真珠湾奇襲攻撃は本決まりになった。黒島大佐は山本長官の期待に応えて、海軍中央に風穴をあけることに成功した。周囲から奇人・変人とも言われながらも、動じない強固の意志力が真珠湾奇襲作戦を動かした。
「太平洋戦争と富岡定俊」(史料調査会編・軍事研究社)の中で、富岡定俊元海軍少将(男爵)は、軍令部第一課長当時、黒島大佐とハワイ奇襲作戦で大激論をかわしたことについて、戦後、次のように述べている(要旨)。
「私が、連合艦隊の先任参謀だった黒島参謀とハワイ攻撃のことで大激論をかわしたと一般に伝えられ、これがまた軍令部がハワイ作戦に最後まで反対し、連合艦隊側と激突したようにも書かれているが、それは真相ではない」
「軍令部はハワイ作戦そのもののプリンシプルに反対したのではなく、ハワイ作戦に投入する兵力量の問題で違憲を異にしたのである」
「軍令部は全海軍作戦を大局的にみて、まず南方要域の確保に重点を置いていたから、いきおい投機的なハワイ作戦に、トラの子の空母六隻を全力投入することに反対していたので、空母三隻くらいならすぐOKを出したのである」
「連合艦隊は最後には空母四隻でもいいからと言ってきたことがある位だ。黒島参謀は、私との折衝のテクニックのためか、『連合艦隊案が通らなければ山本長官は辞職される』とまで言っていたが、私は山本司令長官の進退と、戦略、戦術とは別事であると思っていたし、また山本さんが辞職されるなどということも考えてはいなかった」
「こういうことがあってから、陸軍参謀本部の作戦課長が、快く満州から陸軍航空兵力を南部仏印に回してくれたので、これで後顧の憂いを断ち、ハワイへ空母を全力投入することに決まったのであって、問題はあくまで兵力量であり、それも乏しい中でのヤリクリの結果であった」。
以上のように当時を振り返って、富岡元少将は、ハワイ奇襲作戦に反対した軍令部の立場を述べている。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃飛行機総指揮官・淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・真珠湾攻撃飛行機総指揮官・横須賀航空隊教官・海大教官・連合艦隊参謀・大佐・戦後キリスト教伝道・大阪水交会会長)は、第一次攻撃隊、第一集団の九七艦攻水平爆撃機五十機の一番機に乗っていた。
「ト・ト・ト」(全軍突撃セヨ)のあと、淵田美津雄中佐は、午前三時二十三分(日本時間)、空母機動部隊、第一航空艦隊(司令官・南雲忠一中将)の旗艦、空母「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を打電した。連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃は開始された。
真珠湾奇襲攻撃の戦果は、撃沈が、「アリゾナ」など戦艦五隻、巡洋艦二隻、給油艦一隻。大破が、戦艦三隻、軽巡二隻、駆逐艦二隻。中破が、戦艦一隻、巡洋艦四隻。飛行機は164機を撃墜または破戒、159機に損傷を与えた。
一方、日本側の損害は軽微だった。未帰還の航空機は、雷撃機五機、戦闘機九機、急降下爆撃機十五機の計二十九機、損傷は七四機だった。それに特殊潜航艇(甲標的)五隻だった。
真珠湾奇襲攻撃の戦果は予想外に大きいものだった。伝統的な海軍戦略の信奉者であった機動部隊司令長官・南雲忠一中将は、武力を温存するために、できるだけ早く日本の海域に戻りたいと判断していた。参謀長・草鹿龍之介少将も同様な考え方だった。
これに対し、航空甲参謀・源田実中佐は、強硬に再攻撃を主張した。その理由は、四五〇万バレルにのぼる石油タンク群、大規模な工廠、それに敵空母群が無傷だった。
第二航空戦隊司令官・山口多聞少将も源田中佐と同様な考え方で、南雲長官に対し、真珠湾再攻撃を主張し、必要なら第二撃、第三撃を加えるべきと、意見具申を行った。
だが、南雲長官と草鹿参謀長はこれらの意見を拒み、「攻撃準備取り止め」の号令を発した。
連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」にいた先任参謀・黒島亀人大佐も、強硬な再攻撃論者だった。黒島大佐は連合艦隊の全参謀を集めて、真珠湾に第二撃を加えるかどうか討議した。
十二月九日午前十時、「長門」では、幕僚会議が開かれた。黒島大佐は、討議の内容を山本長官と宇垣参謀長に説明して「長官に再攻撃の命令を出していただきたいと考えております」と述べた。
山本長官は、その理由を黒島大佐にもう一度説明するように言った。黒島大佐は、敵機動部隊が生き残っていると中途半端な戦果になると主張した。
さらに、黒島大佐は「第二撃の命令を出していただけませんか」と山本長官に激しく喰い下がり、次のように述べた。
「もともと、真珠湾を徹底的に破壊し、敵空母を撃沈するのが作戦の狙いでした。是が非でも再攻撃の命令を」。
この黒島大佐の主張を、山本長官は微笑で受けとめたと言われている。山本長官は南雲長官の心情を知っていた。南雲長官は、第二撃は決して加えないだろうと。
