本画の下絵ではないかと思われる作品ですが、よく描かれています。ちょっと不気味な作品ですが・・・。
鳥山石燕図(下絵) 高橋廣湖筆
紙本水墨着色軸装 杉合箱
全体サイズ:横950*縦2110 画サイズ:横810*縦1445
「鳥山石燕図」は仮の題名です。妖怪画を多く描いた鳥山石燕を描いたものではないかという推察によります。歴史画を得意とした高橋廣湖ですので、ほかの題材の可能性もあります。
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高橋廣湖:明治8年生まれ、明治45年没、享年37歳。山鹿市松坂町で画塾を営む浦田家の長男として生まれる。本姓は。浦田久馬記。
初め父に雲谷派の画の手ほどきをうけた。父の浦田長次郎(号観松堂雪長・雪翁)は城北地区の神社の絵馬にその名前を多く残している。また、弟の浦田四郎(号廣香・湖月)は八千代座の天井広告画の絵を描いた。のち犬塚松琴に南画を、さらに松本楓湖の安雅堂画塾に学び、松本楓湖の名の一文字をもらい、明治33年に「廣湖」と号した(別号に天鹿)。
東京の有名な名妓で女優の今紫(本名高橋こう)が熊本市の東雲座で公演中、廣湖は舞台上で華麗に舞う今紫の踊りを毎日通いスケッチしていた。その絵を見た今紫に才能を認められ、明治30年に上京して養子となり高橋家を継ぎ、今紫は物心両面から廣湖を支援し、本格的に日本画の勉強を始める。このことは当時の新聞に美談として掲載され話題をさらった。
巽画会結成に参加。仏画、美人画、花鳥画、山水画、風俗画など幅広いジャンルの優れた作品を手掛け、とくに歴史画に多くの秀作を残す。巽画会の重鎮として尾竹竹坡と並称され、「馬上の誉図屏風」(小島家所蔵)「少将伊衡」「都の春」は代表作。非常に才能豊であった。
明治40年、第1回文展出品予定作品「平重盛讒言図」が、凝り性の廣湖のため制作が間に合わず、期限切れで出品不能となったが、のちに東京市長となった後藤新平が埋もれるには惜しい作品と評し、個展を開催するために奔走した。個展は新聞のトップをかざるなど非常に好評で、皮肉なことに個展会場前の美術館で開催された文展を上回る人気となった。
伝統的な日本画を基本に西洋画の表現を加味した和洋折衷の画風が特徴で、日本画に新たに境地を見出すなど、名実ともに日本画壇で地位を築いた。
また早描きの技も得意とし、相撲のスケッチや挿絵が新聞に掲載された。
横山大観たちとともに活躍したが、旅先の大連で猩紅熱にかかり、帰宅後に惜しまれつつ明治45年(1912)、わずか37歳の若さで急逝した。日本画家で同じ郷土熊本出身の堅山南風の師でもあり、日展の重鎮として活躍した浦田正夫の叔父である。
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妖怪などが身の回りにいるという作品ですが、生きるということは魑魅魍魎たるものと思えば・・。
魑魅魍魎たるものに惑わせれて生きてはいけませんね。
欲望や憎しみや恨みといった感情が心の隙間に入り込んできても打ち消す強さが必要のようですが、最近、テレビで松本清張の作品の見すぎ・・・
この作品が下絵とすると本画はそのような作品になったのでしょうか? 無論、印章だけが高橋廣湖とする根拠ですから別の画家の可能性もあります。
下絵といえどもかなりの大きさの作品ですが、粗雑にされていたようで痛んでいた作品を後日、表具したように思われます。
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鳥山石燕:正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。
また、弟子も多く喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。
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この作品の題材にほかのものがあると心あたりの方がいましたら、コメントをいただけるとありがたいのですが・・。
高橋廣湖の本ブログに投稿された他の作品は下記のとおりです。
鯉之瀧登 高橋廣湖筆絹本水墨淡彩軸装箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1050
即興的な作品で、たしかもう一点あったはずですが・・・。自宅の寝室に飾っています。
この二作品からも技量の高さがうかがい知れます。
鳥山石燕図(下絵) 高橋廣湖筆
紙本水墨着色軸装 杉合箱
全体サイズ:横950*縦2110 画サイズ:横810*縦1445
「鳥山石燕図」は仮の題名です。妖怪画を多く描いた鳥山石燕を描いたものではないかという推察によります。歴史画を得意とした高橋廣湖ですので、ほかの題材の可能性もあります。
