山本五十六は、大変負けず嫌いの性格で、また、恐怖心を押さえる強い心を持っていた。一方、常に合理性を追求する現実主義者で無神論者でもあった。
この二つの人格的要素が山本五十六という軍人の戦歴、ひいては日本の第二次世界大戦史に多大な影響を与えた。
山本五十六の負けず嫌いや恐怖心を押さえる強い心については、具体的ないくつかの話が残っている。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六が子供の頃、学校友達の母親が「五十六さん、おみしゃんは何でもようお上がりだが、この鉛筆は、いくら五十さんでも食べられまいがのう」と言った。
すると、山本はその場で、いきなり鉛筆を取って、黙ってがりがり食べ出したという。
山本五十六が大尉時代、海軍兵学校同期で親友の堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)と一緒に湯河原に遊びにいき、ミカンを一度に四十七個食べて、とうとう盲腸炎になった。
その時、手術を受けるのに、山本大尉は医者に、麻酔をかけないでやってほしいと主張した。あとで、何故そんなことをしたのかと尋ねられて山本大尉は、「切腹する時、どのくらい痛いか、試してみたんだ」と言った。
また、米国駐在を命じられ、アメリカに向う客船の中で、山本少佐が余興で外国人たちの前で、ホールの危ない手すりの上で逆立ちをやって見せたという話もある。
米内光政大将(海兵二九・海大一二)の談話によれば、普通の人は自動車に乗って七十キロから八十キロまでのスピードでは、平気な顔をしているが、時速百キロを越すと恐怖心を起こす。
また、船では二十四ノット以上は気味が悪い。火山の噴火口では絶壁のふち一メートル以内に近づけば手足が固くなり恐怖心が起こる。軍艦のマスト登りでも同様である。
ところが山本五十六は、それらのことが一向に平気であったと米内は話している。軍艦のマスト登りも、山本は熟練した水兵と少しも変わりなく、平気でスルスルと登っていったという。
だが、山本五十六の負けず嫌いの性格や、恐怖心を押さえる強い心が最後に災いをもたらした。昭和十八年四月十八日、周囲の忠告を跳ね除け、前線視察に飛び立ち、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍戦闘機P-38に待ち伏せされ、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死を遂げた。
終戦時、米国戦艦ミズーリー号艦上で日本の降伏文書調印使節の一員として参加した横山一郎海軍少将(海兵四七・海大二八首席)は戦後、昭和三十年に「宇宙の広大さからすると、人間などは虫けらかゴミみたいなものだ」と悟ってクリスチャンになった人だ。
その横山氏が山本五十六大将を次の様に語っている。
「山本さんは神を信仰する人ではなかった。だから、自分にできないことが可能になるような祈りを持っていなかった。自分に出来る範囲で一生懸命やったが、やはり力がおよばなかった」
「東郷さんは神への信仰が篤かった。たとえば、日露戦争のとき、出征後最初に『天佑を確信して連合艦隊の大成功を遂げ』という命令を出している」
「また、日本海海戦の詳報でも、冒頭に『天佑と神助により』と書き、末尾に『御稜威の致す所して固より人為の能くすべきにあらず。特に我が軍の損失致傷の僅少なりしは歴代神霊の加護に由る』と記している」
「僕はそこが大事なところだと思う。天命を信じ、天命を行えるようなことをやらなければ、ものごとは成就しない。それが戦争の場合には戦運というものになるのだが、東郷さんにはそれがあった。バルチック艦隊が対馬海峡に来たのは、東郷さんに戦運があったからだ」
「秋山(真之)さん(参謀)は合理主義のかたまりみたいにいわれているが、その上に信仰があった。だから、やはり秋山さんにも戦運があったと思う。日露戦争が終わり、最後には神がかりになってしまったほどの人だった」
