唐津城下の外町で町火消組に加入している町のうち、
水主町だけが曳山を持っていなかった。
そこで水主町は龍王丸を造ることにしていたが、
同じころ江川町で七宝丸を造る話が出ているのを聞き、
計画を急に変更して鯱(シャチ)の曳山を造ることになったという。
曳山は、1876年(明治9)に、富野淇園、塗師・の川崎峰次、川崎晴房らによって製作された。
鯱は火災よけの魔力があるとされ、屋根の上に置かれてきた。
水主町の町名が水で始まるため、
火災とは深い関係があることなどから決まったものと思われる。
当時、すでに大手門は撤去されていたため、大きなものを造ることになった。
そのため尾ヒレは三つに分けられ、鯱は動かせように工夫されていたと言う。
しかし、急いで造られたために紙張りが粗雑で、
また大きいため操作も難しく傷みが早かったようだ。
そこで、昭和3年に新に曳山を造ることになり、中島嘉七郎氏に製作を依頼した。
曳山は同時代の鯱の型を参考にし、胴体は粘土の原型を造って紙を張り、
塗師・輪島の笹谷宗右衛門に依頼して漆で仕上げたという。
尾ヒレは木型に紙を張った一閑張りである。
この曳山の幅は2.5㍍、高さは5.9㍍。重さは1.5㌧ほどある。昭和5年に完成した。
むかしの幼児たちは「シャチホコ」と言う呼び名を知らず、
色や形から判断して「オコゼ」と呼んでいたと言う。
あるおとぎ話には、山の神がオコゼに恋したというのがある。
これは山の神の心をカワウソが仲介して、めでたし、めでたしとなる話である。
曳山を神に捧げる献上品と考えれば、
幼児たちが「オコゼ」と考えたのも一理あることと言えそうだ。
ちなみに、水主町の曳山は威勢がよいという定評であるが、
これは序列が確立して定席者の指示には絶対従うという
永年の伝統がいまもって受け継がれているためである。
[参考・転載:唐津くんち「ガイドブック」(1991)] より