宇垣参謀長は「機動部隊はもはや戦場からずいぶん離れてしまった。一杯一杯のところで作戦を終えて離脱しようとしているものを、もう一度立ち上がらせるためには、これを怒らすよりほかに方法はない。統帥の根源は人格である。そんな非人間的な無法な命令を出すことが、どうしてできるものか」と主張した。
黒島先任参謀はひるまなかった。「われわれは軍人です。武人として、この戦機を逸することこそ、どうしてできるというのですか」。
宇垣参謀長はますます激して言った。「無謀な強襲となる。戦機とはそういうものではない」。
「長官、もう一度突っ込ませましょう」と黒島参謀は声を震わせて言った。山本五十六司令長官は黙って考えていた。激論は続けられた。
宇垣参謀長は「敵飛行機の損害程度が不明のまま強襲することは、かならずや大きな痛手を蒙ることになる」と言い、「将棋にも指しすぎということがある」と強く突っぱねた。
「しかし」と黒島先任参謀は強弁した。「米太平洋艦隊が実際に行動不能におちいったかどうか、今後の作戦上、その疑いを取り除くためにも、再攻撃を加えてみるべきであります」。
山本司令長官は腕を組んだままの姿勢で論戦を見守って一言も発しなかった。その最後の決定を求めるかのように、宇垣参謀長が言った。「こうなった以上、見送るよりほかに方法がないと思いますが」。
山本司令長官は苦渋の色をありありと浮かべながら、宇垣参謀長に深くうなずいた。今回は宇垣参謀長に同意したのだ。
そして山本司令長官は静かに言った。「もちろん、再撃に次ぐ再撃をやれば満点だ。自分もそれを希望するが、南雲部隊の被害状況が少しも分からぬから、ここは現場の機動部隊長官の判断に任せておこう。それに、今となっては、もう遅すぎる」
さらに山本司令長官は「そんなことをいわなくとも、やれるものにはやれる。遠くからどんなに突っついても、やれぬものにはやれぬ。南雲はやらないだろう」とも言った。
この山本司令長官の決定で、機動部隊に対する真珠湾再度攻撃の電報命令は、ついに打たれず、すべては終わった。国民を狂喜させた真珠湾奇襲という破天荒な作戦は急速に幕をおろした。
山本司令長官は、作戦室を出るとき、「戦はこれからだ。さあ、どうするか。いい考えはあるか」と参謀達に問いかけたという。山本司令長官はその後の作戦を考えていた。
太平洋上の戦艦長門の作戦室で大激論が起こっていたとも知らぬ東京の海軍中央は、勝利に強い満足感を味わっていた。
はじめは連合艦隊からの脅迫まがいの要請があったので、しぶしぶ認めたまでの半ば腰をひいた真珠湾奇襲作戦だったが、それがこの大戦果をあげようとは、本当に予想さえしないことだった。
軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)は「だから戦はやってみなければわからん」とやたらに、はしゃいで上機嫌だった。
海軍省も同様で、軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)を真ん中に、佐官十四、五名がコップや茶碗を挙げ、万歳を腹の底から叫んでいる写真が新聞を飾った。
報道課長・平出英夫大佐(海兵四四・海大選科)は新聞記者に「これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ」と喜びをあらわにした。
連合艦隊作戦室の激論に対して、海軍中央は無敵の南雲部隊が風の如く襲い、風の如く去ることに、なんら依存はなかったのである。現地から離れていると、それほど鈍感であった。
長門の作戦室には、海軍中央から、どんどん祝電が送り込まれた。軍令部総長と海軍大臣連名による祝電を皮切りに東條首相、杉山元参謀総長からも、来た。
ところが、長門の作戦室は東京からの躍るような文字をみるたびに沈み込んでいった。作戦室の参謀達の胸中には、はたして、一太刀だけで鉾を収めたのが正しかったのか、という、いまだに踏んぎれぬ想いがゆたっていた。
だから、「返電はどうしましょうか」とたずねる通信士にたいして、宇垣参謀長は当然のことのように「作戦行動中だ。必要なし。返電は帰投してからとする」と言った。己に対して怒っているような、すっきりしないものを、感じていた。
「凡将・山本五十六」(生出寿・徳間書店)によると、昭和十六年十二月二十三日、真珠湾攻撃を終えた南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)指揮する機動部隊は、瀬戸内海の岩国市の沖、柱島泊地に帰ってきた。
翌日、山本連合艦隊司令長官は機動部隊旗艦の空母赤城におもむき、各級指揮官を前にして次の様に訓示した(要約)。
「真の戦いはこれからである。この奇襲の一戦に心おごるようでは、強兵とはいいがたい。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこのことである。次の戦いに備え一層の戒心を望む」
