陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

40.遠藤三郎陸軍中将(10) 義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで

2006年12月22日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和20年4月12日、遠藤航空兵器総局長官は航空部隊の沖縄に対する総攻撃の状況を視察するため、発進基地の九州に出掛けた。

 驚いた事は、陸海航空部隊の総指揮官である豊田連合艦隊司令長官が九州に出てきていない事、沖縄作戦に参加している陸軍航空は僅かに菅原道大中将の第六航空軍のみで、あとは本土決戦の準備中である事を知り唖然とした。

 遠藤長官は憤りを感じ、帰路についた。給油のため大阪飛行場に着陸したところ、多数の新聞記者に取り囲まれ沖縄作戦に関し質問を受けた。

 遠藤長官は「一台の戦車でも上陸してしまえば手強い。数百千の戦車でも船の上にある間は無力である。故に上陸した戦車を叩くのは下の下策であり、船上に叩くのは上策である。しかし船はどこに来るか分からないからその船の集まっている基地を叩くのが上の上策である」と暗に敵を沖縄に叩くべきであり、本土で決戦する事の誤りを含んで答えた。

 遠藤長官が東京に帰った時、その日の夕刊に大きな活字で「遠藤長官曰く」と前記の話が掲載されていた。

 遠藤長官は沖縄決戦の必要と本土決戦の不可を参謀総長に具申しようと参謀本部を訪ねたところ、河辺虎四郎参謀次長が「作戦計画を批判するとはひどいじゃないか」と抗議し、梅津参謀長からは「幕僚共がひどく激昂しているから、今後参謀本部に来る時は現住に憲兵の護衛を付けて来い」と注意を受けた。

 昭和20年8月15日、玉音放送があり、終戦となった。遠藤航空兵器総局長官に自決を迫る者もいたが、遠藤のもって生まれた反骨精神が、なにくそと反発し、自決にまでいやらなかった。

 昭和22年2月、遠藤は戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所したが不起訴となり23年1月13日出所した。

 昭和22年春、遠藤は東京裁判の証人としてA級戦犯二十数名とともに巣鴨から市ヶ谷の東京裁判法廷まで数回バスに乗って通った。

 A級戦犯はほとんど遠藤と旧知の間柄であり「バスの中で旧知の人々と自由に話し合えたことは、何よりの楽しみでありました」と記している。

 その時の印象として遠藤は「東條大将は私に笑顔を向けられますがあまり話そうとはされず淋しそうであったこと、広田元総理は誰に向かっても笑みを含んでおられ悟り切った聖人か高僧の様に見えた事、重光元外相が控え室で『老子』などを開いて『戦犯われ関せず』といった態度で超然として居られたこと、畑元帥は誠に静かに平素と少しも変わっていなかったことなどが残っております」と記している。

 出所後、遠藤は埼玉県入間川町に入植、農業を始めた。28年追放解除になると片山哲元総理らと平和憲法擁護運動を始める。

 参議院戦にも出馬(落選)。元軍人団を組織して、五回の訪中を行っており、毛沢東首席、周恩来総理らと会見した。

 遠藤は毛沢東首席に愛刀、来国光作の日本刀を贈った。その返礼として毛沢東首席から自筆の書簡とともに斎白石の名画「竹」が遠藤に贈られた。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、亡くなる前、遠藤は病院のベッドでも日記を書き続けた。二男の十三郎は「親父がんばれ、ギネスブックものだ、と励ました。もう書く事もなく、検温に来る看護婦の名前をつけ始めた。あれには、びっくりした」と記している。

 遠藤にとって日記を書く事は朝、顔を洗うのと同じくらい日常化していた。「これ書いてると、悪い事、できなくてな!」と、よく笑った。

 「義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで」(長男の妻・ちかゑ)。

 昭和59年10月11日、合理性と反骨の精神を貫いた遠藤三郎はその生涯を閉じた。

(「遠藤三郎陸軍中将」は今回で終りです。次回からは、石川信吾海軍少将が始ります)