■3月11日(木)の東京新聞の「こちら特捜部」に、日本政府が戦後、在日米軍の幹部に対して、生存者に対する叙勲制度が復活した1964年以降、263個もの勲章を授与していたことが報じられました。
このうち、過去5年分に授与した在日米軍幹部が18人いることを、内閣府賞勲局が認めました。内訳は旭日大綬章2名、旭日重光章6名、旭日中綬章10名で、いずれも在日米陸海軍や佐世保、横須賀の基地司令官たちでした。
■叙勲には、旭日章と瑞宝章があります。両方とも、功労の程度によって6段階に分かれています。
大勲位菊花章
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
------------------------------
桐花大綬章
------------------------------
<旭日章> <瑞宝章>
旭日大綬章 瑞宝大綬章
旭日重光章 瑞宝重光章
旭日中綬章 瑞宝中綬章
旭日小綬章 瑞宝小綬章
旭日双光章 瑞宝双光章
旭日単光章 瑞宝単光章
大まかに分けると、国会議員など公選職を含めた民間人を対象しているのが旭日章で、公務員を対象にしているのが瑞宝章です。さらに優れた功労には、大勲位菊花大綬章や桐花大綬章があります。大勲位菊花大綬章を表彰された人物のうち、存命者で、皇族以外には、ひとりしかいません。
政治家や役人にとっては割合簡単に手の届く勲章ですが、民間人にとっては縁遠い存在であり、ましてや高位の叙勲は無縁の代物です。
■その無縁の代物を、僅か2年でもらえるのが在日米軍幹部です。しかも春と秋の年2回の叙勲で氏名が公表されるものとばかり思っていたら、外国人受勲者は公表されていなかったのです。今回、内閣府賞勲局が、初めて公表しましたが、なぜか過去5年分しか公表しませんでした。その在日米軍幹部の叙勲者リストを次に掲げます。
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発令年月 / 賞賜 / 氏名 / 役職
2004年5月/旭日中綬章/マイケル・マッケイ・ウェバー/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2004年6月/旭日中綬章/ジェフリー・アンソニー・レミントン/在日米空軍第18航空団司令官
2005年2月/旭日大綬章/トーマス・カルバート・ワスコー/在日米軍司令官兼第5空軍司令官
2005年4月/旭日中綬章/マイケル・リー・ジェームス/在日米海軍佐世保艦隊基地司令官
2005年6月/旭日重光章/ロバート・ラッセル・ブラックマン・ジュニア/在日米軍沖縄地区調整官
2005年9月/旭日重光章/フレデリック・リチャード・ルイ/在日米海軍司令官
2007年4月/旭日中綬章/グレゴリー・ジョン・コーニッシュ/在日米海軍横須賀艦隊基地司令官
2007年6月/旭日重光章/ジョセフ・フレデリック・ウェーバー/在日米軍沖縄地区調整官
2007年6月/旭日中綬章/ジェームズ・ハワード・ソーグ/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2007年6月/旭日中綬章/スコット・ブレストン・グッドウィン/在日米空軍第374空輸航空団司令官
2007年7月/旭日中綬章/ティモシー・レイ・ラーセン/在日米軍副司令官
2008年6月/旭日大綬章/ブルース・アラン・ライト/在日米軍司令官兼第5空軍司令官
2008年6月/旭日重光章/エルバート・ニコラス・バーキンズ/在日米陸軍司令官
2008年6月/旭日中綬章/ティルマン・ダグラス・ペイン/在日米海軍佐世保艦隊基地司令官
2009年4月/ジェームズ・ディーン・ケリー/在日米海軍司令官
2009年6月/旭日中綬章/マイケル・クリントン・プレズネル/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2009年6月/旭日中綬章/ブレット・ターネジ・ウィリアムズ/在日米空軍第18航空団司令官
