「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、板倉光馬の夫人、恭子は大正六年生まれで、大連で育った。
父の池田勲旭は、陸軍士官学校を病気で中退、アメリカに渡り、ペンシルヴァニア大学を卒業した。アメリカに二十年いた後、奉天で物産会社を立ち上げ、経営者となった。
池田恭子が女学校三年のとき、恭子の従兄、鹿島正徳少尉(福岡・海兵五八・駆逐艦「呉竹」艦長・駆逐艦「羽風」艦長・駆逐艦「夕凪」艦長・中佐)が巡洋艦「那智」に乗組み、大連に来た。
その縁で、恭子は女学校の友人とともに、「那智」のガンルームの若い士官たちと友達になった。恭子は海軍士官が好きになった。
昭和十二年に父の池田勲旭が病死した。それで伯父が心配して、一人娘の恭子に養子を迎えようとした。だが、恭子は「海軍士官でなきゃイヤだ」と言った。
そこで福岡の従兄、鹿島正徳大尉を婿養子に迎えたらどうかということになり、伯父が手紙を出した。
だが、恭子は正徳のことはよく知っており、「自分とは合わないからダメ」と言ったにもかかわらず、伯父が手紙を出したのだ。
ところが、正徳からは返事が来なかった。それで、恭子は「わたしは、お兄さんのこと、なんとも思っていないから、心配しなくていい」という内容の手紙を出した。
恭子は、そのころ、海軍士官の進級とか転勤とか、いろんな動静が分かる官報をよく見ていて、正徳と同じ、伊号第六八潜水艦に、海兵六一期の板倉光馬中尉というのが乗っていた。恭子は正徳より、この方が良さそうだ、と思った。
そこで、恭子は、板倉中尉に対する十か条の質問書を書いて、「これにふさわしかったら、お世話して下さい」と正徳に手紙を出した。
恭子はまさかその手紙を板倉中尉に見せはしないだろうと思っていたが、正徳は板倉中尉に見せていた。
その十か条は、礼儀正しく、正直で、思いやりがあって、などなど、一人娘の恭子が思う存分に書いたものだった。
それを見た板倉中尉は、「こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん」と正徳に言った。一方、恭子も、正徳から「板倉は酒乱だ」というのを聞いて、真っ平ごめん、と思った。
その後も、恭子が「海軍士官と出なければ結婚しない。そうでなければ一生独身で通す」などと、言っていたので、周囲はホトホト手を焼いていた。
当時、練習艦隊の「八雲」に指導官として、井浦祥二郎(いうら・しょうじろう)少佐(福岡・海兵五一・海大三三・伊号六九潜水艦長・伊号第三潜水艦長・伊号七四潜水艦長・伊号第一二二潜水艦長・第三潜水隊先任参謀・軍令部第一部・第二部・第六艦隊第八潜水戦隊先任参謀・大佐・第六艦隊先任参謀・終戦・特別輸送艦「鹿島」艦長・B級戦犯指定収監・釈放・著書「潜水艦隊」)が乗組んでいた。
恭子の従姉の夫は、入江達(いりえ・たつ)少佐(海兵五一・中佐・伊号第二一潜水艦長・第三次遣独艦伊号第三四潜水艦長・戦死・大佐)だった。
入江少佐と井浦少佐は兵学校同期なので、入江少佐から井浦少佐に頼んで、恭子に海軍士官を紹介してもらうようにしたのだった。
井浦少佐は「練習艦隊に乗っているものなら誰でもよいか」と言ったので、入江少佐は「良すぎる」と返事したという。
練習艦隊の主任指導官付というのは、候補生の実地教育を行う士官で、一期から二人しか出ない優秀とされている配置だった。
そこで紹介されたのが、主任指導官付だった板倉光馬中尉だった。井浦少佐は「板倉中尉は海軍切っての逸材です」と言ってきたのだ。
父の池田勲旭は、陸軍士官学校を病気で中退、アメリカに渡り、ペンシルヴァニア大学を卒業した。アメリカに二十年いた後、奉天で物産会社を立ち上げ、経営者となった。
池田恭子が女学校三年のとき、恭子の従兄、鹿島正徳少尉(福岡・海兵五八・駆逐艦「呉竹」艦長・駆逐艦「羽風」艦長・駆逐艦「夕凪」艦長・中佐)が巡洋艦「那智」に乗組み、大連に来た。
その縁で、恭子は女学校の友人とともに、「那智」のガンルームの若い士官たちと友達になった。恭子は海軍士官が好きになった。
昭和十二年に父の池田勲旭が病死した。それで伯父が心配して、一人娘の恭子に養子を迎えようとした。だが、恭子は「海軍士官でなきゃイヤだ」と言った。
そこで福岡の従兄、鹿島正徳大尉を婿養子に迎えたらどうかということになり、伯父が手紙を出した。
だが、恭子は正徳のことはよく知っており、「自分とは合わないからダメ」と言ったにもかかわらず、伯父が手紙を出したのだ。
ところが、正徳からは返事が来なかった。それで、恭子は「わたしは、お兄さんのこと、なんとも思っていないから、心配しなくていい」という内容の手紙を出した。
恭子は、そのころ、海軍士官の進級とか転勤とか、いろんな動静が分かる官報をよく見ていて、正徳と同じ、伊号第六八潜水艦に、海兵六一期の板倉光馬中尉というのが乗っていた。恭子は正徳より、この方が良さそうだ、と思った。
そこで、恭子は、板倉中尉に対する十か条の質問書を書いて、「これにふさわしかったら、お世話して下さい」と正徳に手紙を出した。
恭子はまさかその手紙を板倉中尉に見せはしないだろうと思っていたが、正徳は板倉中尉に見せていた。
その十か条は、礼儀正しく、正直で、思いやりがあって、などなど、一人娘の恭子が思う存分に書いたものだった。
それを見た板倉中尉は、「こんな厚かましい、心臓の強い娘は、真っ平ごめん」と正徳に言った。一方、恭子も、正徳から「板倉は酒乱だ」というのを聞いて、真っ平ごめん、と思った。
その後も、恭子が「海軍士官と出なければ結婚しない。そうでなければ一生独身で通す」などと、言っていたので、周囲はホトホト手を焼いていた。
当時、練習艦隊の「八雲」に指導官として、井浦祥二郎(いうら・しょうじろう)少佐(福岡・海兵五一・海大三三・伊号六九潜水艦長・伊号第三潜水艦長・伊号七四潜水艦長・伊号第一二二潜水艦長・第三潜水隊先任参謀・軍令部第一部・第二部・第六艦隊第八潜水戦隊先任参謀・大佐・第六艦隊先任参謀・終戦・特別輸送艦「鹿島」艦長・B級戦犯指定収監・釈放・著書「潜水艦隊」)が乗組んでいた。
恭子の従姉の夫は、入江達(いりえ・たつ)少佐(海兵五一・中佐・伊号第二一潜水艦長・第三次遣独艦伊号第三四潜水艦長・戦死・大佐)だった。
入江少佐と井浦少佐は兵学校同期なので、入江少佐から井浦少佐に頼んで、恭子に海軍士官を紹介してもらうようにしたのだった。
井浦少佐は「練習艦隊に乗っているものなら誰でもよいか」と言ったので、入江少佐は「良すぎる」と返事したという。
練習艦隊の主任指導官付というのは、候補生の実地教育を行う士官で、一期から二人しか出ない優秀とされている配置だった。
そこで紹介されたのが、主任指導官付だった板倉光馬中尉だった。井浦少佐は「板倉中尉は海軍切っての逸材です」と言ってきたのだ。