<女人救済の東慶寺(2)>
江戸時代には、上州(群馬・太田)の「満徳寺」とともに幕府寺社奉行に承認された縁切寺として知られた。女性の側から離婚できなかった封建時代、ここ北鎌倉の東慶寺に駆込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで六百年の永きにわたり、縁切りの寺法を守ってきたのである。
駆込みした女性の数だが、江戸末期までに少なくても三千人いたという。「駆込み」とは実際にどんなものだったろうか、興味をそそられた。
東慶寺への駆け込みは、朝方と相場が決まっているそうだ。
『「・・・・・・駆け込みにも御定法のようなものがあるんです。たいていこうです。午後遅く、
普段着のまま、ちょいとそこまで用足しにと何気ない素振りで家を出て、町内の角を曲がったらあとは一目散、
夜通し鎌倉を目指す。江戸と鎌倉のあいだは、日本橋から六郷ノ渡までが三里半、六郷の渡から鎌倉までが九里半、
あわせて十三里。そうすると、どうしても鎌倉へ入るのは朝方になる。この半年のあいだに、東慶寺への
駆け込みが九件もありましたが、八件までが江戸の女(ひと)で、例外なく朝方の駆け込みでした。
一件だけ夜中があったが、これは勘定には入りません。大磯からの駆け込みでしたから」』
文春文庫 井上ひさし著「東慶寺花だより 梅の章 おせん」 より
ふむ。駆込み寺は、女性が好む「九里四里(栗より)うまい十三里(=芋)」とか十三里半の、あの<川越>までと同じ距離なのか。
東慶寺にたどり着いたが追手に追いつかれたときには、櫛とか草履とか身につけているものを寺に投げ込めば駆け込みになるという。
駆込みを受けた寺役所は妻方夫方関係者を呼び出し、まずは和解を図る。和解がむずかしければ離縁状を書くように勧める。これが内済離縁(示談)だが、どうしても夫が離縁しないと言い張ったときに妻を東慶寺に入山させて二十四カ月のお勤めを済ませ「寺法離縁」が成立する。
地獄の沙汰も金次第というが、寺に入る許しがでるとお金を納める。その上げ金(冥加金)の額で格が決まる。金三十両で上﨟格、十五両で御茶間格、それ以下は御半下格(おはしたかく)。上﨟(じょうろう)格は、お教を習い覚えてあとはボーッとして年季の明けるのを待つ。御茶間(おちゃのま)格は針と糸を持って注文の仕立物をして食い扶持を稼ぐ。御半下(おはした)格は掃除洗濯炊事畑仕事、その他雑用をなにからなにまでやらねばならない。
寺では、五辛酒魚(ごしんしゅぎょ)禁止の尼僧と同じ生活をおくる。五辛というのは、にんにく、ねぎ、にら、あさつき、らっきょうなど、辛味や臭味のある野菜のことで、精力がつき、色欲を育てるから食べてはいけないのである。
病気になったときはどうするか。男は僧医でないと中門からなかへは入れない。東慶寺の後見は円覚寺なので、病人が出たら円覚寺の僧医にかかることになる。
二十四か月の寺での年季があければ離縁が成立し、旦那から離縁状(再縁免許)が手に入る。年季のお陰で、お歯黒も剥げて白くなり、寺に入るとき切った髪も元通りになっている寸法である。
東慶寺では、尼寺が廃されるまで女性の住持が三十代続いたそうだが、格式は大名より高く、住持の行列と大名行列がすれ違うときには、大名が道を譲ったという。
鎌倉での寺格も、一番目の円覚寺に次いで二番目だったそうである。
参考文献:文春文庫 井上ひさし著「東慶寺花だより」
→「女人救済の東慶寺(1)」の記事はこちら
江戸時代には、上州(群馬・太田)の「満徳寺」とともに幕府寺社奉行に承認された縁切寺として知られた。女性の側から離婚できなかった封建時代、ここ北鎌倉の東慶寺に駆込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで六百年の永きにわたり、縁切りの寺法を守ってきたのである。
駆込みした女性の数だが、江戸末期までに少なくても三千人いたという。「駆込み」とは実際にどんなものだったろうか、興味をそそられた。
東慶寺への駆け込みは、朝方と相場が決まっているそうだ。
『「・・・・・・駆け込みにも御定法のようなものがあるんです。たいていこうです。午後遅く、
普段着のまま、ちょいとそこまで用足しにと何気ない素振りで家を出て、町内の角を曲がったらあとは一目散、
夜通し鎌倉を目指す。江戸と鎌倉のあいだは、日本橋から六郷ノ渡までが三里半、六郷の渡から鎌倉までが九里半、
あわせて十三里。そうすると、どうしても鎌倉へ入るのは朝方になる。この半年のあいだに、東慶寺への
駆け込みが九件もありましたが、八件までが江戸の女(ひと)で、例外なく朝方の駆け込みでした。
一件だけ夜中があったが、これは勘定には入りません。大磯からの駆け込みでしたから」』
文春文庫 井上ひさし著「東慶寺花だより 梅の章 おせん」 より
ふむ。駆込み寺は、女性が好む「九里四里(栗より)うまい十三里(=芋)」とか十三里半の、あの<川越>までと同じ距離なのか。
東慶寺にたどり着いたが追手に追いつかれたときには、櫛とか草履とか身につけているものを寺に投げ込めば駆け込みになるという。
駆込みを受けた寺役所は妻方夫方関係者を呼び出し、まずは和解を図る。和解がむずかしければ離縁状を書くように勧める。これが内済離縁(示談)だが、どうしても夫が離縁しないと言い張ったときに妻を東慶寺に入山させて二十四カ月のお勤めを済ませ「寺法離縁」が成立する。
地獄の沙汰も金次第というが、寺に入る許しがでるとお金を納める。その上げ金(冥加金)の額で格が決まる。金三十両で上﨟格、十五両で御茶間格、それ以下は御半下格(おはしたかく)。上﨟(じょうろう)格は、お教を習い覚えてあとはボーッとして年季の明けるのを待つ。御茶間(おちゃのま)格は針と糸を持って注文の仕立物をして食い扶持を稼ぐ。御半下(おはした)格は掃除洗濯炊事畑仕事、その他雑用をなにからなにまでやらねばならない。
寺では、五辛酒魚(ごしんしゅぎょ)禁止の尼僧と同じ生活をおくる。五辛というのは、にんにく、ねぎ、にら、あさつき、らっきょうなど、辛味や臭味のある野菜のことで、精力がつき、色欲を育てるから食べてはいけないのである。
病気になったときはどうするか。男は僧医でないと中門からなかへは入れない。東慶寺の後見は円覚寺なので、病人が出たら円覚寺の僧医にかかることになる。
二十四か月の寺での年季があければ離縁が成立し、旦那から離縁状(再縁免許)が手に入る。年季のお陰で、お歯黒も剥げて白くなり、寺に入るとき切った髪も元通りになっている寸法である。
東慶寺では、尼寺が廃されるまで女性の住持が三十代続いたそうだが、格式は大名より高く、住持の行列と大名行列がすれ違うときには、大名が道を譲ったという。
鎌倉での寺格も、一番目の円覚寺に次いで二番目だったそうである。
参考文献:文春文庫 井上ひさし著「東慶寺花だより」
→「女人救済の東慶寺(1)」の記事はこちら
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