奇襲攻撃に成功し大戦果をあげたのだから、山本司令長官の訓示は、もう少しはほめても良かったと言われている。だが、艦隊派から以前、煮え湯を飲まされた条約派の山本司令長官としては、艦隊派の中核、南雲中将に根底では、快く思っていなかったとも言われているが、真意は不明である。
黒島先任参謀はひるまなかった。「われわれは軍人です。武人として、この戦機を逸することこそ、どうしてできるというのですか」。
宇垣参謀長はますます激して言った。「無謀な強襲となる。戦機とはそういうものではない」。
「長官、もう一度突っ込ませましょう」と黒島参謀は声を震わせて言った。山本五十六司令長官は黙って考えていた。激論は続けられた。
宇垣参謀長は「敵飛行機の損害程度が不明のまま強襲することは、かならずや大きな痛手を蒙ることになる」と言い、「将棋にも指しすぎということがある」と強く突っぱねた。
「しかし」と黒島先任参謀は強弁した。「米太平洋艦隊が実際に行動不能におちいったかどうか、今後の作戦上、その疑いを取り除くためにも、再攻撃を加えてみるべきであります」。
山本司令長官は腕を組んだままの姿勢で論戦を見守って一言も発しなかった。その最後の決定を求めるかのように、宇垣参謀長が言った。「こうなった以上、見送るよりほかに方法がないと思いますが」。
山本司令長官は苦渋の色をありありと浮かべながら、宇垣参謀長に深くうなずいた。今回は宇垣参謀長に同意したのだ。
そして山本司令長官は静かに言った。「もちろん、再撃に次ぐ再撃をやれば満点だ。自分もそれを希望するが、南雲部隊の被害状況が少しも分からぬから、ここは現場の機動部隊長官の判断に任せておこう。それに、今となっては、もう遅すぎる」
さらに山本司令長官は「そんなことをいわなくとも、やれるものにはやれる。遠くからどんなに突っついても、やれぬものにはやれぬ。南雲はやらないだろう」とも言った。
この山本司令長官の決定で、機動部隊に対する真珠湾再度攻撃の電報命令は、ついに打たれず、すべては終わった。国民を狂喜させた真珠湾奇襲という破天荒な作戦は急速に幕をおろした。
山本司令長官は、作戦室を出るとき、「戦はこれからだ。さあ、どうするか。いい考えはあるか」と参謀達に問いかけたという。山本司令長官はその後の作戦を考えていた。
太平洋上の戦艦長門の作戦室で大激論が起こっていたとも知らぬ東京の海軍中央は、勝利に強い満足感を味わっていた。
はじめは連合艦隊からの脅迫まがいの要請があったので、しぶしぶ認めたまでの半ば腰をひいた真珠湾奇襲作戦だったが、それがこの大戦果をあげようとは、本当に予想さえしないことだった。
軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)は「だから戦はやってみなければわからん」とやたらに、はしゃいで上機嫌だった。
海軍省も同様で、軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)を真ん中に、佐官十四、五名がコップや茶碗を挙げ、万歳を腹の底から叫んでいる写真が新聞を飾った。
報道課長・平出英夫大佐(海兵四四・海大選科)は新聞記者に「これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ」と喜びをあらわにした。
連合艦隊作戦室の激論に対して、海軍中央は無敵の南雲部隊が風の如く襲い、風の如く去ることに、なんら依存はなかったのである。現地から離れていると、それほど鈍感であった。
長門の作戦室には、海軍中央から、どんどん祝電が送り込まれた。軍令部総長と海軍大臣連名による祝電を皮切りに東條首相、杉山元参謀総長からも、来た。
ところが、長門の作戦室は東京からの躍るような文字をみるたびに沈み込んでいった。作戦室の参謀達の胸中には、はたして、一太刀だけで鉾を収めたのが正しかったのか、という、いまだに踏んぎれぬ想いがゆたっていた。
だから、「返電はどうしましょうか」とたずねる通信士にたいして、宇垣参謀長は当然のことのように「作戦行動中だ。必要なし。返電は帰投してからとする」と言った。己に対して怒っているような、すっきりしないものを、感じていた。
「凡将・山本五十六」(生出寿・徳間書店)によると、昭和十六年十二月二十三日、真珠湾攻撃を終えた南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)指揮する機動部隊は、瀬戸内海の岩国市の沖、柱島泊地に帰ってきた。
翌日、山本連合艦隊司令長官は機動部隊旗艦の空母赤城におもむき、各級指揮官を前にして次の様に訓示した(要約)。
「真の戦いはこれからである。この奇襲の一戦に心おごるようでは、強兵とはいいがたい。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこのことである。次の戦いに備え一層の戒心を望む」
奇襲攻撃に成功し大戦果をあげたのだから、山本司令長官の訓示は、もう少しはほめても良かったと言われている。だが、艦隊派から以前、煮え湯を飲まされた条約派の山本司令長官としては、艦隊派の中核、南雲中将に根底では、快く思っていなかったとも言われているが、真意は不明である。