<栃木・黒羽、雲厳寺>
テレビでJRが打つ旅情溢れるスポットCM、特に「大人の休日倶楽部」のヤツは見事に視聴者の旅心をくすぐり、ガシッと掴む。それはオマエがたんに吉永小百合ファンだからじゃねーのか、というスルドイつっこみは無視する。野球の打率でいえば三、四割くらいのヒット数は軽くあるのではないか。
かくいうわたしも思い切り掴まれたクチで、ざっと思いだすだけでも、青森・津軽の「鶴の舞橋」、山形・酒田の「山居倉庫」に「相馬楼」、新潟・村上の「味匠 喜っ川」などについつい旅してしまった。
そして今回わたしは、栃木の黒羽(くろばね)の臨済宗妙心寺派の名刹、東山雲厳寺(うんがんじ)にいるわけだ。筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並び、禅宗の日本四大道場と呼ばれている。
武茂川の清流に架けられた、朱塗りの反り橋「瓜鉄橋(かてっきょう)」から山門へ至る階段の景観は見事の一語につきる。
陸奥を目指す芭蕉と曾良の一行は、元禄二年(1689年)四月三日(新暦5月21日)、日光から矢板、大田原を経て黒羽に到着した。その二日後の四月五日(新暦5月23日)に、仏頂(ぶっちょう)禅師ゆかりの雲厳寺を訪ね、禅師が修行した山居跡を見物する。
芭蕉が江戸市中から深川の草庵に移ってまもなく、臨川庵に仮住まいをしていた仏頂禅師と運命的な出逢いをして臨川庵で、朝夕に参禅の日々を一年半ほど送るようになる。仏頂禅師は修業時代、この雲厳寺の山中にこもったそうである。
ここからしばらくはわたしの軽佻浮薄な文章より、「奥の細道」の文章で味わっていただこう。もちろん原文ではなく現代語訳で。
この下野国(しもつけのくに)の雲厳寺の奥に、私の禅の師である仏頂和尚の山ごもりした跡があった。
いつだったか、和尚が私に、「山ごもりしたときに、『竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵結ぶも
くやし雨なかりせば(人ひとり寝るのがやっとの狭い小屋でも、雨をしのぐために、捨てることが
できないのが残念だ。まだ無一物(むいちもつ)の心境になれない)』と、自分を戒める歌を、
松の炭で近くの岩に書きつけたものだよ」とおっしゃったことがある。
その跡を見ようと、雲厳寺に杖をついて出かけたが、周りの人々が自然に誘いあって大人数となり、
若い人が多く、にぎやかに道を進むうちに、いつのまにか、寺のある麓に到着した。
山は奥深い雰囲気がただよい、谷沿いの道がはるかに続き、松や杉が光も射さないほど黒々と
生い茂っている。地面には緑の苔が敷きつめられ、初夏の空も、ここではまだ寒々と感じられた。
雲厳寺十景の終点にある橋を渡って、雲厳寺の山門をくぐった。
さて、あの仏頂和尚の山ごもりの跡はどのあたりか、と寺の裏山によじのぼると、岩の上に小屋が、
洞窟に寄せかけて造ってあった。古い中国の高僧の話だが、妙禅師がこもり、そこで没した
「死関(しかん)」という名の洞窟や、法雲法師が岩上に造った庵を、目の前に見る思いがした。
木啄(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立
(静かな夏の林のなかで、啄木鳥の木をつつく音が聞こえる。その啄木鳥も、仏頂和尚の庵には
敬意を払って、つつき破らないとみえ、元のかたちを保っている)
その場の気分を一句にしたてて、庵の柱に掛けておいた。
角川文庫 ビギナーズ・クラシック「松尾芭蕉・角川書店編 おくのほそ道(全)」より
石段をのぼり山門を抜けると、正面に風格ある獅子王殿がある。
そして、獅子王殿の上方にある方丈本殿までが、一直線に並ぶ伽藍配置になっている。
鐘楼までもがなんとも味わい深い。
寺の歴史は鎌倉時代の執権北条時宗が建立した禅寺に始まったわけだが、豊臣秀吉による小田原征伐に従わなかった烏山城の那須資晴を攻める際、雲厳寺に付近の住民が集まると聞いた秀吉が火を放ち山門を残して焼失した。その後江戸期に再興して現在に至っている。
この雲厳寺、那須最強のパワースポットだそうだ。わたしもパワーはともかく禅寺特有の静謐な雰囲気だけはしっかり味わえた。
→「鶴の舞橋」の記事はこちら
→「山居倉庫」の記事はこちら
→「酒田、相馬楼」の記事はこちら
→「鮭の町、村上(1)」の記事はこちら
→「鮭の町、村上(2)」の記事はこちら
