陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

232.山下奉文陸軍大将(12)山下中将はドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した

2010年09月03日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将には、シンガポール攻略後、「マレーの虎」という異名が献呈された。だが、山下中将は、ひどくこの異名を嫌った。確かに山下中将の眼光は虎に似て鋭く、その体重は大虎のようだ。

 だが、繊細な神経と他人への思いやりに富む山下中将としては、単に猛獣にすぎぬ動物に類比されるのは、好ましくなかった。

 シンガポール陥落のあと、お祝いかたがた戦跡視察にやってきたドイツ武官一行の招宴のとき、一行のP・ライネ大尉が左手に酒杯を捧げ、右手を高く伸ばし、かかとを打ち鳴らして「ゲネラール・ティゲール!(トラ将軍よ)」と敬意の叫びをあげた。

 すると、山下中将は眼をむきドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した。それから、次のように解説した。

 「トラは結局、臆病な危険獣にすぎん。自分より弱い相手に、しかも背後から襲いかかることしかしない。常に、弱いものを追い求め、老いぼれて体が利かなくなると、一番動きが鈍い人間をねらって人食いトラになる。品格下劣なケダモノと申せましょう」

 おかげで、ライネ大尉は、しばし、献杯の処置に困って赤面することになったが、その後も、賞賛の意を込めて、山下中将をトラと見立てる風潮は衰えなかった。

 シンガポール攻略の戦果は大きかった。捕獲した各種火砲約七四〇門、乗用車およびトラック約一万台、重軽機関銃二五〇〇挺以上、小銃約六万挺、小銃弾約三三六万発をはじめ、厖大な物資、糧秣のほか、英軍(英本国軍、オーストラリア軍、インド軍、マレー義勇軍)十三万八千七百八人のうち、十三万人以上を捕虜とした。

 シンガポールの攻略は、英国自体に対する勝利と解釈された。二月十六日、シンガポールに到着した侍従武官は、山下中将に賞賛をこめた天皇の聖旨、皇后の令旨を伝達した。

 日本内地からはちょうちん行列、祝賀会開催の報が相次ぎ、一面識あるいは面識皆無の人からも祝状が殺到した。山下中将の故郷、大杉村からは、にわかに山下中将の生家を訪れる客が増えた、と便りが届いた。

 「ヤマシタ」の名は全世界に知られ、ドイツ陸軍士官学校の戦史教科書にマレー作戦が書き加えられた。

 だが、これら惜しみなく寄せられる栄誉と賛辞に対して、山下中将はひどく慎重にこたえていた。シンガポール攻略の祝賀式も、晴れの入場式も行わなかった。

 攻略後暫く、山下中将の脳裡を占めたのは、マレー、シンガポール戦に倒れた部下三五〇七人(ほかに戦傷六一五〇人)だった。

 「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、山下中将は無礼講の席でよく若い将校から「閣下、ぜひマレー、シンガポール攻略戦の苦心談をひとつ」と言われた。そのとき、山下中将は次のように答えるのが常であった。

 「マレーの戦いは敵を軽く見ていたことが図に当たったんだ。シンガポールでは敵がこちらを過大視してくれた。それ以外は自慢するような苦心談はない」

 「戦争である以上、どこまでも勝たねばならん。が、わしは、あまり戦争は好きではない。できるだけ殺しあわずに敵に勝つことだね」

 「徴用中のこと」(井伏鱒二・講談社)によると、作家の井伏鱒二は昭和十六年四十三歳の時、陸軍徴用員としてマレーに派遣され、シンガポールに赴いた。同時期に徴用された石川達三が三十六歳、丹羽文雄が三十七歳だった。

 井伏鱒二は軍司令官・山下奉文中将が指揮する第二十五軍の宣伝班に配属された。軍宣伝班の陣中新聞「建設戦」の第百号記念の特集号を発行したのは、昭和十七年四月十六日だった。

 その第一面には、林の中に立つ山下中将の写真が出て、「前線のゴム林から英軍陣地を睥睨する山下マレー方面軍最高指揮官」という説明があった。

 また、この軍国調でいっぱいになっている新聞の第四面には、北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」と題したポエチカルな次のような詩が掲載されていた。

「或る雀」
水鶏に似た鳥の鳴き声が
暁の空にそびえ立つ椰子の樹蔭から
聞こえてくる・・・くわく、くわく、くわく、・・・
一日の仕事の計劃に 思いをはせながら
ふと見れば いつ舞い込んだのか
一羽の雀が
卓の上の たべ残しの麺麭を
しきりに啄んでゐる、何の警戒の色もなく。