Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ケーラー連邦大統領の目

2008-01-02 | マスメディア批評
年末年始にかけての想いは人並みにあるが、どうももの心ついてからこのかた、その分断を充分に理解し切れていない。人並にカウントダウンを町の中や花火を皆で見て祝うドンチャン騒ぎを経験しているが、どうしても日付が変わったとしても乗り切れないのは、昔神社の近くに住んでいた時から変わらない。境目がない男なのである。

更に最近は、旧年度ベスト何とかも新聞に載っていても関心がなくなってしまっている。そして、クロニカル風の今年の出来事も全く興味がなくなってしまっている。なぜか判らないが、時間的な区切りがつかなくなって来ているのかもしれない。連続した時間の流れの中での、目印となるマーカーの付け方が異なってきているからだろうか?

それでも2007年度を振り返って、2008年度を見据えるに、年末にインタヴューが掲載された連邦共和国大統領ホルスト・ケーラーの見解は、年頭のTVに流されるメルケル首相のそれよりも遥かに興味が湧く。それは、政治の場からある距離を保ち、更に高次にドイツ連邦の現在の姿を代弁しているからであり、我々市民の新年度の心構えに大きな示唆を与える。

連邦大統領と言ってもその個性も知性も様々であるが、現役のケーラー氏の場合、その国際経済人としての実際家としての経験や判断力には一目置く必要がある。そうしたエリート経済人が共和国の最高権威の大統領としての自覚をもっての発言に耳を貸さない手はない。

その大統領の立場に関して、直接選挙制を模索しているのがこの大統領で、それは究極の民主主義としての任命権を国民が持つ事での強い関わりを考えているようだ。それゆえ、先日の会社役員の給与問題議論に対しても、ポピュリズムと思われる政治家の発言をも肯定的にみている。

それを、大統領に言わせると、国民がつまり社会の大多数を占める中産階級が、こうした微妙な問題にも自ら係わり、身近に考える事で、正しい判断を下せるとする、民主主義の基本に準拠しているからである。

同時に、マネージャーなどの社会のエリート層は、法的に縛られないでも、必ず議論の本質を理解して、自らを律していけると言う信頼性を前提としている。つまり、それは真のエリートであり、大統領自らが属して来て今も属している階層を指している。当然の事ながら自らへの信服と言う自照に達している。

大統領は、「シュヴァービッシュの人間は、貪欲だから満足することは無い」と、アジアの勃興に備えていかにドイツも鬩ぎ合えるかの為の改革を進展させる必要を指す。そして、「その改革が言葉倒れになっていて、国民にはへきへきされているのではないか」との質問に、改革が必要な意図を説明することこそが困難で、そしてその成果が表れるには時間が掛かるので、国民が理解できないかぎり改革も実現しないとして、如何に国民に呼び掛けるべきかを説いている。

その一つが、富の分配機構としての社会が機能しているかどうかの社会格差の大問題である。キルヒホッフ教授やメルツ議員の提唱する「簡素な税制」やその自由主義政策からは遠ざかっているのが連合政権下のCDUではないかとの質問に対して、「民主主義の基本には、国民が基本的な原則を理解することがあり、それを自己のものとして賛意を示す必要がある」として、「複雑な税制や予算機構は、国民の翻意を誘い、自らの支払い投与に対してなに一つ得られないとの思いに達した時、民主主義への信頼は崩れます。簡易な税制・社会機構は、私には民主主義と国の強化に繋がるのです」と述べている。

もう一度、見通しの利く社会とヴァイタリティーが経済にも影響するとするのは、氏が不公平なシステムと見做す教育の不平等に関して、社会の不公平を誰が認知するかの問いに答えて、それは収入の上から下もしくは上から下を見るものではなくて教育の現状をみる時だとした回答である。だから、教育がその安定した民主主義の基盤を築くとして、現在の連邦共和国の労働者層と特に移民家庭における教育の遅れを是正すべきだと強調する。

更なる「自己責任と自由」が富みの分配論議の中であまりにもお座なりにされている現状から、「平等はドイツ人の最も重要な価値か?」と問われ、大統領はSPDのヴィリー・ブラント元首相の言葉「自由は全てではない。しかし自由が無ければ何もならない」を挙げて、各々の才能を羽ばたかせ、自由な想像力を得る社会の活力とする一方、「幸せまで社会事業として組織されるものではない」として、「自由と平等のバランスはいつも拮抗している」とする。そして、それには「最終回答は無く、国際的変動の中での要求と社会の進歩によって形作られるプロセスである」と定義する。

つまり、大統領の意見は、最低生活の収入を自動的に保障するのでは無くて、それは「助成と請求が同時に働く形での政策」を言い、決して最低賃金によって競争力を無くし職場を破壊することではない。それを説明して、国際的にグローバルに通じる労働は労働市場が開かれることによって淘汰されるとする実際家の思考が働く。収入が平均化されることは誰も求めていないとする立場で、現在の国会議論とは若干の温度差が見られる。

具体的には収入や財産の議論は、一方においてはますます膨大な収入を得る層が存在して、その一方多くの中間層においてはややもすると実質的に収入が目減りして来ている問題を挙げる。そして、政治は大多数である中間層のために向けられるとして、ポピュリズムを否定しない姿勢を示す。

大統領が必要とするエリートこそは、こうした公平な教育の実施によって得られて、その収入や財産如何に関わらず才能ある者への機会均等と、同時に金満家には感情移入能力と模範となる行動が求められている。

それは、この大統領の回答に、「市場経済の認知放置をそのまま格差とする議論をエスカレートさせるべきではないが、無視してはいけない」とする基本見解から導かれている。また、自由と安全の議論は、60年代に十二分に議論され、それを乗り越えて来たのが連邦共和国であるとしている。

個別の政策、要するに盛り場での喫煙の禁止、海外投資家への規制、最低基本給の設定、失業保険給与の高齢化、反テロ問題と「米国に置ける自由とのアンバランス」そしてテロリストの基本的人権、子供の基本権と福祉などがコメントされる。

また、自身の出所から追放されたドイツ移民については、「両親は追放されたのではなく、両親がポーランド人を追い出した」と明言する。

グローバリゼーションの中で我々が生き残るためには、問題解決のために自主的な責任と判断能力を重視しなければ、間違いなく道を誤ると考える。

こうして大まかに大統領の考え方をなぞると、その大統領直接選挙へのアイデアや国民政党への警鐘の理由が明らかにされ、無党派層の増大に対する対策と考えているようだ。それは無論、格差社会に置ける中間層の崩壊と民主主義の終焉への危惧に端を発している。ヴァイマール憲章下における破局的な流れを配慮しつつも、現在の連邦共和国の基本教育の内容とその中間層国民への期待・信頼度が高いことと同時にエリート教育とエリート層の意味と意義がこの発言から伺える。



参照:
Zur Freiheit gehört Ungleichheit, FAZ vom 29.12.2007
芸能人の高額報酬を叱責 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-28
文化的土壌の唯一性 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-03
コメント (4)
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