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高橋廣湖:明治8年生まれ、明治45年没、享年37歳。山鹿市松坂町で画塾を営む浦田家の長男として生まれる。本姓は。浦田久馬記。
初め父に雲谷派の画の手ほどきをうけた。父の浦田長次郎(号観松堂雪長・雪翁)は城北地区の神社の絵馬にその名前を多く残している。また、弟の浦田四郎(号廣香・湖月)は八千代座の天井広告画の絵を描いた。のち犬塚松琴に南画を、さらに松本楓湖の安雅堂画塾に学び、松本楓湖の名の一文字をもらい、明治33年に「廣湖」と号した(別号に天鹿)。
東京の有名な名妓で女優の今紫(本名高橋こう)が熊本市の東雲座で公演中、廣湖は舞台上で華麗に舞う今紫の踊りを毎日通いスケッチしていた。その絵を見た今紫に才能を認められ、明治30年に上京して養子となり高橋家を継ぎ、今紫は物心両面から廣湖を支援し、本格的に日本画の勉強を始める。このことは当時の新聞に美談として掲載され話題をさらった。
巽画会結成に参加。仏画、美人画、花鳥画、山水画、風俗画など幅広いジャンルの優れた作品を手掛け、とくに歴史画に多くの秀作を残す。巽画会の重鎮として尾竹竹坡と並称され、「馬上の誉図屏風」(小島家所蔵)「少将伊衡」「都の春」は代表作。非常に才能豊であった。
明治40年、第1回文展出品予定作品「平重盛讒言図」が、凝り性の廣湖のため制作が間に合わず、期限切れで出品不能となったが、のちに東京市長となった後藤新平が埋もれるには惜しい作品と評し、個展を開催するために奔走した。個展は新聞のトップをかざるなど非常に好評で、皮肉なことに個展会場前の美術館で開催された文展を上回る人気となった。
伝統的な日本画を基本に西洋画の表現を加味した和洋折衷の画風が特徴で、日本画に新たに境地を見出すなど、名実ともに日本画壇で地位を築いた。
また早描きの技も得意とし、相撲のスケッチや挿絵が新聞に掲載された。
横山大観たちとともに活躍したが、旅先の大連で猩紅熱にかかり、帰宅後に惜しまれつつ明治45年(1912)、わずか37歳の若さで急逝した。日本画家で同じ郷土熊本出身の堅山南風の師でもあり、日展の重鎮として活躍した浦田正夫の叔父である。
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妖怪などが身の回りにいるという作品ですが、生きるということは魑魅魍魎たるものと思えば・・。
魑魅魍魎たるものに惑わせれて生きてはいけませんね。
欲望や憎しみや恨みといった感情が心の隙間に入り込んできても打ち消す強さが必要のようですが、最近、テレビで松本清張の作品の見すぎ・・・
この作品が下絵とすると本画はそのような作品になったのでしょうか? 無論、印章だけが高橋廣湖とする根拠ですから別の画家の可能性もあります。
下絵といえどもかなりの大きさの作品ですが、粗雑にされていたようで痛んでいた作品を後日、表具したように思われます。
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鳥山石燕:正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。
また、弟子も多く喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。
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この作品の題材にほかのものがあると心あたりの方がいましたら、コメントをいただけるとありがたいのですが・・。
高橋廣湖の本ブログに投稿された他の作品は下記のとおりです。
鯉之瀧登 高橋廣湖筆絹本水墨淡彩軸装箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1050
即興的な作品で、たしかもう一点あったはずですが・・・。自宅の寝室に飾っています。
この二作品からも技量の高さがうかがい知れます。
ところで本作者?の廣湖、熊本の東雲座、今柴を調べていたら、東雲座は私の本籍:熊本市横紺屋町の目と鼻の先の阿弥陀寺町にあった芝居小屋のようです。
この一帯は古町(ふるまち)と称され、船場町、細工町、呉服町、米屋町、紺屋町などの町名が示すように当時(明治期)は熊本の流通経済の中枢であったそうです。な~るほど!いろいろ調べて故郷を知るきっかけとなりました(笑)
故郷を調べてみると知らないことが結構たくさんあるものですよね。
下絵のような気がします。本画はもっと完成度の高いもののように推察しました。
番組制作をしている太田と申します。
この度、番組内でで『鳥山石燕図』を使用したいと思っております。
一度、お話・ご相談できれば幸いです
突然で申し訳ありませんがご連絡よろしくお願いいたします。