日々

穏やかな日々を

出雲の名僧墨跡展:松江・鹿島歴民館で開催 /島根

2011年05月28日 13時38分48秒 | 
出雲の名僧墨跡展:松江・鹿島歴民館で開催 /島根
 松江市鹿島町名分、市立鹿島歴史民俗資料館(曽田稔館長)で、企画展「出雲の名僧 朝日寺 空谷(くうこく)の墨跡」が開かれている。

 空谷(1766~1834)は江戸時代後期の僧。同市鹿島町の朝日山山頂にある朝日寺住職で、鰐淵寺(出雲市)の敬光、法恩寺(同)の道光とともに「出雲の三名僧」「出雲の三詩僧」と呼ばれた。数多くの書画が寺院や個人宅に所蔵されており、今回、企画展を開催することになった。

 展示されているのは空谷筆の軸、額、扁額など計18点。書家でもある曽田館長は「空谷は中国・東晋の書家、王義之を熱心に勉強したといい、真っすぐに伸びた癖のない字が特徴」と話す。

 同資料館(0852・82・2797)。企画展は6月19日まで。【元田禎】

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ものすごい先生がいたね、だから、今の先生が悩むかも・・・・・・できないといって

2011年05月28日 13時35分56秒 | 
支局長からの手紙:「よぶこえ」と共に20年 /島根
 「松江東の校長は熱心な人だけん、一度会いに行ってみたら」

 知人の社会保険労務士、阪本清さん(58)にそう言われたのは、随分前のことです。松江市・学園通りの今井書店に最近立ち寄り、ふと目に止まったのが県立松江東高校校長、中村清志さん(59)の著書「校長だより 続よぶこえ」(今井出版、1050円)。阪本さんの言葉を思い出し、早速買って読みました。そして先週16日、学校で中村さんにお話を伺いました。

 雲南市木次町出身。岡山大学法学部を目指すもかなわず、岡山市内の大学予備校に通っているとき、講師から「文学部の方が向いている」と言われました。進路を文学部に変え、大阪の大学に進学。2年余計に大学にとどまり、卒業後は、塾講師と高校の非常勤講師を掛け持ちしながらの日々を送りました。「勤めた高校は当時荒れていて、生徒を着席させることさえ大変でした。胃がキリキリと痛み、『このままだと倒れてしまう。いつやめようか』とばかり考えていました」

 「九九」は七の段あたりになるとあやしく、英語のアルファベットも理解していない生徒が多かったそうです。でも、中村さんはある日、職員室に戻ってきた数学教諭の話に感動しました。「2ケタ同士の掛け算ができなかった生徒が、随分時間がたった後に正解を答えたというのです。学校の天井は小さな穴が空いたボードを張り付けた構造で、生徒は穴の規則性に気付き、答えを導き出した。九九が出来なかった生徒の集中力と発想の転換に職員室にいた皆が驚き、『高校の教員っていいな』と思ったのです」と振り返ります。

 1980年春、島根県の高校国語教諭として採用されました。教員生活10年目、浜田高校在籍6年目の89年に学級通信「呼ぶ声」を発行。以来20年余り、名前は「呼ぶ声」から「よぶこゑ」、最後は「よぶこえ」と移り変わり、配る相手もクラスの生徒、学年全部、教職員、そして全校に変わりました。「大阪の高校が教師としての原風景。だから今の自分がある」と中村さん。通信の名前は変わっても、生徒を可愛いと思う気持ちは、昔も今も変わりません。

 朝はたいてい5時までに起き、原稿は早朝に仕上げます。土日、祝日を除く平日の発行が原則で、生徒との触れ合い、自らの読書の感想、学校行事や古里の伝統行事、時事問題、新聞からの引用など、取り上げる話題は多岐にわたります。「続 よぶこえ」は、2010年度に配布したものを1冊393ページにまとめました。生徒の中に積極的に分け入って、笑顔で語り合う中村校長。そんな情景が、行間の随所に感じ取れます。