2009年8月/旭日重光章/リチャード・クリスチャン・ジルマー/在日米軍沖縄地区調整官
**********
自民党政権下で、これほど多数の在日米軍関係者に勲章が授与されていたのに、国民は知らされませんでした。ところが、内閣府賞勲局は「非公表の情報ではないが、個別の受勲者のことは、その都度個別に問い合わせてもらう必要がある」と言い訳をしています。
■叙勲制度が復活した1964年12月4日に、当時の自民党の佐藤栄作内閣が、あの10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイに最高ランクの勲一等旭日大綬章を贈りました。それ以降、自民党政権は在日米軍幹部に叙勲を毎年乱発してきたのです。
しかも、在日米軍に対して、自民党は、思いやり予算として毎年2000億円以上を支出しています。スペインなどでは、米軍に飛行場を提供していますが、きちんと賃料を米国に請求しています。いくら敗戦国とはいえ、日本ではただで施設を提供しているうえに、そこに派遣される米軍幹部に、高位の勲章をくれてやっています。しかも、在日米軍以上に国防に従事しているはずの自衛隊関係者には、これほど高位の勲章を授与していません。
政権交代をきっかけに、日米政府間の核密約問題が明らかになりました。また、3月12日には、1972年の沖縄返還に絡んで、3億2千万ドルの対米補償額に加え、99年まで1億1200万ドル相当の無利子預金の存在や、基地移設改善移転費など7500万ドルの秘密枠設定が財政密約されていたことが判明しました。日米間の真実をきちんと国民に示すためにも、こうした叙勲制度の不透明な運用の実態を見直し、事実関係は全部公表するように改善してもらいたいものです。
■僅か2年の日本滞在で、高位の勲章がもらえる在日米軍幹部は別格としても、叙勲を受けられる人は非常に限られています。昨年11月3日に公表された群馬県の叙勲者は、次の60人でした。
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◆叙勲・群馬(2009.11.3)(60人)
▼旭日小綬章(4人)
内田 徳男 78 元全日本スクリーン・デジタル印刷協組連合会長 安中
襟川 幸雄 73 元千代田町長 千代田
奥木 功男 78 県農業協同組合中央会長 東吾妻
笠井 秋夫 70 元桐生市議 桐生
▼瑞宝小綬章(14人)
梅沢祐一郎 74 元県県民生活部長 前橋
大嶋 一郎 78 元前橋区検副検事 前橋
小川 英幸 72 元札幌統計情報事務所長 伊勢崎
衣笠 巧 77 元専売公社高崎地方局長 桐生
佐俣 嘉也 70 元水戸中央郵便局長 高崎
篠原 武 75 元関東郵政監察局東京北部郵政監察室長 前橋
田中 充 78 群馬工業高専名誉教授 高崎
樽井 哲 71 元公立高校長 前橋
津ノ井三喜男70 元中部管区行政監察局第一部長 前橋
中島 孝雄 80 元前橋警察署長 前橋
平沢 日令吉73 元太田地区消防組合消防正監 太田
藤田 正夫 75 元前橋市消防正監 前橋
山崎 健 74 元関東郵政監察局東京東部郵政監察室長 高崎
▼旭日双光章(14人)
追川 清 76 元倉淵村議 高崎
笠原 幸雄 78 元県農業会議副会長 前橋
栗原 徳治 76 元県商店街振興組合連合会副会長 太田
小池 則行 71 元中之条町議 中之条
清水 茂 74 元県薬剤師会副会長 前橋
高橋信二郎 83 元沼田利根医師会長 沼田
田村 確也 72 元笠懸町長 みどり
登坂 藤夫 73 元渋川市議 渋川
中山 公平 71 元松井田町議 安中
福田 昭二 82 元県間税会連合会副会長 桐生
丸山 貞吉 86 元前橋市議 前橋
三津田和行 74 県知的障害者福祉協会長 高崎
村上 徹 73 元県歯科医師会副会長 前橋
渡辺 忠信 73 元富岡市議 富岡
▼瑞宝双光章(16人)
岩井 栄寿 74 元公立小校長 富岡
加久 裕士 85 学校医 伊勢崎
