メンデルスゾーンの協奏曲が美しかった。前回聴いたのはブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの伴奏でバカドスとかいうヴァイオリニストが弾いたもので、ソロも学生上がりの様な楽器の鳴らし方だったが、それにも増してブロムシュテットの指揮も上ずってしまっていてなにもまともな音楽を奏せなかった。
今回も中央アジア出身のブロンドのヴァイオリン女性なので、酷い演奏になると予想した。なによりもユロスキとのベルリンでの共演の放送を聴いても、彼女の弓使いが押し付けるようでまともに楽器が鳴らない。更に独特のアクセントで演奏すると酷いことになると思った反面どこまで90歳の指揮者がドイツ音楽を教え込めるかの興味もあった。
実際、その最初のソロからして違った。なるほど舞台に登場した彼女は更に肉付きがよくなっていて、少々醜いぐらいだったが、演奏はヴィデオで観たものよりも制御が効いていた。そしてそれを受ける管弦楽の美しいこと。指揮者がどういう音を要求しているか、つまり楽譜をどのように読んでいるかは明らかで、どれ程抑えても暑苦しいヴァイオリンのソロに清涼感を与えていて、エッジと同様に輪郭を浮き出させつつもその対照と繋がりが美しい。ブロムシュテット爺のブリブリ鳴らす指揮が如何に無様で芸が無いかを思い出させる。二楽章への経過も楽器が溶け合い美しく、木管と弦の混ざる音色は久しぶりに体験した音色芸術だった。もうこれだけでメンデルスゾーンがどれほど才能を持っていた作曲家が一目瞭然となる。三楽章のシステム間のカノンも綺麗に出ていて、この曲が通俗名曲になって仕舞っただけで、やはり重要作品であることを再認識した。
アリーナ・イブラジモーヴァは来年のザルツブルク音楽祭にもソリストとして登場するようだが、今回の共演はとても学ぶことが多かったと思う。あの奏法は恐らくロシアのオイストラフとかの流派と同じものなのだろうが、やはりそのセンスが問われる。そして今回その見かけ以上に素直にリハーサルをしたこともよく分かった。謂わば伸びる可能性があった訳で、それだけでも大歓声を受けるだけのものは披露したと思う。なるほど元々のツィムマーマンが弾いていたならば更に美しいメンデルスゾーンになっていたと思うが、それはそれで見ものであった。
さて、肝心のシューベルト作曲大ハ長調交響曲への期待は大いに高まったと同時にある程度見えてきた。放送で録音したクリーヴランドの演奏に比べて聴き劣りすることは無いと確信した。最初のホルンの主題がヴィオラからの対旋律の受け渡しの見事なこと、パリでのリハーサルの様子を知るところによると余程の表情付けがなされたものと想像できた。マンネリ化からはほど遠い。なによりも二分の二拍子の早いテムポに驚いて、破綻しないか心配だったが、上手に四分の四拍子の主要部分で吸収されていて、ここ数年でもテムポ設定を変えてきたのかなと思った。シームレス感は更に洗練されている。
二楽章の第二の主題への経過部における弦楽の階段状の対旋律の合わせ方がこれまた微妙でppであっても音階感が削がれないので、一楽章の不吉なコントラバスの様に影法師のような効果が出る。こうしたところからマーラーなどは創意を得て作曲したのがよく分かる。勿論ここの第二主題こそがブルックナー的な寂寥感で、もし独墺系のロマン主義における自然描写のようなものに触れるならばブルックナーではなくこれを挙げるべきだ。クリーヴランドでの演奏と比較するとこの中間の二楽章の管弦楽の反応こそが中欧のそれでアメリカでは無理なのだろうと思った。対旋律のピチカート動機などもよりノンヴィヴラート傾向へと軽みが増していて、バスが応える印象がよりも自由になっていた。意外にもクリーヴランドのアンサムブルの方が機能調性的で古典的だ。やはり今回の対抗配置におけるアンサムブルの相違であり、第二ヴァイオリンの掛け合いが生き生きして効いていた。(続く)
