「厳島」は命令どうり青島港内に進入した。その翌朝、石川大佐は、陸軍のおそらく予備役で召集を受けたらしい、老大佐の訪問を受けた。
用件は「自分の部隊は済南から強行軍で昨夕青島に到着したが、市内の建物はほとんど海軍が占領していて、部隊を宿舎に入れることも出来ず、野営した。なんとか宿舎を割愛してもらいたい」との申し入れであった。
石川大佐は「それはご難儀なことでしたでしょう。宿舎の割り当ては艦隊司令部のすることで管轄外ですがとりあえず、どこか休息できるところへご案内します」と答えて、学校建物のあいているところに案内しておいた。石川大佐は艦隊司令部へ連絡し善処を要望した。
もともと青島市に突入する時期は陸海軍同時にするという協定があった。ところが、海軍陸戦隊が、陸軍より先に青島市を占領し、めぼしい建物はおおむね海軍が占拠してしまったので、陸軍は憤慨していた。
港湾管理部の石川大佐の部屋に参謀肩章をつけた陸軍少佐ほか二三の陸軍将校がやってきて、石川大佐に詰め寄るように言った。
「自分は参謀本部の参謀ですが、青島の桟橋、倉庫は陸軍が管理するから、さようご承知願いたい」。
石川大佐は「陸軍も桟橋、倉庫を使うということは当然だから、その事について陸海軍の使用協定を決めたいと言うなら、今からでもやろうじゃないか。しかし、陸軍で管理するから海軍は退けということでは、私が第四艦隊長官から受けている命令に違反するから応じるわけにはいかない」と答えた。
彼らは軍刀をがちゃつかせて、一喝するように「同意を得られなければ、軍は実力を持って占領します」と叫んだ。
ここにいたって石川大佐もかんしゃく玉を破裂させ「俺も陸軍の若い参謀におどかされて、長官の命令に違反するわけにはいかん。実力で占領なら、実力でお相手しよう。無断で桟橋に上陸してみろ。岸壁に繋留してある俺の艦からすぐに大砲をぶっぱなすぞ。おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ」といって参謀達を帰らせた。
石川大佐は艦隊司令部を訪ねて事の経過を報告しておいた。だが、このことは、当時誇張して宣伝され、青島で陸海軍が今にも実力を持って衝突する勢いであるかのように伝えられた。
その後間もなく石川大佐は、突然青島特務部に転任を命じられ、暗礁に乗り上げたような陸海軍間の問題解決の任務を命じられた。
石川大佐は第五師団のS参謀長と交渉する事になったが、S少将は陸軍でも一徹者で通った人だった。
当時青島にきていた第五師団長・板垣征四郎中将とは石川大佐は満州事変以来いささか面識があったので、先に板垣中将に石川大佐の考えを話し、S少将への橋渡しをお願いした。
数日後、板垣中将から「私からも参謀長に話しておいたから、あとは直接話し合えばよかろう」ということで、石川大佐は軍参謀長のS少将を訪ねた。
ところがS少将は「海軍は海上へ去ってくれ。陸上の事は一切陸軍が処理する。港湾施設は鉄道の末端を構成している施設であって、当然陸軍がこれを管理すべきである」との主張を繰り返すのみで、一歩も譲らぬという構えであった。
打開の策が見出せないので、石川大佐は交渉を打ち切り、中央で一刀両断の解決をするほかはないと考え、すぐに飛行機で東京へ飛んだ。
東京では海軍省軍務局第一課長のO大佐と打ち合わせの後、陸軍省軍務局のS軍務課長を訪ね、三人で話し合った結果、海軍と陸軍の管轄線引きを決め陸海軍大臣から現地に電報指令が打たれた。
石川大佐は青島に帰ったが、現地陸軍部から「陸軍省からの指示は来たが、軍は東京協定には不同意である」とのにべもない返事であった。
石川大佐は「現地軍としては不同意であっても、中央で成立した協定だから、現地で協定を行うべきである」と主張した。
だが、S参謀長は「占領行政は統帥事項に属するので、陸軍大臣の指示は受けない」とつっぱねてきた。
このままではらちのあきようもないので、石川大佐は再び上京する事にした。
