
落々補天餘 鈴木百年賛画
絹本淡彩絹装軸箱入 270・*247

本作品は岩の図柄であり、賛は「落々天餘補」とあり、読みは「落々と天を余すことなく補う」であり、「落ち着いて心安らかな様は天空を余すことなくうめつくす」という意味がある。小品ながら、気品豊な作品といえよう。盆栽などを飾った後ろによいようである。

そこそこの値で軸などが買える画家ですが、私はこの画家の山水画があまり好きではありません。子の鈴木松年のほうが好きですし、世の評価もそのようです。
ただ、鈴木松年の絵をお金が要り様になり、手放してしまいました。今思うと残念です。

時折、探してみるのですがいい作品を入手することは出来ていません。
鈴木百年の手前の皿は「兎図」です。かわいいですよ。今はどこにあるのかな~~・・何度も転勤し、引っ越すので、所在がさっぱり分からないものが記録をみていると、作品の中に幾つかあります。
鈴木百年:文政8年(1825年)生まれ、名は世寿、俗称は図書。字は子孝、百年・大年・大椿翁と号した。
通称は図書。天文・易学の大家であった鈴木星海の子で、円山派の大西椿年(ちんねん)に就いて画を学び、与謝蕪村の風を慕い諸派を折衷して一家を成し、鈴木派と称される新興流派を作り出し、幕末から明治にかけて急速に台頭した四条派の画家である。
山水人物画に巧みであった。北宗科の教師として京都府画学校教諭となり、後進に指導に当たった。天文学に精通、陰陽寮に出仕。岸岱、岸連山、狩野永岳、小田海僊らと親交があった。
鈴木松年はその子で、弟子に今尾景年久保田米僊、がいる。門人がおおく鈴木派と称された。明治24年12月26日死去。享年67歳。出身通称図書「競馬図屏風」(稲荷神社蔵)の遺作がある。
鈴木松年のリンク先は勉強になります
[緊急追記]
→賛の読みにアドバイスあり
「字ははあってると思うのですが、順番・・・ 日本語読みにしたら
落々天餘補 ですが、書いてあるのは
落々補天餘 ですよ~
「補天石」というので検索していたら、中国の創造神話があるようです。」だと
抜き出してみると
「神話時代に、女は天の破れをつくろうため、三万六千五百一個の石を鍛えあげた。
結局彼女は、三万六千五百だけ使って、たったの一個を使いあまし、それを大荒山の青后峰というところに捨てた。
余ったこの石は、鍛錬を受けて智慧だけは一人前につき、他の石が天を繕うことに役に立てたのに、自分だけは能無しで選に外れたと悲嘆し屈辱を感じていた。
ある日、通りかかってきた僧(茫茫ボウボウ大師)と道士( 渺渺ミョウミョウ人)が休憩しながら語る浮世の栄華富貴の話を耳にし、この石は煩悩をかきたてられ、人間の言葉を操って両名に向かって下界を志願する。
それに応じた僧と道士は、石を幻術で掌中に納まるほどの透き通った美玉に変身させ、その体に文句などを彫り付けてやって、「通霊玉」と名づけた。
後に僧と道士は「通霊玉」を警幻仙姑に託し、神瑛侍者が下界に転生する際に、その口の中に加えその下界行を果たさせた。
「通霊玉」は人の世の離合悲嘆を一通り味わったあと、僧と道士に携えられ青后峰のもとに返り、荒石の相に戻された。下界で「通霊玉」が体験した人生遍歴が荒石に戻った体に刻まれ、そして、『紅楼夢』の物語となる。」
「荒石の相に戻された」・・・その石を描いた作品・・・
絵の題名と説明を訂正しなくてはなりません。
「落々天餘補」ではなく「落々補天餘」であり、題名は「通霊玉」も検討しなくてはなりません。まずはじっくり神話を読んでみましょう。
人生、知らないことがたくさんある!!
面白いね。
絹本淡彩絹装軸箱入 270・*247

