Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽劇場の舞台設定

2019-11-20 | 文化一般
音楽監督ペトレンコ体制になってから14つ目の新制作だった。そして初めて音楽劇場制作として成功した。指揮者キリル・ペトレンコは、何回も繰り返すが決してオペラ劇場向きの指揮者ではない、音楽劇場に於いて初めてその才能を発揮する。それが今回の制作の成功だった。そしてその演出が2016年のバーセル制作のそのままで、再制作も本人はネットフレックスのコンテンツ制作に忙しくて関与しなかった。しかし、舞台で本人も助手と並んで大喝采を受けた。サイモン・ストーンは大物だ。

さて往路でも考えていた、肝心のコルンゴールトの作品の邦名「死の都市」にどれほどの意味があるか。想像するのは世紀末感における近代都市の死臭であり、「ソドムとゴムラ」に通じるような意味合いでの都市となる。恐らくそこから都市と訳されたのだろうが、そのそも作曲者も訪れたことの無かったベルギーのべリュージュが舞台であって、原作こそが現在のブルージュ観光のネタ元だ。要するにパリやハムブルク、ミュンヘンといった大都会ではない。要するに「死の街」なのだ。

そして今回の演出からも都市よりも街こそが相当する。この問題に関しては初日の中継放送に出てきていたドラマトリュークのライピンガー氏がプログラムに一章書いている。西欧の都市感覚は街である。先ず演出に関して触れるとして、その舞台設定は音楽劇場においては重要である。

例えば楽劇においてもその劇設定をト書きにあるようなオリジナルでの上演が好ましいという意見が少なくはない。まさしくそのまま百年以上前のト書きのままの上演をするのがオペラ劇場であって、要するに歌舞伎の忠臣蔵と同じように古典とはしながらもその時点でエンターティメントとなりはてて作品の元来持っていた劇性は失われる。

ストーンの演出は、その意味からも優れている。まるで連続TVドラマの様に ― 新聞評にはヒッチコックの「めまい」が挙げられる、主人公パウルの奥さんは化学治療で毛が抜けて、その髪を大事に保管している。恐らく彼女は自殺したのだろうとなり、キリスト教的な世界観からすれば浮かばれない。そこまでの前提が無くても主人公パウルへの共感はとても身近なものとなる。彼の家は37番地、お手伝いさんがやって来るが、彼の大事なところには踏み込ませない。

演出家は書いている。創作当時流行っていたようなフロイト流の精神分析と夢の世界では何一つ解決しない、先ずは落ちるところまで落ちて、本人が変わるしかないと書いている。劇場に求められているのはまさにそれではないか。

そして劇中で回り舞台の壁をヨーナス・カウフマン演じるパウルは二回超えて行った。当然のことながら現実と夢の世界を行ったり来たりすることでもあるが、デーヴィット・リンチの世界でもなく、そこにある意味は何か?

要するにストーンが語る様に、現実性つまり劇性は夢という事で悉く霧消してしまうことになるのだろう。夢をそのまま扱うことはイリューションを代表とするようなショーそのものとなって、この創作の批判点とされるエンタメ性を強調するだけのことになりかねない。(続く



参照:
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般


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