陣中新聞特集号に掲載された北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」のもう一篇の詩は次のようなものだった。
「生活の営み」
静かにして華かな熱帯の空が明け初めてゐる
住民の女たちが
深い草原で
雑草を摘んでゐる、半身朝露に濡れて
あれは 朝餐の一部になるのに違ひない
この新聞が発行された日に、山下軍司令官が宣伝班事務所にやって来て、大きな声で宣伝班長の阿野中佐を叱りつけた。
班長の部屋は階下、井伏鱒二たち班員は四、五人ずつに分かれて二階の小部屋にいた。井伏は、初めは誰かが喧嘩しているのだろうと思っていたが、山下軍司令官が怒鳴り込んできたのだった。
事務所の建物は廊下が広く、階下も窓も硝子戸がなくて扉も開け放しのため、階下の大声は二回に筒抜けだった。とにかく大きな声だった。
「こんな文章を、軍人のための詩といわれるか。敗戦国の住民が、草を摘んで朝飯に混ぜて食う。それがどうしたというのだ。草でも木の実でも、何でもいい。食べられるものを食べる。そこに何の不思議があるか。軍人は、枝葉末節にこだわってはならん。軍人は毅然たるところがなくてはならん」
北川冬彦は昭和四年に発表した詩集「戦争」で、軍部の興隆を痛烈に批判したことがあった。それを山下軍司令官は脳裏に置いていたのかもしれない。
階下は静かになった。「あの喧嘩、やっぱり声の大きい議論家の方が勝ったらしい」と思いながら井伏が、煙草を吸いながら仕事をしていると、目前の机を隔てて井伏の対面に腰をかけていた三人の少年志願兵が申し合わせたようにサッと立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。
少年兵たちの視線は、戸口の方に向いていた。「少年兵諸君、どうしたのかね」と井伏が言いかけたとき、廊下のほうに多数の人の気配がした。
井伏は戸口に背を向けて机に座っていたので山下軍司令官が部屋をのぞいて、また出て行った時、井伏は気づかずにいたのだ。
井伏は煙草を口にくわえたまま、戸口から廊下に顔を出した。すると、ちょうど、廊下の突き当りから山下軍司令官が引き返してくるところだった。
山下軍司令官の左右には、参謀肩章を着けた十人ばかりの将校が従って、宣伝班長の阿野中佐が先導を勤めていた。井伏はあわてて顔を引っ込めた。悪いものを見たと思った。
結果としては軍司令官が巡視に来ても、井伏は振り向きもせず、立ち上がりもしないで、椅子に座ったまま煙草をふかしていて、軍司令官が廊下を引き返して来た時、くわえ煙草で顔を出して、覗き見たことになった。
少年兵たちを見ると、とんだことになったというように、三人とも起立したきりになっている。井伏は運を天にまかせて、戸口からずっと離れたところに退いて、起立して待った。
果たして、山下軍司令官が、つかつかと入って来た。参謀達はのっしのっしと入って来た。山下軍司令官は井伏に向って「これは何者だ」と大きな声を出した。
井伏はとっさに声が出なかった。代わりに阿野中佐が、「これは宣伝班員であります」と答えた。山下軍司令官は井伏を睨みつけて怒鳴った。「軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ」。
井伏は「はい」と答えた。井伏は「はい」と言った自分の声を情けなく思った。それは井伏が自分の家庭で中学一年生の長男を叱るとき、「はい」と答える長男の声そっくりであったのだ。
参謀達は山下軍司令官を中心に、いつのまにか、回りに並び、参謀肩章を着けた胸を張って斜めに構えていた。なかにはちらりと薄笑いするのもいた。
山下軍司令官は長々と叱り続けた。「軍人は礼儀が大事だ」。叱り続ける間に、この言葉を少なくとも三度は繰り返した。
阿野中佐は井伏の傍に来て「軍人は礼儀が大事だ。司令官閣下がお見えになったときは、一同起立して、最年長者の号令で、敬礼しなくてはならん。軍人は礼儀が大事だ」と、参謀達に聞こえるほどの声で言った。