すると翌朝済南にいるS参謀長から電話があり「君はまた東京へ行くそうだが、何をしに行くのか」と言ってきた。
用件は「自分の部隊は済南から強行軍で昨夕青島に到着したが、市内の建物はほとんど海軍が占領していて、部隊を宿舎に入れることも出来ず、野営した。なんとか宿舎を割愛してもらいたい」との申し入れであった。
石川大佐は「それはご難儀なことでしたでしょう。宿舎の割り当ては艦隊司令部のすることで管轄外ですがとりあえず、どこか休息できるところへご案内します」と答えて、学校建物のあいているところに案内しておいた。石川大佐は艦隊司令部へ連絡し善処を要望した。
もともと青島市に突入する時期は陸海軍同時にするという協定があった。ところが、海軍陸戦隊が、陸軍より先に青島市を占領し、めぼしい建物はおおむね海軍が占拠してしまったので、陸軍は憤慨していた。
港湾管理部の石川大佐の部屋に参謀肩章をつけた陸軍少佐ほか二三の陸軍将校がやってきて、石川大佐に詰め寄るように言った。
「自分は参謀本部の参謀ですが、青島の桟橋、倉庫は陸軍が管理するから、さようご承知願いたい」。
石川大佐は「陸軍も桟橋、倉庫を使うということは当然だから、その事について陸海軍の使用協定を決めたいと言うなら、今からでもやろうじゃないか。しかし、陸軍で管理するから海軍は退けということでは、私が第四艦隊長官から受けている命令に違反するから応じるわけにはいかない」と答えた。
彼らは軍刀をがちゃつかせて、一喝するように「同意を得られなければ、軍は実力を持って占領します」と叫んだ。
ここにいたって石川大佐もかんしゃく玉を破裂させ「俺も陸軍の若い参謀におどかされて、長官の命令に違反するわけにはいかん。実力で占領なら、実力でお相手しよう。無断で桟橋に上陸してみろ。岸壁に繋留してある俺の艦からすぐに大砲をぶっぱなすぞ。おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ」といって参謀達を帰らせた。
石川大佐は艦隊司令部を訪ねて事の経過を報告しておいた。だが、このことは、当時誇張して宣伝され、青島で陸海軍が今にも実力を持って衝突する勢いであるかのように伝えられた。
その後間もなく石川大佐は、突然青島特務部に転任を命じられ、暗礁に乗り上げたような陸海軍間の問題解決の任務を命じられた。
石川大佐は第五師団のS参謀長と交渉する事になったが、S少将は陸軍でも一徹者で通った人だった。
当時青島にきていた第五師団長・板垣征四郎中将とは石川大佐は満州事変以来いささか面識があったので、先に板垣中将に石川大佐の考えを話し、S少将への橋渡しをお願いした。
数日後、板垣中将から「私からも参謀長に話しておいたから、あとは直接話し合えばよかろう」ということで、石川大佐は軍参謀長のS少将を訪ねた。
ところがS少将は「海軍は海上へ去ってくれ。陸上の事は一切陸軍が処理する。港湾施設は鉄道の末端を構成している施設であって、当然陸軍がこれを管理すべきである」との主張を繰り返すのみで、一歩も譲らぬという構えであった。
打開の策が見出せないので、石川大佐は交渉を打ち切り、中央で一刀両断の解決をするほかはないと考え、すぐに飛行機で東京へ飛んだ。
東京では海軍省軍務局第一課長のO大佐と打ち合わせの後、陸軍省軍務局のS軍務課長を訪ね、三人で話し合った結果、海軍と陸軍の管轄線引きを決め陸海軍大臣から現地に電報指令が打たれた。
石川大佐は青島に帰ったが、現地陸軍部から「陸軍省からの指示は来たが、軍は東京協定には不同意である」とのにべもない返事であった。
石川大佐は「現地軍としては不同意であっても、中央で成立した協定だから、現地で協定を行うべきである」と主張した。
だが、S参謀長は「占領行政は統帥事項に属するので、陸軍大臣の指示は受けない」とつっぱねてきた。
このままではらちのあきようもないので、石川大佐は再び上京する事にした。
すると翌朝済南にいるS参謀長から電話があり「君はまた東京へ行くそうだが、何をしに行くのか」と言ってきた。