒のようにまいて、ポカッ!と板倉中尉の横面を、いやというほどひっぱたいた。
「馬鹿者ッ! どこに雨が降っているか!」。殴られた原因が、天気予報であったことに、板倉中尉は腹が立った。
当時の天気予報は、当たるのが不思議なくらいで、はずれて当たり前だった。だが、気圧配置や前線の移動から判断して、天気がくずれるのは明らかだった。