石川中佐はこれで引き下がったら犬死になると思った。
石川中佐「しかしその後、民政党内閣で緊縮財政を強行し、天引き予算でうむを言わせない予算削減を繰り返したことは、あなたも承知のはずだ」と言って、さらに
石川中佐「それだけ海軍の軍備にも穴があいてきている。このままでは誰だって対米関係は引き受けたなどと言えるはずはない」
そして、ここで石川中佐は早急の問題として弾丸の充実が先決であると説明した。すると
森「よしわかった。いくらいるか」
石川中佐「六十一議会で三千万円、その後は情勢に応じて考えなくてはならない」
森「引き受けた」
話は20分ぐらいで、あっさり片付いてしまった。
石川中佐「あなたは私をだましてか帰すんじゃないでしょうね」
森「おれは森だよ」(ドンと胸をたたいて笑った)
石川中佐は高橋三吉軍令部次長に報告し、海軍大臣とも協議し予算要求の提出となった。
六十一議会では、この海軍の予算要求は、そのまま通過し、海軍は直ちに弾丸の更新、充実にとりかかった。
昭和10年、石川中佐は第二艦隊司令長官・米内光政中将のもとで参謀として勤務していた。
同年の終わり頃石川中佐は米内長官から、当時内閣参議官であったA大佐の後任として予定されているから、その含みで世界情勢を視察してこいと命じられた。
石川中佐は世界情勢を探求してくる事は最も望むところであった。
石川中佐は昭和11年1月初め日本を出発し、フィリピン、蘭領インド(インドネシア)、方面、欧州、米国を視察した。
蘭領インド(インドネシア)当局は当時からおかしいほど日本に対して警戒的であった。石川中佐がジョクジャカルタからバンドン行きの汽車に乗った時、たまたまオランダ海軍士官と差し向かいになった。
彼は石川中佐に「君は支那人か」と聞くので、石川中佐はパスポートを示し「日本の海軍士官で単なる視察旅行である」と言うと
彼はぶしつけに「そうではあるまい。スパイにきたのだろう」と言った。
石川中佐はおかしくもあるし、腹も立って「君は日本海軍の勢力を知っているか」と反問すると、「そんなことは知らないよ」といった調子だった。
石川中佐は押し返して「海軍士官として東洋に来ていて、日本海軍の勢力を知らないとは何事だ。日本の海軍はオランダの海軍など問題にはしていないが、私は蘭印の海軍勢力は大体知っている」と話した。続けて
「巡洋艦二隻、駆逐艦四隻、潜水艦少数だろう。万一日本が蘭印で武力行使に出なければならない状態になれば、勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある。スパイの対象になるようなものは皆無だ」と断定し
「第一、日本と蘭印との間に武力衝突を予想しなければならないような問題が私には見当たらないが、それとも君の方でなにかあるのか」と言った。
それで相手がようやく石川中佐がスパイでないと分かってくれた。
ところが、シンガポール出航当日になって石川中佐はイギリス高等法務院へ出頭せよという司令を受けた。問答の末、開放されたが、法務院ではイギリス士官とオランダ士官が同席していた。
このことから、石川中佐はイギリスとオランダの間に、日本に対する秘密協定がすでに結ばれているに違いない事を知った。
シンガポールのイギリス軍大根拠地を要として、南東から東に伸びる蘭印・フィリピンの線と、北東に向かう仏印・タイ・南支の線とによって、日本の南方をとりまく対日包囲網が結成されつつある事を感じた。
この包囲網はアメリカが強く推し進めている極東政策と気脈を通ずるものにほかなかった。
この南方包囲網は政治的軍事的ばかりでなく、経済的にも日本の発展を圧迫するものであった。やがてこの包囲網がABCDラインとして強固に結成されていったのである。
石川中佐は3月初頭マルセイユに上陸し、いよいよ欧州視察の第一歩を踏み出した。
石川中佐がマルセイユからベルリンに向かう途中、3月7日、ドイツ国防軍はマインツ、コブレンツ、ケルン、フランクフルトなど、ライン非武装地帯の主要都市に進駐した。
石川中佐は途中でそれを知ってケルンで途中下車し、市中を回った。市内は意外と静かだったがツェッペリン飛行船が数隻、駅前の寺院の上をかすめて飛んで域ドイツ国民の意気を反映するようで印象的であった。
