「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県甲佐町 「 簗 ( やな ) 場 」

2012-03-27 17:33:07 | グルメ















































甲佐町の中心部から緑川沿いの堤を上場方面に行くと日和瀬橋がある。
その左手にやな場がある。
以前熊本に住んでいた時はよく訪れたが、ここ10年で二度ほどである。
今年の夏は、是非とも訪れたいと思っている。

やな場は、水の音を聞きながら情緒豊かな藁葺き屋根のあずま屋で
のんびりと味わう鮎料理はまた格別である。
新鮮な刺身に食欲をそそる塩焼き、そして大人の味の鮎うるか。
毎年、6月1日の鮎の解禁日から11月4日まで、
やな場は甲佐ならではの味覚を楽しむ人で賑わう。  

竹で編んだ簀(す)に落ちてくる鮎を捕る梁漁であるが、
甲佐のやな場はもともと寛永10年(1633)に
肥後藩主の細川忠利侯の命によって造られた水田用水調節の場であった。
その後、代々の藩主が毎年獲れたての落ち鮎を楽しみにご来遊される場所として、
広く知られるようになったものである。
江戸時代に殿様に愛された 「 お梁 」 の風流を、豊かな緑川は現代に伝えている。

熊本県上益城郡甲佐町上豊内




熊本県甲佐町 「 やな樋門橋 」

2012-03-27 17:21:32 | 熊本の石橋





















水を湛えた状態のやな場






甲佐町やな場にある看板





架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 不明
幅  / 不明  高さ / 不明


甲佐町にある「 やな 」 は、
細川忠利公が鮎漁を楽しんだところだと言われている。
その「 やな場 」 に後になって架設されたと思われるが、
橋というよりも水門としての役割が大きかったと言えよう。
春先には橋の袂に菜の花が咲き、のどかな風景に溶け込んでいる。

やな樋門橋へのアクセス
やな樋門橋へは、御船インターより国道445号線から
443号線を経由して県道220号線に入ると500mほどで「やな場 」 へ到着する。
駐車場は「 やな場 」 の駐車場が利用出来る。

熊本県上益城郡甲佐町上豊内


3月26日の朝

2012-03-27 17:16:09 | 朝の風景とその他の風景






昨日、久し振りに歩いた。
歩いたと言っても「散歩」だが、
ピースが亡くなってからだから、約8ヵ月ぶりの散歩になる。
ピースがいなくてもあれこれ思い出して、タメ息ばかり出てしまう。
それでも早朝の散歩は気持ちいいものである。
これから朝型人間になるためにボチボチ歩き始めようと思っている。







福岡県香春町  ・  近代土木遺産  「 けやき坂橋梁 」

2012-03-26 23:56:09 | 近代化産業遺産・土木遺産




























架橋 / 大正4年 (1915年)
形式 / 煉瓦斜拱渠 ( ねじりまんぽ )
長さ /  6.4m 
径間 / (斜)6.55m 、 右60度


 けやき坂橋梁 ( 欅坂橋梁 ) は、JR九州の日田英彦山線の採銅所駅と香春駅の中間にあり、
町道と国道322号線の上を走るために造られた橋梁である。

 橋梁は線路に対して隧道部が斜めに抜ける斜架拱 ( ねじりまんぼ ) という特殊な工法で造られている。
煉瓦積みのものとしては長大となる6.55mのスパンを有し、
現存する斜架拱の橋の中では2番目に大きいものといわれている。

名前を聞いただけで、腰をくねらせてしまいそうな 「 ねじりまんぽ 」 とは、
瓦礫を捻って積んだアーチ構造のことで、
アーチによって跨ぐ対象物の軸線とアーチ上部の軸線とが斜めに交わる場合に
しばしば適用される技法である。
その際、坑口も斜めになるが、軸力をアーチ全体に伝達させるため、
交差角に合わせて煉瓦を捻って積むことによって力を配分させる。
その捻って積むことを 「 ねじり 」 と表現している。
また、 「 まんぽ 」 は線路の下を通るトンネル状の通路を示す方言だといわれている。
いずれにしても、国道322号線を跨ぐ跨線橋の橋脚ともども貴重な遺産である。


( 福岡県田川郡香春町宮原 )