参照:
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
水曜日のパリの夜から 2019-10-25 | 文化一般
今回も中央アジア出身のブロンドのヴァイオリン女性なので、酷い演奏になると予想した。なによりもユロスキとのベルリンでの共演の放送を聴いても、彼女の弓使いが押し付けるようでまともに楽器が鳴らない。更に独特のアクセントで演奏すると酷いことになると思った反面どこまで90歳の指揮者がドイツ音楽を教え込めるかの興味もあった。
実際、その最初のソロからして違った。なるほど舞台に登場した彼女は更に肉付きがよくなっていて、少々醜いぐらいだったが、演奏はヴィデオで観たものよりも制御が効いていた。そしてそれを受ける管弦楽の美しいこと。指揮者がどういう音を要求しているか、つまり楽譜をどのように読んでいるかは明らかで、どれ程抑えても暑苦しいヴァイオリンのソロに清涼感を与えていて、エッジと同様に輪郭を浮き出させつつもその対照と繋がりが美しい。ブロムシュテット爺のブリブリ鳴らす指揮が如何に無様で芸が無いかを思い出させる。二楽章への経過も楽器が溶け合い美しく、木管と弦の混ざる音色は久しぶりに体験した音色芸術だった。もうこれだけでメンデルスゾーンがどれほど才能を持っていた作曲家が一目瞭然となる。三楽章のシステム間のカノンも綺麗に出ていて、この曲が通俗名曲になって仕舞っただけで、やはり重要作品であることを再認識した。
アリーナ・イブラジモーヴァは来年のザルツブルク音楽祭にもソリストとして登場するようだが、今回の共演はとても学ぶことが多かったと思う。あの奏法は恐らくロシアのオイストラフとかの流派と同じものなのだろうが、やはりそのセンスが問われる。そして今回その見かけ以上に素直にリハーサルをしたこともよく分かった。謂わば伸びる可能性があった訳で、それだけでも大歓声を受けるだけのものは披露したと思う。なるほど元々のツィムマーマンが弾いていたならば更に美しいメンデルスゾーンになっていたと思うが、それはそれで見ものであった。
さて、肝心のシューベルト作曲大ハ長調交響曲への期待は大いに高まったと同時にある程度見えてきた。放送で録音したクリーヴランドの演奏に比べて聴き劣りすることは無いと確信した。最初のホルンの主題がヴィオラからの対旋律の受け渡しの見事なこと、パリでのリハーサルの様子を知るところによると余程の表情付けがなされたものと想像できた。マンネリ化からはほど遠い。なによりも二分の二拍子の早いテムポに驚いて、破綻しないか心配だったが、上手に四分の四拍子の主要部分で吸収されていて、ここ数年でもテムポ設定を変えてきたのかなと思った。シームレス感は更に洗練されている。
二楽章の第二の主題への経過部における弦楽の階段状の対旋律の合わせ方がこれまた微妙でppであっても音階感が削がれないので、一楽章の不吉なコントラバスの様に影法師のような効果が出る。こうしたところからマーラーなどは創意を得て作曲したのがよく分かる。勿論ここの第二主題こそがブルックナー的な寂寥感で、もし独墺系のロマン主義における自然描写のようなものに触れるならばブルックナーではなくこれを挙げるべきだ。クリーヴランドでの演奏と比較するとこの中間の二楽章の管弦楽の反応こそが中欧のそれでアメリカでは無理なのだろうと思った。対旋律のピチカート動機などもよりノンヴィヴラート傾向へと軽みが増していて、バスが応える印象がよりも自由になっていた。意外にもクリーヴランドのアンサムブルの方が機能調性的で古典的だ。やはり今回の対抗配置におけるアンサムブルの相違であり、第二ヴァイオリンの掛け合いが生き生きして効いていた。(続く)
参照:
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
水曜日のパリの夜から 2019-10-25 | 文化一般