勝山 哲雄 71 保護司 嬬恋
金井 政江 72 保護司 高崎
小暮 昇 77 元伊香保町助役 渋川
小林 利夫 73 元公立中校長 東吾妻
小林 元昭 75 元公立小校長 太田
砂田 威夫 74 元公立小校長 高崎
武井 実 62 元東武鉄道川越電車乗務区長 館林
田島 国明 71 元公立小校長 前橋
萩原 勝海 71 元特定郵便局長 長野原
平田 信子 68 元厩橋病院総看護長代理 前橋
深沢 篤 74 元公立聾学校長 前橋
福島 迪子 68 元前橋赤十字病院看護部長 前橋
向田ちえ子 60 「両毛整肢療護園」看護師長 桐生
山崎 順一 65 元嬬恋消防団長 嬬恋
▼瑞宝単光章(12人)
青木茂登治 81 元国鉄職員 東吾妻
新井 俊彦 65 元総務事務官 安中
板垣 稔 73 調停委員 伊勢崎
伊藤 芳子 66 元「菱風園」寮長 桐生
長部 勝兆 74 元桐生市消防団分団長 桐生
葛西 松範 66 元三菱電機ホーム機器製造管理部マネジャー 太田
笠原 啓子 62 元群馬大医学部付属病院看護部看護師長 前橋
佐藤 幸雄 77 元松井田町消防団分団長 安中
津久井 昇 78 元国鉄職員 藤岡
中島 俊一 80 元安中市消防団長 安中
半田都志子 80 元利根川水系矢場川旭橋水位観測所観測員 邑楽
間々田 豪 73 工業統計調査員 大泉
**********
■先日、昭和35年から学校医として半世紀にわたり、地域に貢献してきた台湾出身の眼科医の「叙勲受章を祝う会」が開催されました。
平成22年2月20日(土)午後6時から、伊勢崎市のホテルで、約200人が集まり、祝賀会が開催されました。会場には、大澤正明群馬県知事、原富夫群馬県議会議長、石関貴史衆議院議員、中曽根弘文参議院議員、塚越紀一県議会議員、田島雄一県議会議員、五十嵐清隆伊勢崎市長らが出席しました。
↑挨拶する大澤知事。原稿棒読み。↑
↑挨拶する石関代議士。子どもの頃、学校の眼科検診で加久氏にお世話になったエピソードを披露。↑
↑挨拶する中曽根弘文参議院議員。父親はレーガン時代、米国で不沈空母発言をした大勲位。↑
↑加久氏(左)を祝福する台湾華僑総会会長代理(中央)。↑
ひな壇で祝福を受けたのは、伊勢崎市で「かく眼科」を営む加久裕士(かく・ひろし)夫妻でした。
■加久氏(本名・郭漢謀)は大正13年台湾生まれで、日本国籍を取得していますが、台湾出身者で構成する群馬台湾華僑総会の会長を長年務めています。同氏は、昭和23年3月に群馬大学医学部の前身の前橋医学専門学校を卒業後、昭和24年8月から群馬大学医学部眼科教室勤務し、昭和25年3月から文部教官として群馬大学・前橋医科大学助手、昭和29年4月から群馬大学医学部助手を経て、昭和35年4月に、伊勢崎市で「かく眼科医院」を開業しました。
当時は眼科医が少なく、眼科担当の校医として引っ張りだことなり、以来半世紀に渡り、ずっと学校医の仕事を引き受けてこられました。同氏がこれまでに担当した学校は次の27校に上ります。
市立三郷小学校、市立茂呂小学校、市立北小学校、市立南小学校、市立北第二小学校、市立豊受小学校、市立北中学校、市立第一中学校、市立第三中学校、村立東小学校、村立東中学校、町立赤堀小学校、町立赤堀中学校、町立玉村小学校、町立上陽小学校、市立広瀬小学校、村立南小学校、市立坂東小学校、町立中央小学校、町立南小学校、町立南中学校、県立伊勢崎商業高等学校、県立境高等学校、県立玉村高等学校、県立伊勢崎女子高等学校、県立伊勢崎工業高等学校、県立女子大学
■85歳の現在でも、同氏は、市立北小学校、市立南小学校、市立茂呂小学校、市立三郷小学校、市立北第二小学校の校医を担当しています。
同氏は、地元のロータリークラブに長年所属しており、今回の祝賀パーティも伊勢崎中央ロータリーの伊勢崎佐波医師会の合同主催でした。祝賀会参加者も、同氏の交友関係の多さを反映しており、役所、学校関係者、ロータリークラブ、医師会、台湾華僑総会関係者をはじめ、趣味の盆栽、写真、ゴルフ仲間まで総勢約200人がお祝いに駆けつけました。