日田英彦山線香春町宮原・金辺川橋梁



熊本県美里町 「 風呂 ( ふろ ) 橋 」

2012-03-26 23:49:40 | 熊本の石橋



























架橋 / 文政2年 ( 1819年 )
石工 / 不明
長さ / 9.5m
幅  / 1.35m  高さ / 3.0m


風呂橋は、干ばつに悩まされる萱野地区に水を引くために、
内田太右衛門によって引かれた萱野用水の水道橋である。
風呂川に架かることから現在の名になったが、
地元では架橋に尽力を注いだ「たえもんさんの橋 」 と親しみを込めて呼ばれている。
現在の橋は平成16年に修復されたものである。

風呂橋へのアクセス
風呂橋へは、松橋インターより国道218号線から
県道105号線を経由しカントリーパーク内の右下に位置する。
駐車は、風呂橋入口の道路脇に駐車できる。

熊本県下益城郡美里町上中郡


『 南の桜 』    タムロチェリー

2012-03-25 23:17:52 | 馬の詩 ・ それぞれ...





 『 南の桜 』    タムロチェリー




平成13年9月2日
暑さの残る小倉2歳ステークス
誰もを 「 アッ 」 と言わせた
タムロチェリー

そのスタミナと切れ味は
剣道の玉竜旗
福岡南女子
梶原尚子を思わせた








ありがとう!「窓をあけて九州」 「味旅」 「るり色の砂時計」

2012-03-25 20:09:27 | 日記 ・ イベント






3月さよなら別れの季節。
年度末、人の別れに合わせるかのように、この時季いろんな番組が終りを告げている。
先日終った 「 羅針盤 」 に続いて、今日 「 窓をあけて九州 」 「 味旅 」 、
そして 「 るり色の砂時計 」 が幕を閉じた。
何れもお気に入りの番組だっただけに一週間の楽しみがいっぺんに無くなってしまった。

「 窓をあけて九州 」 では、心が震えるような感動や情熱をもらい、
どの番組からもたくさんの知識や情報をもらった。
その情報をもとに旅に出たことも多かっただけに残念でならない。

今までたくさんの楽しみを与えてくれたこれらの番組に感謝したい。
ありがとう! 「 窓をあけて九州 」 「 味旅 」 「 るり色の砂時計 」






常総ステークスを勝ったタムロスカイ

2012-03-25 19:57:44 | 競馬・ボート












昨日、応援していたパワフルキリシマが勝ち、
ウインバリアシオンが2着になった。
そして今日、タムロスカイが中山の10レース常総ステークスで勝った。
母のタムロチェリーは、現役時代から応援して来た馬だっただけに、
その子 タムロスカイの勝利は特別であった。




タムロチェリー







沖縄県読谷村 「 大湾 ( おおわん ) 按司の墓 」

2012-03-25 09:34:55 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






大湾按司の墓は、読谷村と嘉手納町の境界近くを流れる比謝川から分かれた長田川の横で、
国道58号線沿いになる。
大湾按司は伊覇按司の三男といわれ、按司墓の丘(ウフグスク)を築いてとされている。
大湾按司の墓には、三個の厨子甕 ( ジーシーガーミ ) が収められており、
按司墓は戦前は板門の墓であったといわれているが、
戦後、国道58号線拡張工事のため現在地に移された。
大湾按司の父は今帰仁子(ナキジンシー)、祖父は丘春按司と伝えられている。
今帰仁落城で、今帰仁按司の身内が当地に逃れて成長し、領主となったのか?
それとも今帰仁子が伊波城主になって、
後に生んだ子が成長して大湾ウフグスクの按司になったのかは定かではない。
上地門中が子孫といわれている。
神御清明には、大湾・古堅・比謝の人々が拝みに見える。

沖縄県中頭郡読谷村大湾



笠木も島木も無く、貫も途中で切れた鳥居

2012-03-25 09:14:37 | 探訪 ・ ドライブ












道路から大江港方面に入って行くと、路地に鳥居がある。
その鳥居には、笠木も島木も無く、わずかに残った貫も柱の部分を残しているだけで、
ほとんど横物は見当たらない状態であった。
桜島では火山灰で埋もれた鳥居があるが、
このように省かれた鳥居を見るのは初めてであった。
これはあくもでも私的な推測であるが、この地域はキリスト教が盛んだったことから
神社の鳥居を潜らなくてすむように人工的に省かれたのではないかと思う。

鳥居は、神域の入り口を表す ” 門 ” のような役割を果たしていると思われる。
神社の象徴とも言えるべきものであるが、その起源については明らかになっていない。
他国から伝わったものであるとも、日本古来のものであるとも言われ、
日本の神社の使いがニワトリであることから、
そのニワトリの止まり木が鳥居の原型であるとか?
”通り居る門”から鳥居と呼ばれるようになったなど、 「 鳥居 」 という由来も定かではない。

