<愛宕権現>
愛宕山の標高は二十七メートル、江戸時代には見晴らしの名所で江戸湾や房総半島を見渡すことができた。
四百年後のいまの景観は建ち並ぶビル群しか見えない・・・。
山頂にある愛宕神社は、慶長八年(1603年)に徳川家康の命により創建された。主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)で、防火、防災に霊験があるとされる。
愛宕神社(権現)は、あの鬼平シリーズにもちょいちょい出てくる場所である。
『この愛宕権現は、人も知る江戸四ヶ寺の一つで、胸を突くような男坂の石段をのぼりつめた
愛宕山上の境内へ立つと、
「見おろせば三条九陌の万戸千門は甍をつらね、江戸湾の海水は渺焉とひらけて千里の風光を
たくわえ・・・」
と物の本に記してあるように観光、参詣に人びとが絶え間もない。』
池波正太郎著「鬼平犯科帳」第十九巻、「妙義の團右衛門」より
愛宕神社はまた「出世の階段」でも知られている。
「おぉー、なんと急な階段だ」
高崎の達磨寺の階段よりも胸突き八丁、傾斜がきつい。
(この階段を・・・馬に騎乗して駆け上がったとは!)
駆け上がるのも恐いが、騎乗して駆け下りるほうがもっと恐ろしい。階段のトラウマを引きずるわたしは、見おろして足がすくむ。
どこも行かない日曜日の午後、わたしは囲碁番組を観る。
ところが秒読みが始まるとコトンと眠りに落ちてしまい、どちらが勝ったのかをたいてい見逃してしまうのだ。
その日もそうで、眼を覚ますと次の「日本の話芸」という番組になってしまっていた。講談「寛永三馬術 曲垣平九郎 愛宕山梅花の誉」で、これがとても面白く思わず聞きいってしまった。
寛永十一年(1634年)、将軍徳川家光公が増上寺への参詣の帰りに愛宕神社を通りかかり、愛宕山の満開の梅が眼にとまり「誰か、馬にてあの梅を取ってこい」と命ずる。誰もが尻ごみするなか、見事にしてのけ一躍名をあげたのが、四国丸亀藩の家臣曲垣平九郎(まがき へいくろう)であった。
石段脇のあんみつでも食べられそうな茶店のような建物は、東京産の食材に拘るイタリアンレストランである。千円くらいでも食べられるのだが、今日は洋食という気分ではない。
小さな池には腹を減らした鯉がうじゃうじゃといた。
そろそろ腹が減ってきたので、新橋駅構内のさぬきうどん屋を目指す。なんのことはない今日のわたしは手元不如意なのである。
女坂を降りて虎ノ門方向に歩きだす。
着いてみると店のあるあたりは工事中で断念せざるを得ないのだが、さぬきうどんに未練が残る。どこかこの辺になかったか・・・。
そうだ、四国の物産館があった。
二階のレストランにいってみると、嬉しいことに灰皿が置いてある。一番安いかけうどんと、一杯だけと心に誓い四国の辛口の地酒を頼む。
酒もうどんも大満足。さぬきうどんにしつこく拘って大正解であった。
そうそう、急な男坂も雨が危ない女坂も厭だというひとは近くの愛宕トンネル脇にエレベーターが設置されているので、それを使えば楽に山上にあがれる。
→「クロサワと達磨寺」の記事はこちら
愛宕山の標高は二十七メートル、江戸時代には見晴らしの名所で江戸湾や房総半島を見渡すことができた。
四百年後のいまの景観は建ち並ぶビル群しか見えない・・・。
山頂にある愛宕神社は、慶長八年(1603年)に徳川家康の命により創建された。主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)で、防火、防災に霊験があるとされる。
愛宕神社(権現)は、あの鬼平シリーズにもちょいちょい出てくる場所である。
『この愛宕権現は、人も知る江戸四ヶ寺の一つで、胸を突くような男坂の石段をのぼりつめた
愛宕山上の境内へ立つと、
「見おろせば三条九陌の万戸千門は甍をつらね、江戸湾の海水は渺焉とひらけて千里の風光を
たくわえ・・・」
と物の本に記してあるように観光、参詣に人びとが絶え間もない。』
池波正太郎著「鬼平犯科帳」第十九巻、「妙義の團右衛門」より
愛宕神社はまた「出世の階段」でも知られている。
「おぉー、なんと急な階段だ」
高崎の達磨寺の階段よりも胸突き八丁、傾斜がきつい。
(この階段を・・・馬に騎乗して駆け上がったとは!)
駆け上がるのも恐いが、騎乗して駆け下りるほうがもっと恐ろしい。階段のトラウマを引きずるわたしは、見おろして足がすくむ。
どこも行かない日曜日の午後、わたしは囲碁番組を観る。
ところが秒読みが始まるとコトンと眠りに落ちてしまい、どちらが勝ったのかをたいてい見逃してしまうのだ。
その日もそうで、眼を覚ますと次の「日本の話芸」という番組になってしまっていた。講談「寛永三馬術 曲垣平九郎 愛宕山梅花の誉」で、これがとても面白く思わず聞きいってしまった。
寛永十一年(1634年)、将軍徳川家光公が増上寺への参詣の帰りに愛宕神社を通りかかり、愛宕山の満開の梅が眼にとまり「誰か、馬にてあの梅を取ってこい」と命ずる。誰もが尻ごみするなか、見事にしてのけ一躍名をあげたのが、四国丸亀藩の家臣曲垣平九郎(まがき へいくろう)であった。
石段脇のあんみつでも食べられそうな茶店のような建物は、東京産の食材に拘るイタリアンレストランである。千円くらいでも食べられるのだが、今日は洋食という気分ではない。
小さな池には腹を減らした鯉がうじゃうじゃといた。
そろそろ腹が減ってきたので、新橋駅構内のさぬきうどん屋を目指す。なんのことはない今日のわたしは手元不如意なのである。
女坂を降りて虎ノ門方向に歩きだす。
着いてみると店のあるあたりは工事中で断念せざるを得ないのだが、さぬきうどんに未練が残る。どこかこの辺になかったか・・・。
そうだ、四国の物産館があった。
二階のレストランにいってみると、嬉しいことに灰皿が置いてある。一番安いかけうどんと、一杯だけと心に誓い四国の辛口の地酒を頼む。
酒もうどんも大満足。さぬきうどんにしつこく拘って大正解であった。
そうそう、急な男坂も雨が危ない女坂も厭だというひとは近くの愛宕トンネル脇にエレベーターが設置されているので、それを使えば楽に山上にあがれる。
→「クロサワと達磨寺」の記事はこちら
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