頼三樹三郎の箱書とすると小田海僊が存命中の箱書きとなります。小田海僊は1833年頃には京都に在住し頼 三樹三郎は1849年には京都に戻っているので1850年頃の箱書きかもしれません。
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特製の笈(おい)を愛用し住家を背負って歩く「みのむし」に自らを例えて「蓑虫」と名乗り全国を遍歴している。特に明治11年(1878年)(41歳)から明治29年(1896年)ころまで秋田、青森、岩手を回り、旅日記や風俗画を残している。これは当時を知る貴重な史料でもある。また考古学、造園(岩手の水沢公園作る)にも造詣が深かった人物である。
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訂正理由:鍛冶橋狩野派第2代 狩野探信守政(狩野探幽の長子)→鍛冶橋狩野派第7代 狩野探信守道(狩野守邦の息)名手と評された。(あくまで真作と仮定しての説明)
「郭子儀(中国唐時代の名将)で、安禄山の乱を平定し唐の繁栄を招いた人物。一家繁栄を願う図柄として江戸時代によく描かれた。」とありました。
狩野派は決まりごとだらけの様式化によってそれほど評価は高くありません。
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落款に「勝海筆」とあります。木挽町狩野家に入門、画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられた嘉永2年(1849年)から、同5年(1952年)頃に師の名から一字を得て雅道と号し独立までか、あるいはさらに安政4年(1857年)に芳崖と名乗るまでの作品と推察されます。年齢では21歳から36歳までとなります。
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本作品は良い出来の作品とは言い難いものがありますが、どことはなしに品格があるのはさすがというところでしょうか。京都大学法科、ついで東京帝国大学文科に学ぶが、中退して画家となったインテリな画家です。 . . . 本文を読む