陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

47.石川信吾海軍少将(7) どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ

2007年02月09日 | 石川信吾海軍少将
石川大佐は「あなたは統帥事項だから陸軍大臣の指示は受けないと言うが、陸軍大臣は、大臣の所管事項だと考えているから訓令を出したのだと思う」と伝えた。

さらに「占領地行政が統帥事項か否かについて、陸軍大臣と現地軍とが考えが違うのでは、海軍としてはやりようがないから、海軍大臣から陸軍大臣に話してもらい、本件が統帥事項か否かについて陸軍側の考えを一本にしてもらわなければならない」と言った。

 また、「その上で、もし統帥事項というなら参謀本部と話をしなおすまでだし、また、大臣所管事項だということになれば、陸軍大臣から君が大臣の指図に従うようにしてもらう他はない」と相手に伝えた。

 いよいよ東京へ出発の一時間前、再び石川大佐に電話があって、中央協定に準拠して現地協定が成立して、青島における陸海軍の紛糾も解決した。

 だがこの紛糾の裏にはある状況があった。石川大佐は東京に出発する前に豊田第四艦隊長官から一通の手紙を見せられた。

  その手紙は山本五十六海軍次官から豊田長官宛ての半公半私のものであった。

 その内容は「青島占領に当たっては、同地は海軍として極めて重要だから、海軍の勢力下にこれを収める様努力されたし」というものであった。

 だがその筆跡は、明らかに特徴のある前軍務課長・H大佐のものであった。

 石川大佐は上京した時、海軍部内では青島の陸海軍紛糾は豊田艦隊長官の不手際によるものだという空気が濃厚であった。

 青島に帰る前に石川大佐は、大臣、次官が同席の場で、青島の状況を説明した。

 そのあと、「豊田長官は、私信ではあるが、山本次官のご指示に添って万事を処理してこられたと思いますが、このような問題は中央で大綱を決定され、現地に指示されるのが適当と思われます」と付け加えた。

 すると山本次官は色をなして「そんな指示をした覚えはない」とのことだった。

 石川大佐は首脳部の意向を承って退出したが、すぐに大臣室に引き返し、米内光政大臣に「山本次官の指示について、次官は知らないとの事だったが、これは海軍の統制上遺憾な問題だ」と言った。

 さらに「私は長官から示されてその手紙を見ているし、その筆跡も覚えがあるので、執筆者が誰であるかも分かっている」と述べた。

 そして、「山本次官が執筆者に指示を与えたのか、執筆者の独断であるのか分からないが、豊田長官がこれを尊重して行動された事は当然であるし、今になって青島の陸海軍摩擦が豊田長官の責任であるようにお考えになるのは大変な間違いであると思う」ときっぱり言った。

 続けて石川大佐は「このまま長官に中央の空気を報告するわけにはいかないので、青島に帰る前に黒白を明らかにしていただきたい」と言った。

 米内大臣は「事情はわかった。どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ」と言ったので、石川大佐は引き下がった。

 その頃、北支における陸軍の総元締めとして北京に駐在する喜多陸軍少将から、北京駐在の須賀海軍少将を通じて、石川大佐に北京陸軍特務機関に出頭するよう要望してきた。

 石川大佐は艦隊長官指揮下にあるのでその申し入れには応じなかった。

 だが間に立った須賀海軍少将から「北京にいて、陸軍との協調上困るからぜひに」と言ってきたので、石川大佐は艦隊長官の許しを得て、北京の陸軍特務機関長を訪ねた。

 案内された部屋に入ると、なんとなく異様な空気が漂っていた。喜多少将を中心に、少将、大佐など数人が泰然と正面の安楽椅子に構えていて、ほかにも数人の佐官級が両側に立ち並んでいた。

 そして石川大佐に勧められた椅子はその前にポツンと一つ置かれて、取調べを受ける被告席みたいだった。

 石川大佐は窓際に立っている将校の中に北支方面軍参謀副長の武藤章大佐をみつけたので、「武藤さん、これではまるで、被告席みたいだね。今日は儀礼的に訪問したんだが、これでは、ちょっと腰はかけられないじゃないか」と笑ってみせた。

 武藤大佐は「いや、そんなわけじゃなかったんで。失敬、失敬」とさっそく、椅子を円座に並べ替えてくれたので、石川大佐はようやく挨拶して腰を降ろし、北京の感想などを話し始めた。

 そのうち喜多少将が話しの合間をとらえて「ところで君は青島特務部長として、」という尋問口調で口を差し挟んできた。