「山本さんは、最初はうまくいったが、あとは天命がマイナスに働くようになり、うまくいかなかった。山本さんには信仰が無く、そのために戦運も無かったのだと思う」
<山本五十六海軍大将プロフィル>
明治十七年四月四日新潟県長岡市生まれ。旧姓は高野。旧長岡藩士・高野貞吉の六男。生まれたときの父の年齢が五十六歳だったので五十六と名前がつけられた。長岡町立阪之上尋常小学校卒。新潟県立長岡中学校卒。
明治三十四年十二月(十七歳)海軍兵学校入学(入学成績二番)。
明治三十七年十一月(二十歳)海軍兵学校(三二期)卒。卒業成績百九十二人中十三番。
明治三十八年一月三日「日進」乗組。五月二十七日、第一戦隊旗艦「日進」で、日本海海戦に少尉候補生、艦長付として参加。砲の早発事故で左手の人差し指と中指を失う。八月三十一日海軍少尉、横須賀鎮守府付。
明治三十九年「須磨」「鹿島」「見島」乗組。
明治四十年八月五日(二十三歳)砲術学校普通科学生。九月二十八日海軍中尉。十二月十六日水雷学校普通科学生。
明治四十二年十月十一日(二十五歳)海軍大尉、「宗谷」分隊長。
明治四十三年十二月一日海軍大学校乙種学生。
明治四十四年五月二十二日砲術学校高等科学生、同校首席卒業。十二月一日砲術学校教官兼分隊長。海軍経理学校教官。
大正元年十二月一日佐世保予備艦隊参謀。
大正二年十二月一日「新高」砲術長。
大正三年十二月一日(三十歳)海軍大学校甲種学生。
大正四年旧長岡藩家老の山本家を相続、以後高野から山本姓になり、山本五十六と名乗る。十二月海軍大学校甲種学生卒(一四期)。十二月十三日海軍少佐。
大正五年十二月一日第二艦隊参謀。十二月二十五日待命。
大正六年六月九日(三十三歳)休職。七月二十一日軍務局員。七月二十七日兼教育本部長。
大正七年八月三十一日(三十四歳)旧会津藩士の娘である三橋礼子と結婚。媒酌人は侍従武官の四竃孝輔海軍大佐。
大正八年四月五日(三十五歳)米国駐在。ハーバード大学留学。十二月一日海軍中佐。
大正十年八月十日「北上」副長。十二月一日海軍大学校教官。
大正十二年六月(三十九歳)に十日欧米各国出張命令。十二月一日海軍大佐。
大正十三年十二月一日霞ヶ浦航空隊副長兼教頭。
大正十四年十二月一日在米駐在武官。
昭和三年八月二十日巡洋艦「五十鈴」艦長。十二月十日空母「赤城」艦長。
昭和四年十一月十二日(四十五歳)第一次ロンドン軍縮会議全権委員次席随員。十一月三十日海軍少将。
昭和五年十二月一日航空本部技術部長。
昭和八年十月三日第一航空戦隊司令官。
昭和九年九月七日(五十歳)第二次ロンドン軍縮会議予備交渉海軍首席代表。十一月十五日海軍中将。
昭和十年十二月二日航空本部長。
昭和十一年十二月一日(五十二歳)広田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任。
昭和十三年四月二十五日米内光政海軍大臣の海軍次官兼航空本部長。
昭和十四年八月三十日第一艦隊司令官兼連合艦隊司令長官。
昭和十五年十一月十五日(五十六歳)海軍大将。
昭和十六年一月一日大西瀧治郎少将に真珠湾攻撃の立案を指示。十二月八日真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦。
昭和十八年四月十八日一式陸攻で前線視察に向う途中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機の攻撃を受け、戦死(海軍甲事件)。享年五十九歳。元帥、正三位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章。ドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章授与(この勲章は百五十九名しか授与されていない。山本五十六はただ一人の外国人受章者)。六月五日日比谷公園で国葬。葬儀委員長は米内光政。多摩墓地に埋葬。遺骨は長岡市の長興寺の山本家累代の墓に分骨。