■戦前、戦中と台湾は日本の植民地でした。植民地出身者が立身を志しても、政治家や警察官で出世を図ることは不可能でした。そのため、当時、台湾から日本に留学する場合は、医者か教師を目指す人が大半でした。加久氏もそのひとりでした。留学中に終戦を迎えましたが、同氏はそのまま留学先の日本で勉学を続け、同じく眼科医の日本人の夫人とともに、地域医療に貢献してきました。
参会者全員に配布された、叙勲の感想を綴った同氏の挨拶文から、同氏の率直な気持ちを知ることができます。
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御挨拶 ・・・叙勲に出席して・・・
九月下旬、県教育委員会事務局から「秋の叙勲の候補者に内定」との連絡があり、突然の通知に吃驚しました。主要職名が「現 学校医」となって居り、憶えば昭和三十五年に当地に医院開設後間もなく、二十六校の校医を担当することになり、診療所と一斉検診等との日程の遣り繰りに家内と苦心したことが脳裡を離れません。今日迄続けてきた仕事が評価されたのかと思うと感謝の気持ちで一杯です。
十月二十七日、文部科学大臣名義で「十一月三日付で瑞宝双光章が授与されることになりました」との書類を頂くことで受賞の実感が湧いてきました。九日に国立劇場大劇場で伝達式が行われ、次いで皇居で拝謁が行われるとの式次第に家内共々参列しました。
国立劇場大劇場
大劇場に到着すると受付は何れも大変混雑しており、六百名を超す各地からの受賞者を初め配偶者、付添等千名以上でさすがの広大な大劇場も満席でした。国歌斉唱後、ステージの真中で中川文科省副大臣の祝辞があり、受賞者の代表八名は一人ずつ勲記(賞状)と勲章が手渡されました。次いで来賓の挨拶があり、式はスピーディに終了。退出にあたり勲章をつけた私を見付けた家内は、感極まって目頭を押さえていました。
皇居と拝謁
午後二時過ぎ、バスで皇居へ移動。よく手入れされた庭園や松並木を背景に、大型バス三十台が見事に背入れる、祝賀会気分はいやが上に横溢していました。
拝謁は外国国賓の接待にもよく使われている豊明殿で行なわれましたが、想像以上に広大で千名が優に収容されました。天井には大型シャンデリヤが三十数基備えられ、全面の壁には縁起の良い瑞雲模様が描かれていました。
中央壁寄りに一坪程度の台が設えられ、陛下がその台に上られて、代表者からの謝辞をお受けになられた後、受賞者一同に犒いに御言葉を賜りました。
豊明殿から退出後、班毎に記念撮影があり、皇居を後にしました。
この様な身に余る栄誉を頂けたのも、偏に日頃温かく見守って下さいました皆々様のお陰と感謝の気持ちで一杯です。
有難うございました。
平成二十二年二月二十日 加久裕士
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■日本医師会によると、平成21年秋の叙勲・褒章受章者で、日本医学会関係者の受章者は、瑞宝中綬章が9名で対象者の経歴は大学医学部の名誉教授や元国立病院長など。旭日小授章が4名で、県の医師会長歴任者。瑞宝小授章が17名で、県の保健衛生部長や公立病院長、自衛隊衛生官などの歴任者。旭日双光章が28名で、市町村の医師会長や役員歴任者。瑞宝双光章が21名で、県の保健所長や学校医、警察嘱託医の歴任者。藍綬褒章4名で県医師会理事経験者となっています。
こうして、日本の植民地だった台湾から日本にわたり半世紀の間、校医として10万人以上の児童生徒及び保護者に貢献して瑞宝双光章を叙勲され、天皇への拝謁の栄誉に浴した感動と感銘を率直に綴った加久氏と、東京大空襲だけでも10万人以上の日本人を無差別爆撃で殺戮した責任者なのに最高位の勲一等旭日大綬章が贈られた米国軍人や、日米安保に基づき日本滞在2年でほぼ自動的に高位叙勲を受けている在日米軍幹部などとを比べてみると、どちらが高位の叙勲を受けるのにふさわしいか、と考えさせられます。
【ひらく会事務局】
