息子が今日 「 成人式 」 を迎えた。
今日から大人の仲間入りだ。
これからは一人の大人としての自覚を持って生きて行かなければならない。
今までの教育の義務から、これから勤労の義務。そして納税の義務も出てくる。
今はまだ学生だが、同年代の者がその意識を持って生活していることを忘れてはならない。
自分の頃の成人の日は、1月15日だった。
その日を日本競輪学校で迎えた。
同期でハタチになる皆はニコニコしながら修善寺の成人式の会場に向かって行った。
その同期たちを格納庫で見送りながら笑顔で大きく手を振った。
師匠から 「 成人式には行くな! 」 と、鶴の一声である。
だから、当日は風邪を理由に成人の式典を欠席した。
だからボクの成人式の思い出は、
誰もいない自転車の格納庫でひとり訓練用のジャージで
ウエスを手にレーサーを掃除していたことである。
当然のことながら成人の日の記念写真も無ければ、祝ってくれる人も誰も居なかった。
ガランとした格納庫での誰も居ない、たった一人の成人の日である。
だからではないが、息子にはちゃんと成人式の思い出を作って欲しかった。
でも今、神さまが 「 何歳の時に戻りたいか? 」 と訊ねたら、
迷わず 「 19、ハタチ 」 と答えるだろう。
あのギラギラしていた19、ハタチだ。
苦しくて苦しくて逃げ出したかった19、ハタチだ。
なのにどうして?って思われるだろうが、
毎日の1分1秒が充実していたからである。
大勢のファンの前で風を切って逃げる。
そして逃げ切った時のスタンドの 「 どよめき 」 と歓声。
選手冥利に尽きる瞬間であった。
広島で行われた新人戦の表彰式前の記念撮影
「 熱かったあの夏の日 」
私は今年で競輪選手生活25年になる。
今までの選手生活で色んな思い出が残っているが、
その中でも特に思い出に残っているのは、
新人でデビューした3戦目での広島競輪場で行なわれた新人戦だ。
この時優勝したのは同期の中でも一番仲の良かった地元広島の木村一利である。
私は連日果敢に逃げて、初日特選から④②で優出し、
優勝レースも地元の木村を連れて逃げて、2着となった。
この一戦がとても思い出深い。
広島の夏は暑く、広島の夕凪といって、
宇品港のすぐそばにある競輪場はまるで蒸し風呂のようであった。
現在、故人となってしまった木村は、現役時代はウルフと異名を持つ選手だったが、
本当はその異名とは裏腹にとても優しく思いやりのある男だった。
彼が引退する前に電話があり、「今度、熊本に行くんじゃけど、逢えんかなー」ということだった。
生憎、私は観音寺競輪に参加だったので、その旨を彼に伝えて電話を切った。
木村は残念がっていたが、仕方ないと思った。
これが木村と交わした最後の言葉だった。
木村は、同期生の中でも競輪学校入校時から群を抜いていて、
東の尾崎雅彦、西の木村一利と謳われたつわものだった。
デビューして一気にスターダムに伸し上った木村だったが、
引退するまで実にあっけない幕切れだったように思う。
木村は私よりも一才年下であったが、18歳にしては気の利いた大人びた態度の男だった。
昭和54年の小倉競輪祭、新人王の準優勝戦の前夜、木村が私の部屋に来て
「明日はお願いします。一生懸命頑張りますから・・・」ということだった。
その結果決勝レースに進出し、木村は第17代の新人王の栄誉に輝いた。
その木村がどこでどう屈折し、ズレたか私には分からないが、
それから10年足らずで選手を辞めてしまった。
思い出すのは、いつもあの広島の暑い夏の日、スーパーカーブームのなか、
広島競輪場の表彰台に上った日のことだ。
あの日が青春だったことに間違いはない。
それから2、3年して彼が広島の三原で結婚式をあげたときに、
わざわざ豊橋競輪からの帰りにその席に駆けつけたのも、
今となっては忘れえぬ思い出である。
私はエレクトーンの伴奏で吉田拓郎の『結婚しようよ』を唄ったことも憶えている。
酔ってヘベレケになって三原駅のベンチで寝ていたことも・・・
あれから23年、私は現役に執着して走り続ける。
だけど、木村はもうこの世にいない。
久留米から中野浩一が出て、世界戦のスプリントで世界一になり、
競輪をメジャーなものにした。
その同世代が同じ土俵の上で競い、相まみえたことを懐かしく思う。
今は競輪選手としての中野浩一もいなければ、木村一利もいない。
だけど私は走る。あの広島の暑かった夏の日、
同期のみんなも熱く燃えていたし、私もギラギラと熱く燃えていた。
もう一度あの頃に戻りたい気もする。
このエッセイはまだ現役で走っていた当時、同人誌に寄稿したものだが、
その気持ちは今も変わらない。
内弟子時代の苦しかったあの時の基盤があるからこそ今があると思う。
師匠からしっかりした人生の躾をして頂いたことを心から感謝している。