Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創作の物語を語らせる

2019-11-24 | 文化一般
承前)演出家マテヤ・コレツニックのインタヴュー記事を読む。先ずは、最初のオペラ演出となる「フィデリオ」への愛が感動させる。彼女が挙げる「Oh welche Lust」そして続く四重唱「Mir ist so wunderbar」で充分だ。

そしてこの作品の問題点の解決策としてコンセプトを公表する。つまりフロレスタンの死の最後の五分間のハロツィナツィオンにこの劇全てを押し込む。要するにこの公演にどんでん返しも何もない。余程の自信で、如何にこの演出家が芸術的に秀逸かという事を示しているかのようだ。

なぜそのようになるかの説明の前に、演出家としてのモットーが語られる。それは創作の物語を語る事への責任であって、芝居であろうとオペラであろうと全く変わらないという。だからこそ、今日受け入れられるものと受け入れられないものとの線をしっかり引いている。

例えばベートーヴェン時代の女性観が挙がる。つまりここではズボン役の主役であったり、ズボン役の女性に利用されるマルツェリーナに注目して、例えば街娘の後者が簡単に騙されて、そしてフィナーレへと進むかと言う論理的な矛盾を突く。それどころかレオノーレと言う美しい妻には世界が逆らえなくなると男は信じている。

つまり女性は、魔女でありその反対に神々しい女性が存在して、死を掛けて救済する天使として位置付けられているのがロマンティックな幻想となる。

更にベートーヴェンが理想主義で、革命によって全てが解き放たれという構図は今日においては危機であって、ただの感傷でしかないという。だから彼女は、創作時代そのままを舞台に掛けるのはその時代に依るだけであって、創作家に依っていない伝統主義でただの感傷だという。

その劇が上演される劇場を取り巻く欧州のそうした伝統主義がただのノスタルジーでしかないことは、彼女の言うようにその出身地であり住居であるEUのバルカン半島にまで視線を向けないまでも明白で、劇場に求められていることを彼女は定義する。つまり、「文明的な社会とは、洗練された芸術への需要がある社会で、その芸術は決してエンターティメントでも完全調和のようなものであってはいけない。」となる。それならばTVを観ていたらいいというのは、もうそれに何一つ付け加えることも無い。芸術とはそんな甘っちょろいものではないという事だ。

それは私たちがそのような理想の社会で生活している訳ではなく、彼女の言うように、だからと言ってベートーヴェンの想いは決して素朴なものではなかったが、少なくとも今日の欧州からすれば気がふれていない限りそのヒュマニティーが生き残るとは思わないとしている。

彼女の言う時代精神、そして芸術のあるべき姿、そこからするとこの辺りの彼女の言葉の使い方に注目したい。要するにベートーヴェンが語る理想主義である。それがどのように読み込まれるかという事である。

ミュンヘンのサイモン・ストーンの演出も最初にその亡くなった美しい妻マリーの現実が癌治療として示唆されていた。所謂掴みとしても良いのであるが、こうした演出の枠組みをはっきりと宣言することで初めて古典が読み込まれ、生きた人間がそこの舞台で演じるという劇場特有のものかもしれない。

彼女は、恐る恐る「質か、新機軸か」と自問自答してみる。つまりオペラ演出においては伝統を超越するというのは失敗を招くことにもなりかねないので、新たな路を示すことになるか、壁にぶち当たるかとなって仕舞うというのだ。すると支配人らも同じように厄介な目に遭わなければいけない。そこが他の芸術とは異なるところだろうとしている。

マガジンに彼女のフィデリオの舞台試験風景が掲示されている。照明の中での衣裳の素材、客席からの視点、ベートーヴェンの音楽に合わせた階段の上下の迷路。これだけでとても大きな期待が膨らむとしているが、さてどうなるか?



参照:
歴史に残るようなこと 2019-09-17 | 文化一般
TVドラマのような視点 2019-07-24 | 文化一般
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