このうち、過去5年分に授与した在日米軍幹部が18人いることを、内閣府賞勲局が認めました。内訳は旭日大綬章2名、旭日重光章6名、旭日中綬章10名で、いずれも在日米陸海軍や佐世保、横須賀の基地司令官たちでした。
■叙勲には、旭日章と瑞宝章があります。両方とも、功労の程度によって6段階に分かれています。
大勲位菊花章
大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
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桐花大綬章
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<旭日章> <瑞宝章>
旭日大綬章 瑞宝大綬章
旭日重光章 瑞宝重光章
旭日中綬章 瑞宝中綬章
旭日小綬章 瑞宝小綬章
旭日双光章 瑞宝双光章
旭日単光章 瑞宝単光章
大まかに分けると、国会議員など公選職を含めた民間人を対象しているのが旭日章で、公務員を対象にしているのが瑞宝章です。さらに優れた功労には、大勲位菊花大綬章や桐花大綬章があります。大勲位菊花大綬章を表彰された人物のうち、存命者で、皇族以外には、ひとりしかいません。
政治家や役人にとっては割合簡単に手の届く勲章ですが、民間人にとっては縁遠い存在であり、ましてや高位の叙勲は無縁の代物です。
■その無縁の代物を、僅か2年でもらえるのが在日米軍幹部です。しかも春と秋の年2回の叙勲で氏名が公表されるものとばかり思っていたら、外国人受勲者は公表されていなかったのです。今回、内閣府賞勲局が、初めて公表しましたが、なぜか過去5年分しか公表しませんでした。その在日米軍幹部の叙勲者リストを次に掲げます。
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発令年月 / 賞賜 / 氏名 / 役職
2004年5月/旭日中綬章/マイケル・マッケイ・ウェバー/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2004年6月/旭日中綬章/ジェフリー・アンソニー・レミントン/在日米空軍第18航空団司令官
2005年2月/旭日大綬章/トーマス・カルバート・ワスコー/在日米軍司令官兼第5空軍司令官
2005年4月/旭日中綬章/マイケル・リー・ジェームス/在日米海軍佐世保艦隊基地司令官
2005年6月/旭日重光章/ロバート・ラッセル・ブラックマン・ジュニア/在日米軍沖縄地区調整官
2005年9月/旭日重光章/フレデリック・リチャード・ルイ/在日米海軍司令官
2007年4月/旭日中綬章/グレゴリー・ジョン・コーニッシュ/在日米海軍横須賀艦隊基地司令官
2007年6月/旭日重光章/ジョセフ・フレデリック・ウェーバー/在日米軍沖縄地区調整官
2007年6月/旭日中綬章/ジェームズ・ハワード・ソーグ/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2007年6月/旭日中綬章/スコット・ブレストン・グッドウィン/在日米空軍第374空輸航空団司令官
2007年7月/旭日中綬章/ティモシー・レイ・ラーセン/在日米軍副司令官
2008年6月/旭日大綬章/ブルース・アラン・ライト/在日米軍司令官兼第5空軍司令官
2008年6月/旭日重光章/エルバート・ニコラス・バーキンズ/在日米陸軍司令官
2008年6月/旭日中綬章/ティルマン・ダグラス・ペイン/在日米海軍佐世保艦隊基地司令官
2009年4月/ジェームズ・ディーン・ケリー/在日米海軍司令官
2009年6月/旭日中綬章/マイケル・クリントン・プレズネル/日米合同委員会施設分科委員会米側代表兼在日米軍司令部第4部長
2009年6月/旭日中綬章/ブレット・ターネジ・ウィリアムズ/在日米空軍第18航空団司令官
2009年8月/旭日重光章/リチャード・クリスチャン・ジルマー/在日米軍沖縄地区調整官
