本丸裏にある 「 仲蜂屋尾張守宗鎮公の碑 」
県道232号線から見た馬場城の遠景
馬場城がある 「 城山公園 」 の入り口にある看板
入り口にある 「 馬場城の説明版 」
少し上った場所にある 「 観音堂 」
二の丸にある縄張り図と説明板
本丸横にある 「 清閑堂 」
二の丸から見た本丸下の空堀
主郭となる本丸広場
本丸から本丸裏に通じる空堀と土塁
本丸と本丸裏の中間にある石積み
本丸裏にある広場に立つ城址標
本丸からの眺望
昨日紹介した
「 鳥越城 」 から県道232号線を1キロほど山手に行くと、
「 城山公園 」 の看板がある。
その城山公園全体が馬場城になっている。
山頂は四区画からなり、西端は二条の堀切で尾根を断ち切り、
32m×19mの曲輪跡があり、西端に大土塁がある。
大土塁上には 「 仲蜂屋尾張守宗鎮 ( むねしげ ) 公の碑 」 が建っている。
本丸は24m×20mの広さで、北から東にかけて幅5mから10mの
空堀と帯曲輪がめぐっている。
本丸の東は22m×21mの二の丸があり、東側は堀切で城域を区画している。
この城は宇都宮氏の一族仲蜂屋宗鎮の居城で、 「 宇都宮大系図 」 によれば、
信房の五男、家信を仲蜂屋氏の祖としている。
また『 豊前志 』 、 『 則行青木之家譜 』 では、
「 角田 ( すだ ) 馬場の城主仲蜂屋尾張守宗鎮は、弘治二年 ( 1556年 ) 四月、
大友宗麟が豊前侵攻の時、一族の則行主計正(かずさのかみ)鎮実、
青木弾正忠鎮国らととに福間江 ( 旧・椎田町 ) で大友勢を迎え撃ち敗れた。
仲蜂屋宗鎮、則行鎮実らは討ち死に、宗鎮は角田河内の妙光寺に葬った。 」 とある。
天正十六年 ( 1588年 ) 、馬場城は黒田官兵衛の軍勢に攻められ、
天正十六年七月十九日に落城したと伝えられている。