昭和15年11月、石川大佐は海軍省軍務局第二課長に発令された。このときから開戦をはさんで17年6月南西方面艦隊参謀副長に就任するまで、軍務局勤務が続いた。
「日本海軍指揮官総覧」(新人物往来社)によると、石川大佐は第二課長就任後、日独伊三国同盟に伴う政策指導機関の第一委員会の中心メンバーとなった。
以後主要な海軍政策はすべて同委員会を経由する事になり、石川大佐は海軍の南方政策を実質的にリードし、その方針に従って海軍首脳は南部仏印進駐にも同意したといわれる。
「日本海軍、錨揚ゲ!」(PHP研究所)によると、阿川弘之と半藤一利の対談で、半藤は石川少将に太平洋開戦の責任があると主張しており、阿川も同意している。
ところが、半藤が高木惣吉元海軍少将に戦後あって話を聞いたときに、高木は石川少将の役割を頑として認めなかった。「あんた方が思うほどこの第一委員会が力があったわけじゃありません」と、どういう訳か、この一点だけは頑固に認めなかったという。
昭和15年9月5日、吉田善吾に代わって及川古志郎が海軍大臣に親任された。
及川大佐は、山本五十六が誠意をもって推薦した井上成美中将の次官起用を排して、自主性のない沢本頼雄中将を次官にし、10月15日海軍省と軍令部のレポーターに適した岡敬純少将を軍務局長に任命した。
こういう状況下、対米強硬派の軍令部とウマの合う主戦派の中堅が軍務局課長のポストを占めた。第一課長に高田利種、第二課長に石川信吾大佐が11月15日着任した。
これら強硬派を中心に第一委員会が組織された。メンバーは高田、石川大佐のほかに、軍令部作戦課長・富岡定俊大佐、軍令部作戦部長直属・大野竹二大佐が加わった。
また幹事として、柴勝男中佐(軍務局)、藤井茂中佐(同)、小野田捨二郎中佐(軍令部作戦課)が就任した。
この第一委員会は昭和16年6月5日付けで「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」という驚くべき報告書を提出する。
それは三国同盟の堅持、仏印占領を主張。その結果米英蘭の対日石油禁輸の際には武力行使を決意するというものであった。
「課長級が一番良く勉強しているから、その意見を採用する」と放言した永野修身軍令部総長、及川海相も、この第一委員会の強硬路線に抵抗をせずに支持した。その責任は免れない。
「真珠湾までの経緯」(時事通信社)によると、そのころ石川大佐は松岡外相を私邸に訪ねて考えを拝聴していた。石川大佐は松岡が満鉄総裁時代に知り合い、同郷のよしみもあって、よく松岡を訪ねていた。
石川大佐は松岡をもって日米開戦の首謀者であるかのように言うのは、事実とははなはだしく相違している。松岡の外交理念は「力による平和維持」であり、「国際間の力の働きを巧みに利用する外交」であったと思う、と述べている。
ドイツがソ連に宣戦布告したとき、海軍でも「ドイツがソ連と開戦したのでは、三国同盟の攻略的意義が失われてしまうから、三国同盟は破棄した方が良い」という意見もあったが、これを海軍首脳部の考えまで盛り上げなかった。
松岡外相はリッペントロップ・ドイツ外相に独ソ戦を中止するように個人的な勧告を行ったが、同外相からは「対ソ戦は数週間、長くて数ヶ月のうちに、ドイツの完勝で片付くから安心をこう。ドイツとしては対ソ戦に日本の援助を求めるつもりはない」と返事が来た。
独ソ戦開戦後、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が対ソ開戦説を唱えているから、良く話をしてくれ」と言われた。
松岡外相の私邸を訪れた石川大佐が「ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」と言った。
この日の松岡外相は、一つ二つ質問しただけで、大変におとなしかった。
その後昭和16年7月7日に御前会議が開かれ、日本は独ソ戦に参加しないと決まり、同時に南部仏印進駐が決定された。
「日本海軍指揮官総覧」(新人物往来社)によると、石川大佐は第二課長就任後、日独伊三国同盟に伴う政策指導機関の第一委員会の中心メンバーとなった。
以後主要な海軍政策はすべて同委員会を経由する事になり、石川大佐は海軍の南方政策を実質的にリードし、その方針に従って海軍首脳は南部仏印進駐にも同意したといわれる。
「日本海軍、錨揚ゲ!」(PHP研究所)によると、阿川弘之と半藤一利の対談で、半藤は石川少将に太平洋開戦の責任があると主張しており、阿川も同意している。
ところが、半藤が高木惣吉元海軍少将に戦後あって話を聞いたときに、高木は石川少将の役割を頑として認めなかった。「あんた方が思うほどこの第一委員会が力があったわけじゃありません」と、どういう訳か、この一点だけは頑固に認めなかったという。
昭和15年9月5日、吉田善吾に代わって及川古志郎が海軍大臣に親任された。
及川大佐は、山本五十六が誠意をもって推薦した井上成美中将の次官起用を排して、自主性のない沢本頼雄中将を次官にし、10月15日海軍省と軍令部のレポーターに適した岡敬純少将を軍務局長に任命した。
こういう状況下、対米強硬派の軍令部とウマの合う主戦派の中堅が軍務局課長のポストを占めた。第一課長に高田利種、第二課長に石川信吾大佐が11月15日着任した。
これら強硬派を中心に第一委員会が組織された。メンバーは高田、石川大佐のほかに、軍令部作戦課長・富岡定俊大佐、軍令部作戦部長直属・大野竹二大佐が加わった。
また幹事として、柴勝男中佐(軍務局)、藤井茂中佐(同)、小野田捨二郎中佐(軍令部作戦課)が就任した。
この第一委員会は昭和16年6月5日付けで「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」という驚くべき報告書を提出する。
それは三国同盟の堅持、仏印占領を主張。その結果米英蘭の対日石油禁輸の際には武力行使を決意するというものであった。
「課長級が一番良く勉強しているから、その意見を採用する」と放言した永野修身軍令部総長、及川海相も、この第一委員会の強硬路線に抵抗をせずに支持した。その責任は免れない。
「真珠湾までの経緯」(時事通信社)によると、そのころ石川大佐は松岡外相を私邸に訪ねて考えを拝聴していた。石川大佐は松岡が満鉄総裁時代に知り合い、同郷のよしみもあって、よく松岡を訪ねていた。
石川大佐は松岡をもって日米開戦の首謀者であるかのように言うのは、事実とははなはだしく相違している。松岡の外交理念は「力による平和維持」であり、「国際間の力の働きを巧みに利用する外交」であったと思う、と述べている。
ドイツがソ連に宣戦布告したとき、海軍でも「ドイツがソ連と開戦したのでは、三国同盟の攻略的意義が失われてしまうから、三国同盟は破棄した方が良い」という意見もあったが、これを海軍首脳部の考えまで盛り上げなかった。
松岡外相はリッペントロップ・ドイツ外相に独ソ戦を中止するように個人的な勧告を行ったが、同外相からは「対ソ戦は数週間、長くて数ヶ月のうちに、ドイツの完勝で片付くから安心をこう。ドイツとしては対ソ戦に日本の援助を求めるつもりはない」と返事が来た。
独ソ戦開戦後、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が対ソ開戦説を唱えているから、良く話をしてくれ」と言われた。
松岡外相の私邸を訪れた石川大佐が「ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」と言った。
この日の松岡外相は、一つ二つ質問しただけで、大変におとなしかった。
その後昭和16年7月7日に御前会議が開かれ、日本は独ソ戦に参加しないと決まり、同時に南部仏印進駐が決定された。