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自民党政権下で、これほど多数の在日米軍関係者に勲章が授与されていたのに、国民は知らされませんでした。ところが、内閣府賞勲局は「非公表の情報ではないが、個別の受勲者のことは、その都度個別に問い合わせてもらう必要がある」と言い訳をしています。
■叙勲制度が復活した1964年12月4日に、当時の自民党の佐藤栄作内閣が、あの10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイに最高ランクの勲一等旭日大綬章を贈りました。それ以降、自民党政権は在日米軍幹部に叙勲を毎年乱発してきたのです。
しかも、在日米軍に対して、自民党は、思いやり予算として毎年2000億円以上を支出しています。スペインなどでは、米軍に飛行場を提供していますが、きちんと賃料を米国に請求しています。いくら敗戦国とはいえ、日本ではただで施設を提供しているうえに、そこに派遣される米軍幹部に、高位の勲章をくれてやっています。しかも、在日米軍以上に国防に従事しているはずの自衛隊関係者には、これほど高位の勲章を授与していません。
政権交代をきっかけに、日米政府間の核密約問題が明らかになりました。また、3月12日には、1972年の沖縄返還に絡んで、3億2千万ドルの対米補償額に加え、99年まで1億1200万ドル相当の無利子預金の存在や、基地移設改善移転費など7500万ドルの秘密枠設定が財政密約されていたことが判明しました。日米間の真実をきちんと国民に示すためにも、こうした叙勲制度の不透明な運用の実態を見直し、事実関係は全部公表するように改善してもらいたいものです。
■僅か2年の日本滞在で、高位の勲章がもらえる在日米軍幹部は別格としても、叙勲を受けられる人は非常に限られています。昨年11月3日に公表された群馬県の叙勲者は、次の60人でした。
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◆叙勲・群馬(2009.11.3)(60人)
▼旭日小綬章(4人)
内田 徳男 78 元全日本スクリーン・デジタル印刷協組連合会長 安中
襟川 幸雄 73 元千代田町長 千代田
奥木 功男 78 県農業協同組合中央会長 東吾妻
笠井 秋夫 70 元桐生市議 桐生
▼瑞宝小綬章(14人)
梅沢祐一郎 74 元県県民生活部長 前橋
大嶋 一郎 78 元前橋区検副検事 前橋
小川 英幸 72 元札幌統計情報事務所長 伊勢崎
衣笠 巧 77 元専売公社高崎地方局長 桐生
佐俣 嘉也 70 元水戸中央郵便局長 高崎
篠原 武 75 元関東郵政監察局東京北部郵政監察室長 前橋
田中 充 78 群馬工業高専名誉教授 高崎
樽井 哲 71 元公立高校長 前橋
津ノ井三喜男70 元中部管区行政監察局第一部長 前橋
中島 孝雄 80 元前橋警察署長 前橋
平沢 日令吉73 元太田地区消防組合消防正監 太田
藤田 正夫 75 元前橋市消防正監 前橋
山崎 健 74 元関東郵政監察局東京東部郵政監察室長 高崎
▼旭日双光章(14人)
追川 清 76 元倉淵村議 高崎
笠原 幸雄 78 元県農業会議副会長 前橋
栗原 徳治 76 元県商店街振興組合連合会副会長 太田
小池 則行 71 元中之条町議 中之条
清水 茂 74 元県薬剤師会副会長 前橋
高橋信二郎 83 元沼田利根医師会長 沼田
田村 確也 72 元笠懸町長 みどり
登坂 藤夫 73 元渋川市議 渋川
中山 公平 71 元松井田町議 安中
福田 昭二 82 元県間税会連合会副会長 桐生
丸山 貞吉 86 元前橋市議 前橋
三津田和行 74 県知的障害者福祉協会長 高崎
村上 徹 73 元県歯科医師会副会長 前橋
渡辺 忠信 73 元富岡市議 富岡
▼瑞宝双光章(16人)
岩井 栄寿 74 元公立小校長 富岡
加久 裕士 85 学校医 伊勢崎
勝山 哲雄 71 保護司 嬬恋
金井 政江 72 保護司 高崎