この二つの人格的要素が山本五十六という軍人の戦歴、ひいては日本の第二次世界大戦史に多大な影響を与えた。
山本五十六の負けず嫌いや恐怖心を押さえる強い心については、具体的ないくつかの話が残っている。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六が子供の頃、学校友達の母親が「五十六さん、おみしゃんは何でもようお上がりだが、この鉛筆は、いくら五十さんでも食べられまいがのう」と言った。
すると、山本はその場で、いきなり鉛筆を取って、黙ってがりがり食べ出したという。
山本五十六が大尉時代、海軍兵学校同期で親友の堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)と一緒に湯河原に遊びにいき、ミカンを一度に四十七個食べて、とうとう盲腸炎になった。
その時、手術を受けるのに、山本大尉は医者に、麻酔をかけないでやってほしいと主張した。あとで、何故そんなことをしたのかと尋ねられて山本大尉は、「切腹する時、どのくらい痛いか、試してみたんだ」と言った。
また、米国駐在を命じられ、アメリカに向う客船の中で、山本少佐が余興で外国人たちの前で、ホールの危ない手すりの上で逆立ちをやって見せたという話もある。
米内光政大将(海兵二九・海大一二)の談話によれば、普通の人は自動車に乗って七十キロから八十キロまでのスピードでは、平気な顔をしているが、時速百キロを越すと恐怖心を起こす。
また、船では二十四ノット以上は気味が悪い。火山の噴火口では絶壁のふち一メートル以内に近づけば手足が固くなり恐怖心が起こる。軍艦のマスト登りでも同様である。
ところが山本五十六は、それらのことが一向に平気であったと米内は話している。軍艦のマスト登りも、山本は熟練した水兵と少しも変わりなく、平気でスルスルと登っていったという。
だが、山本五十六の負けず嫌いの性格や、恐怖心を押さえる強い心が最後に災いをもたらした。昭和十八年四月十八日、周囲の忠告を跳ね除け、前線視察に飛び立ち、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍戦闘機P-38に待ち伏せされ、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死を遂げた。
終戦時、米国戦艦ミズーリー号艦上で日本の降伏文書調印使節の一員として参加した横山一郎海軍少将(海兵四七・海大二八首席)は戦後、昭和三十年に「宇宙の広大さからすると、人間などは虫けらかゴミみたいなものだ」と悟ってクリスチャンになった人だ。
その横山氏が山本五十六大将を次の様に語っている。
「山本さんは神を信仰する人ではなかった。だから、自分にできないことが可能になるような祈りを持っていなかった。自分に出来る範囲で一生懸命やったが、やはり力がおよばなかった」
「東郷さんは神への信仰が篤かった。たとえば、日露戦争のとき、出征後最初に『天佑を確信して連合艦隊の大成功を遂げ』という命令を出している」
「また、日本海海戦の詳報でも、冒頭に『天佑と神助により』と書き、末尾に『御稜威の致す所して固より人為の能くすべきにあらず。特に我が軍の損失致傷の僅少なりしは歴代神霊の加護に由る』と記している」
「僕はそこが大事なところだと思う。天命を信じ、天命を行えるようなことをやらなければ、ものごとは成就しない。それが戦争の場合には戦運というものになるのだが、東郷さんにはそれがあった。バルチック艦隊が対馬海峡に来たのは、東郷さんに戦運があったからだ」
「秋山(真之)さん(参謀)は合理主義のかたまりみたいにいわれているが、その上に信仰があった。だから、やはり秋山さんにも戦運があったと思う。日露戦争が終わり、最後には神がかりになってしまったほどの人だった」
