陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

406.板倉光馬海軍少佐(6)後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった

2014年01月03日 | 板倉光馬海軍少佐
 遠洋航海を終わって、板倉候補生が重巡洋艦「足柄」(一四〇〇〇トン)の乗組みを命じられたのは昭和九年七月三十日だった。配置は砲術士だった。

 「伊号潜水艦」(板倉光馬・光人社名作戦記)によると、重巡洋艦「足柄」を退艦後、候補生最後の仕上げとして、術科学校を駆け足で回った。最後の霞ヶ浦航空隊でも約一ヶ月の実習が行われた。

 この間に素質や適性がテストされる。当時は同期生の半数以上がパイロットを熱望していた。板倉光馬候補生は、躍動する黒鉄の美しさに魅せられて、海軍兵学校に入ったのだが、いつしか、飛行機乗りに憧れて、戦闘機パイロットを夢見ていた。

 当時、パイロットになるには、厳重な身体検査、緻密な心理適性検査のあと、学課と実習の総合成績で合否が決まった。競争率も激しかった。

 板倉候補生は座学もまずまずの成績をおさめ、あらゆるテストに好成績をおさめた。やがて、自分でスティックを握る日がやってきた。

 飛行服を着、飛行帽をかぶり、飛行靴をはき、革手袋を手にして鏡に向かうと、格好だけはあっぱれな一人前の飛行将校が微笑みかけた。

 飛行実習のわずか七回か八回目には、はやくもスロットルバルブの操作を許され、板倉候補生は得意の絶頂にあった。

 航空隊では、隊内食が支給されるので食費がいらない。しかも、たっぷりあってうまい。おまけに搭乗手当てがつくので、横須賀や田浦のときのように、みみっちい気持ちはない。衣食たって礼節を知ったわけだ。

 板倉候補生は、ときには、気の合った連中と土浦に出かけて飲んだ。有り金をはたき、夜道を軍歌を歌いながら帰ると、酔いが回って、学生舎に着くなり、二段ベッドを片っ端から揺り動かし、寝ているものを叩き起こした。これは昔からのしきたりで、時たまではあるが、教官に襲われることもあった。

 飛行適性の最終試験の日がやってきた。板倉候補生は自信満々で臨んだ。筑波山と富士山を結ぶ線上で、直線飛行と宙返りを見事にやってのけた。教官が振り向いて大きくうなずいた。

 あとはバーチカルターン(垂直旋回・バンク角45度以上)が上手く行けば合格間違いなしだったので、板倉候補生は胸がときめき、心が爽やかにおどった。

 天気は上々で、眼下には大利根の流れがゆうゆうとして銀色に光っていた。練習機の高度は三〇〇〇メートルだった。あれほど広い飛行場が猫の額のように小さく見えた。

 教官の命令で板倉候補生はスロットルバルブを全開して、増速しながらスティックを左に倒すとともに。左足を思いっきり踏み出した。

 機体はグーと傾きながら左に急旋回をはじめた。遠心力で体は操縦席に押し付けられ、つぶれそうだった。関東平野がグルリと回って水平方向に見え、鮮やかにバーチカルターンに入った。

 その瞬間、機体はグラリと機首を落とした。見る間にゆっくりと木の葉が舞うように緩転錐揉みに入ってしまった。

 「しまった!」。板倉候補生はあわてて、スティックを一杯に引いて機首を起そうとしたが、手ごたえがなかった。水平線がグルグルと回って目が回りそうになった。

 そのうち、前席の教官が「スティック放せ、放せ!」と伝声管で、怒鳴っているのにやっと気が付いた。だが、板倉候補生は「ここで放したら百年目だ! いままでの夢が水の泡になる」とばかり、必死になってスティックを握り締めたまま胸元に引き付けて放さなかった。

 高度計の針がグングン下がっていった。前席から伝わる教官の声も必死だった。後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった。それで、板倉候補生はついに断念してスティックを放した。高度は六〇〇メートルだった。

 教官は背を丸めるようにして、スティックを前に倒し、いったん急降下の姿勢に入った。練習機の赤トンボは、ようやく錐揉みから抜け出して機首を地上に向けたが、そのまま大地に突き刺さるように突っ込んでいった。

 地表が吸い上げられるようにぐんぐん迫ってきて、「もう駄目だ」と思った瞬間、教官はグーと腹をよじるようにしてスティックを引いた。

 練習機はパラパラと松の木の枝を払いながら、地上すれすれで、かろうじて水平飛行に戻った。真っ赤に塗った救急車がサイレンを鳴らしながら走ってきた。