熊本県天草市天草町大江








熊本県美里町 「 堅志田 ( かたしだ ) 橋 」

2012-03-25 08:57:30 | 熊本の石橋




















橋のすぐ横にある 「 堅志田郵便局 」






1年に100回は通ったこの交差点




架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 4.6m
幅  / 3.2m  高さ / 不明

堅志田橋は、樹齢300年以上の大つつじで有名な西山つつじ公園がほど近いため、
花見をかねて春は絶景の景観が楽しめる場所で、旧・中央町の中心街でもあり、
古くは江戸時代に中山手永の会所(現在でいう役場 ) があった場所である。

堅志田橋へのアクセス
堅志田橋へは、松橋インターより国道218号線を美里町方面に進み、
堅志田交差点を左折してすぐの堅志田郵便局の横に当たる。
駐車場は堅志田橋の横の空地が利用出来る。

熊本県下益城郡美里町堅志田


近代産業遺産 ・三菱飯塚炭坑 「 巻き上げ機台座 」 ②

2012-03-24 13:36:50 | 近代化産業遺産・土木遺産





















昨日も①で紹介したので重複するが、
“ 確立したひとつの台座として ” 光り輝くようにここでも紹介したいと思っている。


道路を進むとピラミッドのように忽然と姿をあらわした 「 巻き上げ機台座 」 。
それはどっしりとして、住宅地の中にあって存在感を充分に表していた。

 福岡県飯塚市平恒にある巻き上げ機台座は、
旧三菱飯塚炭坑で石炭の巻き上げに使われていたものである。
巻き上げ台座とは、巻き上げ機を据え付けた土台のことで、
通常斜坑は平行して二本開削され、本卸坑道は入気、石炭の搬出に、
連卸坑道は排気および入道に使用されていた。

 この巻き上げ機は大正時代に造られたといわれている。
上部の動力部分は残っていないため詳細は不明だが、
蒸気の力によって稼動していたといわれている。

 筑豊では現在も斜坑の巻き上げ機台座は、各所に残っているが、
戦前の物は煉瓦製で、戦後の物はコンクリート製の物が多い。
そんな巻き上げ機の中でも、この巻き上げ機は筑豊最大級で、
操業時は勇壮な外観で他を圧倒していただろう。


三菱飯塚炭坑の歴史

大正4年 (1915年) 中島徳松 氏 、大徳炭鉱(飯塚炭鉱の前身)の経営に着手
    7年 (1918年) 中島徳松 氏、 中島鉱業株式会社設立
  10年 (1921年) 飯塚炭鉱病院開院 、 飯塚炭鉱郵便局開局
  11年 (1922年) 中島鉱業、飯塚炭鉱の経営を三菱に委託
昭和2年 (1927年) 飯塚炭鉱の714,000トンの最高を記録
   4年 (1929年) 中島鉱業全株式を三菱鉱業に譲渡、会社名を飯塚鉱業に改める
               納屋制度の廃止、購買会設立
 11年  (1936年)  飯塚鉱業会社を解散、三菱鉱業に合併し、 「 三菱飯塚鉱業所 」 となる
 16年  (1941年)  第二坑卸で落盤事故  ( 死傷者13名 )
 18年  (1943年)  第二坑人車卸で落盤事故 ( 死者6名 )
 19年  (1944年)  第二坑でガス燃焼事故 ( 死者13名 )
               新坑右第一卸でガス突出爆発事故 ( 死者51名 )
               平恒駅、飯塚炭鉱石炭積み込み専用駅から、旅客取り扱い駅になる
 33年  (1958年)  飯塚炭鉱鉱業課を廃止、筑豊製作所を設立
               飯塚鉱業所を縮小し、飯塚炭鉱とする
 36年  (1961年)  飯塚炭鉱閉山、飯塚炭鉱株式会社発足 ( 第二会社 )
 40年  (1965年)  第二会社閉山

( 福岡県飯塚市平恒 )



熊本県天草市 「 大江港灯台・大江港島原瀬照射灯 」

2012-03-24 13:19:23 | 熊本の灯台









親子灯台の照射灯のレンズ


































トトロの森のような木々のトンネルを抜けると灯台が見えた





大江港灯台は大江港が見渡せる入り江の上にある山の上に立つ灯台で、
徳之島の金見埼灯台や福岡の津屋崎鼻灯台と同じように照射灯を兼備した
“ 親子灯台 ” となっている。
大江港灯台の初点は昭和31年12月25日になっているが、
照射灯は昭和45年7月1日となっている。
地上から頂部までの高さは6.48mだが、
平均水面から灯火までの高さは山の上にあるため82.67mとなっている。