→「鮭の町、村上(3)」の記事はこちら
→「永平寺、初参詣(1)」の記事はこちら
テレビでJRが打つ旅情溢れるスポットCM、特に「大人の休日倶楽部」のヤツは見事に視聴者の旅心をくすぐり、ガシッと掴む。それはオマエがたんに吉永小百合ファンだからじゃねーのか、というスルドイつっこみは無視する。野球の打率でいえば三、四割くらいのヒット数は軽くあるのではないか。
かくいうわたしも思い切り掴まれたクチで、ざっと思いだすだけでも、青森・津軽の「鶴の舞橋」、山形・酒田の「山居倉庫」に「相馬楼」、新潟・村上の「味匠 喜っ川」などについつい旅してしまった。
そして今回わたしは、栃木の黒羽(くろばね)の臨済宗妙心寺派の名刹、東山雲厳寺(うんがんじ)にいるわけだ。筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並び、禅宗の日本四大道場と呼ばれている。
武茂川の清流に架けられた、朱塗りの反り橋「瓜鉄橋(かてっきょう)」から山門へ至る階段の景観は見事の一語につきる。
陸奥を目指す芭蕉と曾良の一行は、元禄二年(1689年)四月三日(新暦5月21日)、日光から矢板、大田原を経て黒羽に到着した。その二日後の四月五日(新暦5月23日)に、仏頂(ぶっちょう)禅師ゆかりの雲厳寺を訪ね、禅師が修行した山居跡を見物する。
芭蕉が江戸市中から深川の草庵に移ってまもなく、臨川庵に仮住まいをしていた仏頂禅師と運命的な出逢いをして臨川庵で、朝夕に参禅の日々を一年半ほど送るようになる。仏頂禅師は修業時代、この雲厳寺の山中にこもったそうである。
ここからしばらくはわたしの軽佻浮薄な文章より、「奥の細道」の文章で味わっていただこう。もちろん原文ではなく現代語訳で。
この下野国(しもつけのくに)の雲厳寺の奥に、私の禅の師である仏頂和尚の山ごもりした跡があった。
いつだったか、和尚が私に、「山ごもりしたときに、『竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵結ぶも
くやし雨なかりせば(人ひとり寝るのがやっとの狭い小屋でも、雨をしのぐために、捨てることが
できないのが残念だ。まだ無一物(むいちもつ)の心境になれない)』と、自分を戒める歌を、
松の炭で近くの岩に書きつけたものだよ」とおっしゃったことがある。
その跡を見ようと、雲厳寺に杖をついて出かけたが、周りの人々が自然に誘いあって大人数となり、
若い人が多く、にぎやかに道を進むうちに、いつのまにか、寺のある麓に到着した。
山は奥深い雰囲気がただよい、谷沿いの道がはるかに続き、松や杉が光も射さないほど黒々と
生い茂っている。地面には緑の苔が敷きつめられ、初夏の空も、ここではまだ寒々と感じられた。
雲厳寺十景の終点にある橋を渡って、雲厳寺の山門をくぐった。
さて、あの仏頂和尚の山ごもりの跡はどのあたりか、と寺の裏山によじのぼると、岩の上に小屋が、
洞窟に寄せかけて造ってあった。古い中国の高僧の話だが、妙禅師がこもり、そこで没した
「死関(しかん)」という名の洞窟や、法雲法師が岩上に造った庵を、目の前に見る思いがした。
木啄(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立
(静かな夏の林のなかで、啄木鳥の木をつつく音が聞こえる。その啄木鳥も、仏頂和尚の庵には
敬意を払って、つつき破らないとみえ、元のかたちを保っている)
その場の気分を一句にしたてて、庵の柱に掛けておいた。
角川文庫 ビギナーズ・クラシック「松尾芭蕉・角川書店編 おくのほそ道(全)」より
石段をのぼり山門を抜けると、正面に風格ある獅子王殿がある。
そして、獅子王殿の上方にある方丈本殿までが、一直線に並ぶ伽藍配置になっている。
鐘楼までもがなんとも味わい深い。
寺の歴史は鎌倉時代の執権北条時宗が建立した禅寺に始まったわけだが、豊臣秀吉による小田原征伐に従わなかった烏山城の那須資晴を攻める際、雲厳寺に付近の住民が集まると聞いた秀吉が火を放ち山門を残して焼失した。その後江戸期に再興して現在に至っている。
この雲厳寺、那須最強のパワースポットだそうだ。わたしもパワーはともかく禅寺特有の静謐な雰囲気だけはしっかり味わえた。
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