
木立ちの中に建つ二基の墓碑 ( 戦死碑 )

「 大野小弁正重戦死所 」 と彫られた脇の石

旧・町堺の峠の頂部に戦死場所への入り口がある

入り口に立つ 「 大野小弁正重について書かれた説明版 」

きれいに下刈りされた木立ちの中にある

広幡城址の遠望

広幡城跡への登り口
NHKの大河ドラマ 「 軍師官兵衛 」 の中で、
若手俳優の辻本祐樹さんが大野小弁正重を演じている。
その碑 ( 墓 ) は、旧・築城町と旧・椎田町の境界の木立ちの中にある。
これも先日紹介した 「 勝間田彦六左衛門重晴戦死の碑 」 同様に、
墓と書かれているが、亡骸が入っていない空墓なので、あえて碑と表現させていただいた。
天正15年(1585)10月9日黒田長政は毛利方の援軍とともに城井鎭房鎮圧に向かった。
黒田家重臣の止めるのも聞かず黒田長政は宇都宮鎮房の籠る城井谷を攻めたのである。
既に軍師として高名な武将である父・官兵衛の助けを借りずに己の力のみで
反旗を翻した宇都宮鎮房を討つべく父の許可を得ずに出陣したのである。
結果は入り組んだ城井谷の地理に不案内な黒田軍の惨敗であった。
築上町水原に城井氏の出城 「 広幡城跡 ( 椎田道路建設時分断 ) 」 がある。
ここの城代 爪田春永は黒田入部時から従っていたらしい。
7月初めに官兵衛が中津川に船をつけた際、出迎えた10数名の中に彼が記録されている(宇佐郡記)
軍勢は彼を道案内にして広幡城跡から尾根道伝いに岩丸山から白岩、黒岩越えで
櫟原 ( いちきばる ) に出る山筋ルートをとった。
一番に大野小弁、二番に毛利の援軍大将 勝間田彦六左衛門重晴、
三番に長政という陣容で喚き叫んで攻め上がってきた。
谷筋ルートより短距離であり、長政は短時間で城井鎭房を討伐、片付くと思っていたらしい。
随身していた後藤又兵衛などは城の形勢を見て
「 聞きしにまさる要害であるから、今日のところは静かに人数を引き上げ、
後日に手立てをしたほうがよい 」 と長政を諌めた。
小山田城跡付近の一番狭まったところで待ち伏せていた城井軍に急襲された。
結局、長政が退却したのち旗を引いたところ、
城井軍が大勢で攻撃してきて黒田軍の先手が壊滅した。
先手が崩れると、中軍も共倒れして黒田軍全体が崩壊した。
黒田軍は深い森林の中を恐怖に駆られて逃げ惑った。
部隊が分断、千々に砕けて怯えながら彷徨する状況になった。
長政に従う旗本もわずかになり危険が迫った。
このとき長政近臣の大野小弁が、長政の陣羽織を脱がせ
「 我こそは黒田長政なり! 」 と身代わりとなって敵陣の前に立ちふさがった。
「 ここで敵を激しく防がずば、長政の大事なるべし 」 と
大将に見せて突進したが大勢に取り囲まれて倒された。
この場所を 「 小弁殿、コベンド 」 と呼ぶ。行年19歳という若さであった。
( 位置:北緯33度36分49秒/東経131度0分45秒 ) ※GPS測位計使用