石川中佐は駅の近くの食堂で食事をしたが、そこにいあわせたドイツ人たちはいずれも元気一杯の表情をしていて、その雰囲気からドイツはいよいよ再起のスタートを切ったという感じを受けた。
ベルリンの海軍武官室で石川中佐は重要なヒントを得た。それは「1940年ごろには、ドイツは実力を持って立ち上がるだろう」という観測だった。
これは当時武官室補佐官であった神重徳中佐の考えだったと石川中佐は記憶していた。
このころ、ベルリンの街で売っていたシガレットケースには、第一次大戦前のドイツの領土と、大戦で失った土地とを一目で分かるように描いた地図が刻まれているものが多かった。
石川中佐はもっと具体的な資料をつかみたいと思い、ダンチヒに向かった。
ダンチヒはベルサイユ条約で自由都市として、ドイツもその港湾を利用する事は出来たが、国際連盟の管理下にあって、連盟の高級委員が常駐していた。関税区域としてはポーランドに属していた。
ダンチヒに着いてみると、ナチの腕章をつけたドイツ青年達が三々五々腕を組んで闊歩していた。
彼らの面貌には戦勝国の不当な決定に対する反抗心と、ポーランドなにするものぞという敵愾心と、ダンチヒ奪回の断固たる決意がみなぎっていた。
石川中佐は一軒のビヤホールに入ってみた。そこにもナチ青年が沢山入っていた。石川中佐が日本人である事に気づくと、二三人が来て乾杯してくれた。
石川中佐が「ドイツはダンチヒを奪回する決意だろうと思うが、どうだ」ときくと、「もちろん、そうだ」と答えた。
さらに「ダンチヒの住民の大多数はドイツ人で、五十万を越えている。ダンチヒは現実にわれわれのものだ」と叫んだ。
8月上旬、石川中佐は帰国し、視察旅行の経過と所信を、永野大臣以下海軍省首脳部に報告した。
報告の最後に石川中佐は簡単な要図を掲げ、その余白に「ドイツは1940年ごろには、たつ」と書いて説明した。
これに対して聴衆者ははなはだ冷ややかな態度で、誰一人として質問する者もなかった。
ただ永野大臣から「君は1940年ごろにドイツはたつと言ったが、軍事的にはそうした見方もあるだろうが、経済的に、果たしてその力ができるか」との質問を受けた。
石川中佐は「私に経済的な面からこれを立証しろと言われてもできませんが、ヨーロッパ滞在中は各地の大公使館で話を聞き、また主な日本商社の支店長を訪ね、その研究や意見も確かめ、ドイツでは永井商務官の話を聞き、二三の工場も視察しました結果、ドイツが経済面でも1940年ごろには充実してくるだろうということを私は納得しています」と答えた。
それだけで永野大臣は、その常習である居眠りに入ってしまったという。
報告を終わって大臣室を出ると、調査課長のO大佐が石川中佐をつついて「視察旅行の報告もずいぶん聞いたが、貴様のような大風呂敷ははじめてだ」と、冷評とも、真面目ともつかないことを言った。
石川中佐は「大風呂敷だろうと何だろうと、私は私の所信を述べただけですよ」と言って、多くを語らなかった。
海外視察旅行に出る時は、帰国後、内閣参事官に転任の予定で、そのための視察旅行だということを、直属上司である米内中将から言い渡されていた。
だが、石川中佐が豊田軍務局長のもとに帰国の挨拶に行くと、豊田局長はろくに挨拶も聞かずに「貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があったが、結局O大佐が預かる事になったから、O大佐のところで、おとなしくしておれ」とのご宣託だった。
石川中佐は何の事か分からず「いったいどういうことなのですか」と反問した。すると豊田軍務局長は「2.26事件だ」とだけ、ぶっきらぼうに答えた。
「2.26事件の件が、私とどういう関係があるのですか」と石川中佐が言うと、「黙ってOのところで、おとなしくしておれ」とのことだった。
これではなんのことか見当がつかず、石川中佐は唖然とせざるを得なかった。だが、2.26事件で当局はよほどあわてているらしかった。とんだとばっちりがきたもんだと思いながら石川中佐はO大佐を訪ねた。
O大佐に「あなたが私を預かる事になったそうですが、よろしく」と挨拶すると、「局長が何か言ったか」「ええ、さっぱり腑に落ちないことですがね」「まあ当分ここで静かにしておれ」といったぐあいだった。
O大佐は石川中佐の中学の先輩であり、海軍に入ってからはなにかとお世話になっていたので、石川中佐もO大佐に対しては少なからず遠慮がちだったので、それ以上は何も言わなかった。(O大佐は岡敬純大佐)