小暮 昇 77 元伊香保町助役 渋川
小林 利夫 73 元公立中校長 東吾妻
小林 元昭 75 元公立小校長 太田
砂田 威夫 74 元公立小校長 高崎
武井 実 62 元東武鉄道川越電車乗務区長 館林
田島 国明 71 元公立小校長 前橋
萩原 勝海 71 元特定郵便局長 長野原
平田 信子 68 元厩橋病院総看護長代理 前橋
深沢 篤 74 元公立聾学校長 前橋
福島 迪子 68 元前橋赤十字病院看護部長 前橋
向田ちえ子 60 「両毛整肢療護園」看護師長 桐生
山崎 順一 65 元嬬恋消防団長 嬬恋
▼瑞宝単光章(12人)
青木茂登治 81 元国鉄職員 東吾妻
新井 俊彦 65 元総務事務官 安中
板垣 稔 73 調停委員 伊勢崎
伊藤 芳子 66 元「菱風園」寮長 桐生
長部 勝兆 74 元桐生市消防団分団長 桐生
葛西 松範 66 元三菱電機ホーム機器製造管理部マネジャー 太田
笠原 啓子 62 元群馬大医学部付属病院看護部看護師長 前橋
佐藤 幸雄 77 元松井田町消防団分団長 安中
津久井 昇 78 元国鉄職員 藤岡
中島 俊一 80 元安中市消防団長 安中
半田都志子 80 元利根川水系矢場川旭橋水位観測所観測員 邑楽
間々田 豪 73 工業統計調査員 大泉
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■先日、昭和35年から学校医として半世紀にわたり、地域に貢献してきた台湾出身の眼科医の「叙勲受章を祝う会」が開催されました。
平成22年2月20日(土)午後6時から、伊勢崎市のホテルで、約200人が集まり、祝賀会が開催されました。会場には、大澤正明群馬県知事、原富夫群馬県議会議長、石関貴史衆議院議員、中曽根弘文参議院議員、塚越紀一県議会議員、田島雄一県議会議員、五十嵐清隆伊勢崎市長らが出席しました。
↑挨拶する大澤知事。原稿棒読み。↑
↑挨拶する石関代議士。子どもの頃、学校の眼科検診で加久氏にお世話になったエピソードを披露。↑
↑挨拶する中曽根弘文参議院議員。父親はレーガン時代、米国で不沈空母発言をした大勲位。↑
↑加久氏(左)を祝福する台湾華僑総会会長代理(中央)。↑
ひな壇で祝福を受けたのは、伊勢崎市で「かく眼科」を営む加久裕士(かく・ひろし)夫妻でした。
■加久氏(本名・郭漢謀)は大正13年台湾生まれで、日本国籍を取得していますが、台湾出身者で構成する群馬台湾華僑総会の会長を長年務めています。同氏は、昭和23年3月に群馬大学医学部の前身の前橋医学専門学校を卒業後、昭和24年8月から群馬大学医学部眼科教室勤務し、昭和25年3月から文部教官として群馬大学・前橋医科大学助手、昭和29年4月から群馬大学医学部助手を経て、昭和35年4月に、伊勢崎市で「かく眼科医院」を開業しました。
当時は眼科医が少なく、眼科担当の校医として引っ張りだことなり、以来半世紀に渡り、ずっと学校医の仕事を引き受けてこられました。同氏がこれまでに担当した学校は次の27校に上ります。
市立三郷小学校、市立茂呂小学校、市立北小学校、市立南小学校、市立北第二小学校、市立豊受小学校、市立北中学校、市立第一中学校、市立第三中学校、村立東小学校、村立東中学校、町立赤堀小学校、町立赤堀中学校、町立玉村小学校、町立上陽小学校、市立広瀬小学校、村立南小学校、市立坂東小学校、町立中央小学校、町立南小学校、町立南中学校、県立伊勢崎商業高等学校、県立境高等学校、県立玉村高等学校、県立伊勢崎女子高等学校、県立伊勢崎工業高等学校、県立女子大学
■85歳の現在でも、同氏は、市立北小学校、市立南小学校、市立茂呂小学校、市立三郷小学校、市立北第二小学校の校医を担当しています。
同氏は、地元のロータリークラブに長年所属しており、今回の祝賀パーティも伊勢崎中央ロータリーの伊勢崎佐波医師会の合同主催でした。祝賀会参加者も、同氏の交友関係の多さを反映しており、役所、学校関係者、ロータリークラブ、医師会、台湾華僑総会関係者をはじめ、趣味の盆栽、写真、ゴルフ仲間まで総勢約200人がお祝いに駆けつけました。