山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った。その一言だったが、それは鉛のように重い言葉だった。
「太平洋戦争と富岡定俊」(史料調査会編・軍事研究社)の中で、富岡定俊元海軍少将(男爵)は、軍令部第一課長当時、黒島大佐とハワイ奇襲作戦で大激論をかわしたことについて、戦後、次のように述べている(要旨)。
「私が、連合艦隊の先任参謀だった黒島参謀とハワイ攻撃のことで大激論をかわしたと一般に伝えられ、これがまた軍令部がハワイ作戦に最後まで反対し、連合艦隊側と激突したようにも書かれているが、それは真相ではない」
「軍令部はハワイ作戦そのもののプリンシプルに反対したのではなく、ハワイ作戦に投入する兵力量の問題で違憲を異にしたのである」
「軍令部は全海軍作戦を大局的にみて、まず南方要域の確保に重点を置いていたから、いきおい投機的なハワイ作戦に、トラの子の空母六隻を全力投入することに反対していたので、空母三隻くらいならすぐOKを出したのである」
「連合艦隊は最後には空母四隻でもいいからと言ってきたことがある位だ。黒島参謀は、私との折衝のテクニックのためか、『連合艦隊案が通らなければ山本長官は辞職される』とまで言っていたが、私は山本司令長官の進退と、戦略、戦術とは別事であると思っていたし、また山本さんが辞職されるなどということも考えてはいなかった」
「こういうことがあってから、陸軍参謀本部の作戦課長が、快く満州から陸軍航空兵力を南部仏印に回してくれたので、これで後顧の憂いを断ち、ハワイへ空母を全力投入することに決まったのであって、問題はあくまで兵力量であり、それも乏しい中でのヤリクリの結果であった」。
以上のように当時を振り返って、富岡元少将は、ハワイ奇襲作戦に反対した軍令部の立場を述べている。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃飛行機総指揮官・淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・真珠湾攻撃飛行機総指揮官・横須賀航空隊教官・海大教官・連合艦隊参謀・大佐・戦後キリスト教伝道・大阪水交会会長)は、第一次攻撃隊、第一集団の九七艦攻水平爆撃機五十機の一番機に乗っていた。
「ト・ト・ト」(全軍突撃セヨ)のあと、淵田美津雄中佐は、午前三時二十三分(日本時間)、空母機動部隊、第一航空艦隊(司令官・南雲忠一中将)の旗艦、空母「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を打電した。連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃は開始された。
真珠湾奇襲攻撃の戦果は、撃沈が、「アリゾナ」など戦艦五隻、巡洋艦二隻、給油艦一隻。大破が、戦艦三隻、軽巡二隻、駆逐艦二隻。中破が、戦艦一隻、巡洋艦四隻。飛行機は164機を撃墜または破戒、159機に損傷を与えた。
一方、日本側の損害は軽微だった。未帰還の航空機は、雷撃機五機、戦闘機九機、急降下爆撃機十五機の計二十九機、損傷は七四機だった。それに特殊潜航艇(甲標的)五隻だった。
真珠湾奇襲攻撃の戦果は予想外に大きいものだった。伝統的な海軍戦略の信奉者であった機動部隊司令長官・南雲忠一中将は、武力を温存するために、できるだけ早く日本の海域に戻りたいと判断していた。参謀長・草鹿龍之介少将も同様な考え方だった。
これに対し、航空甲参謀・源田実中佐は、強硬に再攻撃を主張した。その理由は、四五〇万バレルにのぼる石油タンク群、大規模な工廠、それに敵空母群が無傷だった。
第二航空戦隊司令官・山口多聞少将も源田中佐と同様な考え方で、南雲長官に対し、真珠湾再攻撃を主張し、必要なら第二撃、第三撃を加えるべきと、意見具申を行った。
だが、南雲長官と草鹿参謀長はこれらの意見を拒み、「攻撃準備取り止め」の号令を発した。
連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」にいた先任参謀・黒島亀人大佐も、強硬な再攻撃論者だった。黒島大佐は連合艦隊の全参謀を集めて、真珠湾に第二撃を加えるかどうか討議した。
十二月九日午前十時、「長門」では、幕僚会議が開かれた。黒島大佐は、討議の内容を山本長官と宇垣参謀長に説明して「長官に再攻撃の命令を出していただきたいと考えております」と述べた。
山本長官は、その理由を黒島大佐にもう一度説明するように言った。黒島大佐は、敵機動部隊が生き残っていると中途半端な戦果になると主張した。
さらに、黒島大佐は「第二撃の命令を出していただけませんか」と山本長官に激しく喰い下がり、次のように述べた。
「もともと、真珠湾を徹底的に破壊し、敵空母を撃沈するのが作戦の狙いでした。是が非でも再攻撃の命令を」。
この黒島大佐の主張を、山本長官は微笑で受けとめたと言われている。山本長官は南雲長官の心情を知っていた。南雲長官は、第二撃は決して加えないだろうと。
山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った。その一言だったが、それは鉛のように重い言葉だった。