「山本さんは、最初はうまくいったが、あとは天命がマイナスに働くようになり、うまくいかなかった。山本さんには信仰が無く、そのために戦運も無かったのだと思う」
<山本五十六海軍大将プロフィル>
明治十七年四月四日新潟県長岡市生まれ。旧姓は高野。旧長岡藩士・高野貞吉の六男。生まれたときの父の年齢が五十六歳だったので五十六と名前がつけられた。長岡町立阪之上尋常小学校卒。新潟県立長岡中学校卒。
明治三十四年十二月(十七歳)海軍兵学校入学(入学成績二番)。
明治三十七年十一月(二十歳)海軍兵学校(三二期)卒。卒業成績百九十二人中十三番。
明治三十八年一月三日「日進」乗組。五月二十七日、第一戦隊旗艦「日進」で、日本海海戦に少尉候補生、艦長付として参加。砲の早発事故で左手の人差し指と中指を失う。八月三十一日海軍少尉、横須賀鎮守府付。
明治三十九年「須磨」「鹿島」「見島」乗組。
明治四十年八月五日(二十三歳)砲術学校普通科学生。九月二十八日海軍中尉。十二月十六日水雷学校普通科学生。
明治四十二年十月十一日(二十五歳)海軍大尉、「宗谷」分隊長。
明治四十三年十二月一日海軍大学校乙種学生。
明治四十四年五月二十二日砲術学校高等科学生、同校首席卒業。十二月一日砲術学校教官兼分隊長。海軍経理学校教官。
大正元年十二月一日佐世保予備艦隊参謀。
大正二年十二月一日「新高」砲術長。
大正三年十二月一日(三十歳)海軍大学校甲種学生。
大正四年旧長岡藩家老の山本家を相続、以後高野から山本姓になり、山本五十六と名乗る。十二月海軍大学校甲種学生卒(一四期)。十二月十三日海軍少佐。
大正五年十二月一日第二艦隊参謀。十二月二十五日待命。
大正六年六月九日(三十三歳)休職。七月二十一日軍務局員。七月二十七日兼教育本部長。
大正七年八月三十一日(三十四歳)旧会津藩士の娘である三橋礼子と結婚。媒酌人は侍従武官の四竃孝輔海軍大佐。
大正八年四月五日(三十五歳)米国駐在。ハーバード大学留学。十二月一日海軍中佐。
大正十年八月十日「北上」副長。十二月一日海軍大学校教官。
大正十二年六月(三十九歳)に十日欧米各国出張命令。十二月一日海軍大佐。
大正十三年十二月一日霞ヶ浦航空隊副長兼教頭。
大正十四年十二月一日在米駐在武官。
昭和三年八月二十日巡洋艦「五十鈴」艦長。十二月十日空母「赤城」艦長。
昭和四年十一月十二日(四十五歳)第一次ロンドン軍縮会議全権委員次席随員。十一月三十日海軍少将。
昭和五年十二月一日航空本部技術部長。
昭和八年十月三日第一航空戦隊司令官。
昭和九年九月七日(五十歳)第二次ロンドン軍縮会議予備交渉海軍首席代表。十一月十五日海軍中将。
昭和十年十二月二日航空本部長。
昭和十一年十二月一日(五十二歳)広田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任。
昭和十三年四月二十五日米内光政海軍大臣の海軍次官兼航空本部長。
昭和十四年八月三十日第一艦隊司令官兼連合艦隊司令長官。
昭和十五年十一月十五日(五十六歳)海軍大将。
昭和十六年一月一日大西瀧治郎少将に真珠湾攻撃の立案を指示。十二月八日真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦。
昭和十八年四月十八日一式陸攻で前線視察に向う途中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機の攻撃を受け、戦死(海軍甲事件)。享年五十九歳。元帥、正三位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章。ドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章授与(この勲章は百五十九名しか授与されていない。山本五十六はただ一人の外国人受章者)。六月五日日比谷公園で国葬。葬儀委員長は米内光政。多摩墓地に埋葬。遺骨は長岡市の長興寺の山本家累代の墓に分骨。