石川中佐「しかしその後、民政党内閣で緊縮財政を強行し、天引き予算でうむを言わせない予算削減を繰り返したことは、あなたも承知のはずだ」と言って、さらに
石川中佐「それだけ海軍の軍備にも穴があいてきている。このままでは誰だって対米関係は引き受けたなどと言えるはずはない」
そして、ここで石川中佐は早急の問題として弾丸の充実が先決であると説明した。すると
森「よしわかった。いくらいるか」
石川中佐「六十一議会で三千万円、その後は情勢に応じて考えなくてはならない」
森「引き受けた」
話は20分ぐらいで、あっさり片付いてしまった。
石川中佐「あなたは私をだましてか帰すんじゃないでしょうね」
森「おれは森だよ」(ドンと胸をたたいて笑った)
石川中佐は高橋三吉軍令部次長に報告し、海軍大臣とも協議し予算要求の提出となった。
六十一議会では、この海軍の予算要求は、そのまま通過し、海軍は直ちに弾丸の更新、充実にとりかかった。
昭和10年、石川中佐は第二艦隊司令長官・米内光政中将のもとで参謀として勤務していた。
同年の終わり頃石川中佐は米内長官から、当時内閣参議官であったA大佐の後任として予定されているから、その含みで世界情勢を視察してこいと命じられた。
石川中佐は世界情勢を探求してくる事は最も望むところであった。
石川中佐は昭和11年1月初め日本を出発し、フィリピン、蘭領インド(インドネシア)、方面、欧州、米国を視察した。
蘭領インド(インドネシア)当局は当時からおかしいほど日本に対して警戒的であった。石川中佐がジョクジャカルタからバンドン行きの汽車に乗った時、たまたまオランダ海軍士官と差し向かいになった。
彼は石川中佐に「君は支那人か」と聞くので、石川中佐はパスポートを示し「日本の海軍士官で単なる視察旅行である」と言うと
彼はぶしつけに「そうではあるまい。スパイにきたのだろう」と言った。
石川中佐はおかしくもあるし、腹も立って「君は日本海軍の勢力を知っているか」と反問すると、「そんなことは知らないよ」といった調子だった。
石川中佐は押し返して「海軍士官として東洋に来ていて、日本海軍の勢力を知らないとは何事だ。日本の海軍はオランダの海軍など問題にはしていないが、私は蘭印の海軍勢力は大体知っている」と話した。続けて
「巡洋艦二隻、駆逐艦四隻、潜水艦少数だろう。万一日本が蘭印で武力行使に出なければならない状態になれば、勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある。スパイの対象になるようなものは皆無だ」と断定し
「第一、日本と蘭印との間に武力衝突を予想しなければならないような問題が私には見当たらないが、それとも君の方でなにかあるのか」と言った。
それで相手がようやく石川中佐がスパイでないと分かってくれた。
ところが、シンガポール出航当日になって石川中佐はイギリス高等法務院へ出頭せよという司令を受けた。問答の末、開放されたが、法務院ではイギリス士官とオランダ士官が同席していた。
このことから、石川中佐はイギリスとオランダの間に、日本に対する秘密協定がすでに結ばれているに違いない事を知った。
シンガポールのイギリス軍大根拠地を要として、南東から東に伸びる蘭印・フィリピンの線と、北東に向かう仏印・タイ・南支の線とによって、日本の南方をとりまく対日包囲網が結成されつつある事を感じた。
この包囲網はアメリカが強く推し進めている極東政策と気脈を通ずるものにほかなかった。
この南方包囲網は政治的軍事的ばかりでなく、経済的にも日本の発展を圧迫するものであった。やがてこの包囲網がABCDラインとして強固に結成されていったのである。
石川中佐は3月初頭マルセイユに上陸し、いよいよ欧州視察の第一歩を踏み出した。
石川中佐がマルセイユからベルリンに向かう途中、3月7日、ドイツ国防軍はマインツ、コブレンツ、ケルン、フランクフルトなど、ライン非武装地帯の主要都市に進駐した。
石川中佐は途中でそれを知ってケルンで途中下車し、市中を回った。市内は意外と静かだったがツェッペリン飛行船が数隻、駅前の寺院の上をかすめて飛んで域ドイツ国民の意気を反映するようで印象的であった。