急斜面を登り、木々のトンネルを抜けて灯台までの道程は
津屋崎鼻灯台そのものを思わせるものだった。
白い塔型の灯台が照らす灯質は、等明暗白光で明3秒暗3秒である。
照射灯は不動白光で、大江港灯台の南西方約600mの島原瀬を照らしている。

( 熊本県天草市天草町大江 )


ハブ捕獲網

2012-03-24 12:58:21 | 沖縄













グスクの探訪で沖縄や奄美の山に入ることが多い。
運よくというか、たまたまというか400ヵ所以上の山に入ったが、
一度しかハブに遭遇したことがない。
まぁ、遭遇していても気付かずに通り過ぎてしまっているのかもしれないが・・・

たまにこうしてハブの調査をしている場所に行き合わせることがあるが、
ハブが中に入っているのを見たことはない。

沖縄の山に入る心得として、
○ 神に障らぬよう
○ 霊に憑かれぬよう
○ ハブに噛まれぬよう の3つであるが、
特にグスクのある山や聖域を汚すことがないように心がけている。








近代産業遺産 ・ 三菱飯塚炭坑 「 巻き上げ機台座 」 ①

2012-03-23 16:59:46 | 近代化産業遺産・土木遺産
































かつて石炭の積み出しを行なっていたJR上山田線が道路に変わった。
その道路を進むとピラミッドのように忽然と姿をあらわした 「 巻き上げ機台座 」 。
それはどっしりとして、住宅地の中にあって存在を充分に表していた。

 福岡県飯塚市平恒にある巻き上げ機台座は、
旧三菱飯塚炭坑で石炭の巻き上げに使われていたものである。
巻き上げ台座とは、巻き上げ機を据え付けた土台のことで、
通常斜坑は平行して二本開削され、本卸坑道は入気、石炭の搬出に、
連卸坑道は排気および入道に使用されていた。

 この巻き上げ機は大正時代に造られたといわれている。
上部の動力部分は残っていないため詳細は不明だが、
蒸気の力によって稼動していたといわれている。

 筑豊では現在も斜坑の巻き上げ機台座は、各所に残っているが、
戦前の物は煉瓦製で、戦後の物はコンクリート製の物が多い。
そんな巻き上げ機の中でも、この巻き上げ機は筑豊最大級で、
操業時は勇壮な外観で他を圧倒していただろう。

上部側面幅    6.36m
下部側面幅    8.75m  / 両脚幅 2.25m  /  中央脚幅 1.25m
高さ 12m  /  法面高さ 10.16m  /  アーチ高さ 8.4m



三菱飯塚炭坑の歴史

大正4年 (1915年)  中島徳松 氏 、大徳炭鉱(飯塚炭鉱の前身)の経営に着手
    7年 (1918年) 中島徳松 氏、 中島鉱業株式会社設立
  10年 (1921年) 飯塚炭鉱病院開院 、 飯塚炭鉱郵便局開局
  11年 (1922年) 中島鉱業、飯塚炭鉱の経営を三菱に委託
昭和2年 (1927年)  飯塚炭鉱の714,000トンの最高を記録
   4年 (1929年)  中島鉱業全株式を三菱鉱業に譲渡、会社名を飯塚鉱業に改める
              納屋制度の廃止、購買会設立
 11年  (1936年)  飯塚鉱業会社を解散、三菱鉱業に合併し、 「 三菱飯塚鉱業所 」 となる
 16年  (1941年)  第二坑卸で落盤事故  ( 死傷者13名 )
 18年  (1943年)  第二坑人車卸で落盤事故 ( 死者6名 )
 19年  (1944年)  第二坑でガス燃焼事故 ( 死者13名 )
              新坑右第一卸でガス突出爆発事故 ( 死者51名 )
              平恒駅、飯塚炭鉱石炭積み込み専用駅から、旅客取り扱い駅になる
 33年  (1958年)  飯塚炭鉱鉱業課を廃止、筑豊製作所を設立
              飯塚鉱業所を縮小し、飯塚炭鉱とする
 36年  (1961年)  飯塚炭鉱閉山、飯塚炭鉱株式会社発足 ( 第二会社 )
 40年  (1965年)  第二会社閉山

( 福岡県飯塚市平恒 )