「はい、軍人は礼儀が大事であります」と復唱して井伏は山下軍司令官に敬礼した。これで、山下軍司令官と参謀達は引き揚げて行った。
「生活の営み」
静かにして華かな熱帯の空が明け初めてゐる
住民の女たちが
深い草原で
雑草を摘んでゐる、半身朝露に濡れて
あれは 朝餐の一部になるのに違ひない
この新聞が発行された日に、山下軍司令官が宣伝班事務所にやって来て、大きな声で宣伝班長の阿野中佐を叱りつけた。
班長の部屋は階下、井伏鱒二たち班員は四、五人ずつに分かれて二階の小部屋にいた。井伏は、初めは誰かが喧嘩しているのだろうと思っていたが、山下軍司令官が怒鳴り込んできたのだった。
事務所の建物は廊下が広く、階下も窓も硝子戸がなくて扉も開け放しのため、階下の大声は二回に筒抜けだった。とにかく大きな声だった。
「こんな文章を、軍人のための詩といわれるか。敗戦国の住民が、草を摘んで朝飯に混ぜて食う。それがどうしたというのだ。草でも木の実でも、何でもいい。食べられるものを食べる。そこに何の不思議があるか。軍人は、枝葉末節にこだわってはならん。軍人は毅然たるところがなくてはならん」
北川冬彦は昭和四年に発表した詩集「戦争」で、軍部の興隆を痛烈に批判したことがあった。それを山下軍司令官は脳裏に置いていたのかもしれない。
階下は静かになった。「あの喧嘩、やっぱり声の大きい議論家の方が勝ったらしい」と思いながら井伏が、煙草を吸いながら仕事をしていると、目前の机を隔てて井伏の対面に腰をかけていた三人の少年志願兵が申し合わせたようにサッと立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。
少年兵たちの視線は、戸口の方に向いていた。「少年兵諸君、どうしたのかね」と井伏が言いかけたとき、廊下のほうに多数の人の気配がした。
井伏は戸口に背を向けて机に座っていたので山下軍司令官が部屋をのぞいて、また出て行った時、井伏は気づかずにいたのだ。
井伏は煙草を口にくわえたまま、戸口から廊下に顔を出した。すると、ちょうど、廊下の突き当りから山下軍司令官が引き返してくるところだった。
山下軍司令官の左右には、参謀肩章を着けた十人ばかりの将校が従って、宣伝班長の阿野中佐が先導を勤めていた。井伏はあわてて顔を引っ込めた。悪いものを見たと思った。
結果としては軍司令官が巡視に来ても、井伏は振り向きもせず、立ち上がりもしないで、椅子に座ったまま煙草をふかしていて、軍司令官が廊下を引き返して来た時、くわえ煙草で顔を出して、覗き見たことになった。
少年兵たちを見ると、とんだことになったというように、三人とも起立したきりになっている。井伏は運を天にまかせて、戸口からずっと離れたところに退いて、起立して待った。
果たして、山下軍司令官が、つかつかと入って来た。参謀達はのっしのっしと入って来た。山下軍司令官は井伏に向って「これは何者だ」と大きな声を出した。
井伏はとっさに声が出なかった。代わりに阿野中佐が、「これは宣伝班員であります」と答えた。山下軍司令官は井伏を睨みつけて怒鳴った。「軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ」。
井伏は「はい」と答えた。井伏は「はい」と言った自分の声を情けなく思った。それは井伏が自分の家庭で中学一年生の長男を叱るとき、「はい」と答える長男の声そっくりであったのだ。
参謀達は山下軍司令官を中心に、いつのまにか、回りに並び、参謀肩章を着けた胸を張って斜めに構えていた。なかにはちらりと薄笑いするのもいた。
山下軍司令官は長々と叱り続けた。「軍人は礼儀が大事だ」。叱り続ける間に、この言葉を少なくとも三度は繰り返した。
阿野中佐は井伏の傍に来て「軍人は礼儀が大事だ。司令官閣下がお見えになったときは、一同起立して、最年長者の号令で、敬礼しなくてはならん。軍人は礼儀が大事だ」と、参謀達に聞こえるほどの声で言った。
「はい、軍人は礼儀が大事であります」と復唱して井伏は山下軍司令官に敬礼した。これで、山下軍司令官と参謀達は引き揚げて行った。