陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

269.今村均陸軍大将(9)まだ中尉である目下の者に、どうしてこんなに荒々しくしなければならないのか

2011年05月20日 | 今村均陸軍大将
 怒りを込めた田中参謀次長の問いに、今村中尉は次の様に答えた。

 「私の考えを申し上げます。閣下の時代にお作りになった現行内務令は、日露戦争後放漫になっておりました隊内の気分を緊粛いたすため大きな効果を挙げ、どこの軍隊もよく整頓されるにいたりました。けれども、どんな良薬も量を過ごして飲ませますと害を起こします。あんなに強調されました中隊家庭主義は、中隊お座敷のかざりになっております」

 「どんな家庭でも、客間はいつも小ぎれいにしておきますが、うらの部屋はくつろいで団欒するようにしておるものでありますのに、中隊は隅から隅まで塵一筋もないお座敷になり、朝から晩まで清潔整頓といい、練兵演習で汗水たらして帰ってくる兵の、気分の休まるところではなくなっております」

 「心の休息ができないところは、家庭ではありません。軍隊内務令という良薬を、七年間分量をすごして飲ませたため、今では逆作用を発しかけております。各師団からの提出意見が実にたくさんになっておりますのは、根本改正の必要を示唆しておるものだと、私は思っております」。

 すると田中参謀次長は「なに、根本改正じゃ。吾輩どもがあんなに苦心して作ったものが、どんな逆作用を発していると言うんじゃ」と大きな声を出してにらみつけた。今村中尉は次の様に答えた。

 「外形の営内整頓だけに急で、軍隊の本質であるべき野外の演習訓練の気合を抜いているような隊長が少なくありません。中央部は、演習がまずくても、内務が良い隊長を良く見るようになっていると、多くが思っており、これでは軍隊は弱くなります。これを逆作用と申したのであります」。

 これを聞いて、田中参謀次長は「隊附勤務も十分にやっておらず、観察の狭い身分で、言葉だけの理屈を述べよる。こんなものは持ってかえれ」と改正案の印刷物を机に叩きつけるようにして、大きな机の今村中尉が立っているほうに放り出した。

 今村中尉が、内務の行き過ぎを抑え、軍隊練成を害しないようにと、心を配った案を、国軍の作戦を主管している参謀本部の次長ともある高級者が、大尉職務にあてられてはいるが、まだ中尉である目下の者に、どうしてこんなに荒々しくしなければならないのかと、不快の気持ちで敬礼の上、差し戻された印刷物には手をつけず、そのままにして参謀次長室を出た。

 歩兵課に戻ってきて、奥平課長に顛末を報告した。奥平課長は「君に言っておいたじゃないか。田中参謀次長の前で、根本改正なんか言い出したって、どうにもならないと。仕方がない。あとでわしが行って釈明しておこう」と心配そうに顔をくもらせた。

 間もなく坪井副官から、今村中尉の課の高級部員である堀吉彦中佐(陸士一〇)に電話があり、在郷軍人会の書類持参の上、参謀次長室に来てくれとのことだった。

 三十分ほどして堀中佐が帰ってきて、「今村君! どうして次長が戻した改正案を、受け取らんで来たのかね」と言った。

 今村中尉は「もっとよく見てもらいたいと思ったからです」と答えた。すると堀中佐は「何か次長と口論したのかい」と言ったので、「いや口論ではありません。聞かれたから、私の考えを述べただけです」と答えた。

 すると堀中佐は「軍人会のほうの用件を終わって帰ろうとすると、田中参謀次長が『さっきここにやって来た若い中尉は、奥平の下の者だから、君と同じ課だろう』ときくので、『そうです』と言うと、『あの男は短気者かい。俺が少し大きな声を出して見せたら、渡した改正案を、持ってゆかんで帰ってしまった。これを持っていって渡してくれ。それからあれに、根本改正のことは、今から研究を進めるようにしろ、と言っていたと伝えておき給え』などと言っていた」と言って、改正案の印刷物を今村中尉に渡した。

 今村中尉がその印刷物を見ると、表紙に朱筆で太く、「依存これ無し。至急改正ありたし。参謀本部」と記されてあった。

 今村中尉は狐にだまされたような気がした。田中参謀次長は、ことさらに威圧的言辞と態度とで相手を興奮させて、今村中尉を試してみたように思われる。表紙にこんなに大きく朱書きされている文字が目に入らなかったほど、今村中尉は興奮してしまっていたのである。

 このときの参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・山口県出身)は、その後、大正七年陸軍大臣、大正九年男爵、大正十年陸軍大将、大正十二年陸軍大臣、大正十四年予備役、大正十五年貴族院議員、昭和二年には内閣総理大臣兼外務大臣まで昇りつめた。昭和四年、六十四歳で死去。

 当時の高級副官は、和田亀治大佐(陸士六・陸大一五)だったが、その顔は、いかにも不細工、興奮性が強く、すぐ顔を真っ赤にして大声をあげる人だった。

 それで「かみなり」とあだなされ、この人に怒鳴られた者は相当に多く、下のものからは敬遠されている第一人者だった。

 だが、今村中尉は、他人の評判などは一切とんちゃくせず、事務の性格を心がける意気込みはたいしたものと思い、蔭ながら「えらい人だ」と敬意を払っていた。