本作品は岩の図柄であり、賛は「落々天餘補」とあり、読みは「落々と天を余すことなく補う」であり、「落ち着いて心安らかな様は天空を余すことなくうめつくす」という意味がある。小品ながら、気品豊な作品といえよう。盆栽などを飾った後ろによいようである。

そこそこの値で軸などが買える画家ですが、私はこの画家の山水画があまり好きではありません。子の鈴木松年のほうが好きですし、世の評価もそのようです。
ただ、鈴木松年の絵をお金が要り様になり、手放してしまいました。今思うと残念です。

時折、探してみるのですがいい作品を入手することは出来ていません。
鈴木百年の手前の皿は「兎図」です。かわいいですよ。今はどこにあるのかな~~・・何度も転勤し、引っ越すので、所在がさっぱり分からないものが記録をみていると、作品の中に幾つかあります。
鈴木百年:文政8年(1825年)生まれ、名は世寿、俗称は図書。字は子孝、百年・大年・大椿翁と号した。
通称は図書。天文・易学の大家であった鈴木星海の子で、円山派の大西椿年(ちんねん)に就いて画を学び、与謝蕪村の風を慕い諸派を折衷して一家を成し、鈴木派と称される新興流派を作り出し、幕末から明治にかけて急速に台頭した四条派の画家である。
山水人物画に巧みであった。北宗科の教師として京都府画学校教諭となり、後進に指導に当たった。天文学に精通、陰陽寮に出仕。岸岱、岸連山、狩野永岳、小田海僊らと親交があった。
鈴木松年はその子で、弟子に今尾景年久保田米僊、がいる。門人がおおく鈴木派と称された。明治24年12月26日死去。享年67歳。出身通称図書「競馬図屏風」(稲荷神社蔵)の遺作がある。
鈴木松年のリンク先は勉強になります

[緊急追記]
→賛の読みにアドバイスあり
「字ははあってると思うのですが、順番・・・ 日本語読みにしたら
落々天餘補 ですが、書いてあるのは
落々補天餘 ですよ~
「補天石」というので検索していたら、中国の創造神話があるようです。」だと

抜き出してみると
「神話時代に、女は天の破れをつくろうため、三万六千五百一個の石を鍛えあげた。
結局彼女は、三万六千五百だけ使って、たったの一個を使いあまし、それを大荒山の青后峰というところに捨てた。
余ったこの石は、鍛錬を受けて智慧だけは一人前につき、他の石が天を繕うことに役に立てたのに、自分だけは能無しで選に外れたと悲嘆し屈辱を感じていた。
ある日、通りかかってきた僧(茫茫ボウボウ大師)と道士( 渺渺ミョウミョウ人)が休憩しながら語る浮世の栄華富貴の話を耳にし、この石は煩悩をかきたてられ、人間の言葉を操って両名に向かって下界を志願する。
それに応じた僧と道士は、石を幻術で掌中に納まるほどの透き通った美玉に変身させ、その体に文句などを彫り付けてやって、「通霊玉」と名づけた。
後に僧と道士は「通霊玉」を警幻仙姑に託し、神瑛侍者が下界に転生する際に、その口の中に加えその下界行を果たさせた。
「通霊玉」は人の世の離合悲嘆を一通り味わったあと、僧と道士に携えられ青后峰のもとに返り、荒石の相に戻された。下界で「通霊玉」が体験した人生遍歴が荒石に戻った体に刻まれ、そして、『紅楼夢』の物語となる。」
「荒石の相に戻された」・・・その石を描いた作品・・・
絵の題名と説明を訂正しなくてはなりません。
「落々天餘補」ではなく「落々補天餘」であり、題名は「通霊玉」も検討しなくてはなりません。まずはじっくり神話を読んでみましょう。
人生、知らないことがたくさんある!!
面白いね。