■戦前、戦中と台湾は日本の植民地でした。植民地出身者が立身を志しても、政治家や警察官で出世を図ることは不可能でした。そのため、当時、台湾から日本に留学する場合は、医者か教師を目指す人が大半でした。加久氏もそのひとりでした。留学中に終戦を迎えましたが、同氏はそのまま留学先の日本で勉学を続け、同じく眼科医の日本人の夫人とともに、地域医療に貢献してきました。
参会者全員に配布された、叙勲の感想を綴った同氏の挨拶文から、同氏の率直な気持ちを知ることができます。
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御挨拶 ・・・叙勲に出席して・・・
九月下旬、県教育委員会事務局から「秋の叙勲の候補者に内定」との連絡があり、突然の通知に吃驚しました。主要職名が「現 学校医」となって居り、憶えば昭和三十五年に当地に医院開設後間もなく、二十六校の校医を担当することになり、診療所と一斉検診等との日程の遣り繰りに家内と苦心したことが脳裡を離れません。今日迄続けてきた仕事が評価されたのかと思うと感謝の気持ちで一杯です。
十月二十七日、文部科学大臣名義で「十一月三日付で瑞宝双光章が授与されることになりました」との書類を頂くことで受賞の実感が湧いてきました。九日に国立劇場大劇場で伝達式が行われ、次いで皇居で拝謁が行われるとの式次第に家内共々参列しました。
国立劇場大劇場
大劇場に到着すると受付は何れも大変混雑しており、六百名を超す各地からの受賞者を初め配偶者、付添等千名以上でさすがの広大な大劇場も満席でした。国歌斉唱後、ステージの真中で中川文科省副大臣の祝辞があり、受賞者の代表八名は一人ずつ勲記(賞状)と勲章が手渡されました。次いで来賓の挨拶があり、式はスピーディに終了。退出にあたり勲章をつけた私を見付けた家内は、感極まって目頭を押さえていました。
皇居と拝謁
午後二時過ぎ、バスで皇居へ移動。よく手入れされた庭園や松並木を背景に、大型バス三十台が見事に背入れる、祝賀会気分はいやが上に横溢していました。
拝謁は外国国賓の接待にもよく使われている豊明殿で行なわれましたが、想像以上に広大で千名が優に収容されました。天井には大型シャンデリヤが三十数基備えられ、全面の壁には縁起の良い瑞雲模様が描かれていました。
中央壁寄りに一坪程度の台が設えられ、陛下がその台に上られて、代表者からの謝辞をお受けになられた後、受賞者一同に犒いに御言葉を賜りました。
豊明殿から退出後、班毎に記念撮影があり、皇居を後にしました。
この様な身に余る栄誉を頂けたのも、偏に日頃温かく見守って下さいました皆々様のお陰と感謝の気持ちで一杯です。
有難うございました。
平成二十二年二月二十日 加久裕士
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■日本医師会によると、平成21年秋の叙勲・褒章受章者で、日本医学会関係者の受章者は、瑞宝中綬章が9名で対象者の経歴は大学医学部の名誉教授や元国立病院長など。旭日小授章が4名で、県の医師会長歴任者。瑞宝小授章が17名で、県の保健衛生部長や公立病院長、自衛隊衛生官などの歴任者。旭日双光章が28名で、市町村の医師会長や役員歴任者。瑞宝双光章が21名で、県の保健所長や学校医、警察嘱託医の歴任者。藍綬褒章4名で県医師会理事経験者となっています。
こうして、日本の植民地だった台湾から日本にわたり半世紀の間、校医として10万人以上の児童生徒及び保護者に貢献して瑞宝双光章を叙勲され、天皇への拝謁の栄誉に浴した感動と感銘を率直に綴った加久氏と、東京大空襲だけでも10万人以上の日本人を無差別爆撃で殺戮した責任者なのに最高位の勲一等旭日大綬章が贈られた米国軍人や、日米安保に基づき日本滞在2年でほぼ自動的に高位叙勲を受けている在日米軍幹部などとを比べてみると、どちらが高位の叙勲を受けるのにふさわしいか、と考えさせられます。
【ひらく会事務局】