ベルリンの海軍武官室で石川中佐は重要なヒントを得た。それは「1940年ごろには、ドイツは実力を持って立ち上がるだろう」という観測だった。
これは当時武官室補佐官であった神重徳中佐の考えだったと石川中佐は記憶していた。
このころ、ベルリンの街で売っていたシガレットケースには、第一次大戦前のドイツの領土と、大戦で失った土地とを一目で分かるように描いた地図が刻まれているものが多かった。
石川中佐はもっと具体的な資料をつかみたいと思い、ダンチヒに向かった。
ダンチヒはベルサイユ条約で自由都市として、ドイツもその港湾を利用する事は出来たが、国際連盟の管理下にあって、連盟の高級委員が常駐していた。関税区域としてはポーランドに属していた。
ダンチヒに着いてみると、ナチの腕章をつけたドイツ青年達が三々五々腕を組んで闊歩していた。
彼らの面貌には戦勝国の不当な決定に対する反抗心と、ポーランドなにするものぞという敵愾心と、ダンチヒ奪回の断固たる決意がみなぎっていた。
石川中佐は一軒のビヤホールに入ってみた。そこにもナチ青年が沢山入っていた。石川中佐が日本人である事に気づくと、二三人が来て乾杯してくれた。
石川中佐が「ドイツはダンチヒを奪回する決意だろうと思うが、どうだ」ときくと、「もちろん、そうだ」と答えた。
さらに「ダンチヒの住民の大多数はドイツ人で、五十万を越えている。ダンチヒは現実にわれわれのものだ」と叫んだ。
8月上旬、石川中佐は帰国し、視察旅行の経過と所信を、永野大臣以下海軍省首脳部に報告した。
報告の最後に石川中佐は簡単な要図を掲げ、その余白に「ドイツは1940年ごろには、たつ」と書いて説明した。
これに対して聴衆者ははなはだ冷ややかな態度で、誰一人として質問する者もなかった。
ただ永野大臣から「君は1940年ごろにドイツはたつと言ったが、軍事的にはそうした見方もあるだろうが、経済的に、果たしてその力ができるか」との質問を受けた。
石川中佐は「私に経済的な面からこれを立証しろと言われてもできませんが、ヨーロッパ滞在中は各地の大公使館で話を聞き、また主な日本商社の支店長を訪ね、その研究や意見も確かめ、ドイツでは永井商務官の話を聞き、二三の工場も視察しました結果、ドイツが経済面でも1940年ごろには充実してくるだろうということを私は納得しています」と答えた。
それだけで永野大臣は、その常習である居眠りに入ってしまったという。
報告を終わって大臣室を出ると、調査課長のO大佐が石川中佐をつついて「視察旅行の報告もずいぶん聞いたが、貴様のような大風呂敷ははじめてだ」と、冷評とも、真面目ともつかないことを言った。
石川中佐は「大風呂敷だろうと何だろうと、私は私の所信を述べただけですよ」と言って、多くを語らなかった。
海外視察旅行に出る時は、帰国後、内閣参事官に転任の予定で、そのための視察旅行だということを、直属上司である米内中将から言い渡されていた。
だが、石川中佐が豊田軍務局長のもとに帰国の挨拶に行くと、豊田局長はろくに挨拶も聞かずに「貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があったが、結局O大佐が預かる事になったから、O大佐のところで、おとなしくしておれ」とのご宣託だった。
石川中佐は何の事か分からず「いったいどういうことなのですか」と反問した。すると豊田軍務局長は「2.26事件だ」とだけ、ぶっきらぼうに答えた。
「2.26事件の件が、私とどういう関係があるのですか」と石川中佐が言うと、「黙ってOのところで、おとなしくしておれ」とのことだった。
これではなんのことか見当がつかず、石川中佐は唖然とせざるを得なかった。だが、2.26事件で当局はよほどあわてているらしかった。とんだとばっちりがきたもんだと思いながら石川中佐はO大佐を訪ねた。
O大佐に「あなたが私を預かる事になったそうですが、よろしく」と挨拶すると、「局長が何か言ったか」「ええ、さっぱり腑に落ちないことですがね」「まあ当分ここで静かにしておれ」といったぐあいだった。
O大佐は石川中佐の中学の先輩であり、海軍に入ってからはなにかとお世話になっていたので、石川中佐もO大佐に対しては少なからず遠慮がちだったので、それ以上は何も言わなかった。(O大佐は岡敬純大佐)