 校長室のドアはいつも開放し、生徒たちの出入りは自由。泣きながら部屋に入って来る生徒、「私をよぶこえに書いてください」とアピールする子……。中村さんは、生徒の名前と顔を一致させるため、部活動をしばしばのぞきます。全校生徒700余名。「全員を記憶するのはなかなか。とりあえず500人が目標」と笑います。

 中村さんは8月、満60歳になります。生徒との泣き笑いの「通信」は来春、定年退職を機に満開を迎えます。【松江支局長・元田禎】

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私の父にも戦争を語ってほしかった、M44年生まれの父でした。

2011年05月28日 13時26分48秒 | 戦い
平和のバトン:島根・語り継ぐ戦争 森山俊郎さん/上 /島根
 ◇絶望感と日本への思い 「『記録』私の捕虜記」自費出版--森山俊郎さん(86)出雲市
 出雲市多伎町久村の森山俊郎さん(86)が今年3月、自身の抑留体験について63年前に書き留めた「私の捕虜記」を、「『記録』私の捕虜記」と題して自費出版した。遠くウクライナまで連行されるなど、約2年に及んだ抑留生活で何度も絶望感を味わった森山さんだったが、強い気持ちを持ち続けて無事に帰国。異国の山野に消えていった仲間たちをしのびながら、「戦争なんて絶対にしちゃいけん」と訴える。

 20歳の時に旧日本陸軍の下級幹部となった森山さんだったが、2週間後に敗戦を迎えた。当時、朝鮮半島・長淵邑で対戦車用陣地の構築にあたっており、しばらくその場で待機。45年8月26日に撤退が決定した。この時、南下して釜山を目指すか、近くの平壌に向かうかで意見が分かれたが、2日間議論した結果、汽車で平壌に向かうことになった。これが大きな運命の分かれ道となる。平壌の駅に着くと旧ソ連の兵が待ち受けており、捕虜となった。

 平壌近郊の収容所に入った捕虜の数は日に日に増え、5万~6万人まで膨れあがったという。ある時、逃亡しようとした2人が捕まり、見せしめのために公開処刑された。森山さんは「出たところで帰る方法がない。逃げようとは思わなかった」。

 12月18日夜、突然出発命令が出た。数万人の捕虜がうらやましそうに見守る中、「日本に帰れるぞ。正月の餅が食えるぞ」と喜びながら出発した。だが、日本海側の興南収容所に移されただけで、捕虜生活はさらに半年近く続くことになる。それでも、収容所内で野球や相撲、落語などの娯楽が許されるなど、監視は比較的緩くなった。森山さんの胸の中でも、自然と帰国への希望が膨らんでいった。

 1946年6月14日、森山さんは約5000人の仲間と共に貨物船に乗り込んだ。記録には「日本を数日で見ることができる喜びと希望に溢(あふ)れて待っていた」と書かれている。船倉内で裸になって暑さに耐えながら、喜々として捕虜生活の思い出を語り合った。だが出航後数時間で不安が芽生える。帰国するなら背後に消えるはずの朝鮮半島がどこまで行っても左手に見えていた。森山さんは「おかしいな」と思いつつも、「ウラジオストク経由で帰るのかな」と希望を持ち続けた。だがその期待もすぐに裏切られた。

 ソ連領に入りポセットで再び収容所に。今度は宿舎もなく、毛布でテントを作って生活した。雨が降ると毛布からしずくがしたたり落ち、そこら中がカビだらけになる過酷な環境だった。

 7月7日にシベリア鉄道に乗り込む。1両の広さが7畳ほどの貨車が上下2段に仕切られ、38人が詰め込まれた。「まるで生きた荷物でしたわ」。ソ連兵に聞いても行き先は教えてもらえなかった。だが、小窓から北に向かっていることが判明し、その先の苦難を悟った。列車は森林や草原の中をひたすら走り、ポセット出発から27日後に行き着いた先は、東欧・ウクライナの小都市、スラビヤンスク。「記録」には「未知の土地であり、最早帰国と言う願いは完全に断たれた」という絶望感があふれる言葉がつづられた。【細谷拓海】

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