Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

伝統の継続は眠くなる?

2019-11-08 | 
暖房を入れたら今度は眠くなった。夜はぐっすり就寝した感じだった。目覚めがよくはなかったが、寒さの中を颯爽と出かける気持ちにはなった。就寝前に部屋と身体を暖めて、暖房を消して一気に寝る。これに尽きる。お蔭で怪訝されていた鼻風邪も引かずに、何とか走り終えた。

シューベルト作曲大ハ長調交響曲を聴いた。来週木曜日に生を聴くフォンドホナーニ指揮のクリーヴランドでの演奏の中継放送アーカイヴである。いつものことでもう一つ冴えないなと思っていたのだが、二拍子の主題のアーティキュレーションやそして何よりも繋がりにとても気を使っていることが分かった。それでどういう効果が生じるかと言うと律動的に明白にしながらも和声の移り行きが継続的になって、つまり刻々の変化がよく分かるという結果になる。

関連してベルリンでのメータ指揮の批評が出てきていて、日本向けの両プログラムが扱われることになる。なぜ関連しているかと言うと、年齢差はこの二人に於いて七つあって微妙なのだが、意外に共通しているところがそのサウンドの中庸ではないかと思う。もう六年上にサヴァリッシュがいて、これはまたmfの指揮者と言われたように大きな音を出さない。ダイナミックスレンジが小さいのが特徴とされた。更に九年上のヴァントとも大分異なる。

両指揮者とも律動の正確さと和声の動きに注意深く、昨今の古楽器ブームなどに見られる短絡化とは一線を隔している。しかし同時にフォンドホナーニはミニマルのグラスなども指揮していて、またメータは新ヴィーン学派門下の直系である。要するに点描的な音楽表現も得意である一方音楽の基礎にある丁度川の水か上流から下流へとたゆたうと流れて行く自然を味方としていて無理が無い。それは律動であったり、機能調性を超えて音程間の緊張など物理の節理が働くところなのだ。

既にメータ指揮の両プログラムへの酷評が出ている。それによると大時代的なベートーヴェンやぬるま湯的なサウンド、そして喧し過ぎるブルックナーへの拒絶に近いものになっている。その極端な評を呼んで、晩年のベーム博士指揮のそれへの両極化する評価を思い出した。ベーム博士の場合は過去の杵柄がそのテムポの弛緩などで崩れてしまっているというのとそれでもやはりという両面だった。しかしメータ指揮に関しては、所謂新ヴィーン学派などの影響を演奏活動でも直伝として受けながらのヴィーンの音楽に対する是非が批判点だと思う。ベルリンでの最後の登壇時の指揮者アーノンクールに於けるのとは比較になら無い程メータは明らかにそれを体現している。

奇しくもルツェルンで、キリル・ペトレンコを称して「ヴィーンの音楽を身に纏っている」としたのはフルートのパウであるが、この言葉の意味は深い。要するに私がこの指揮者を認めたのは「ラインの黄金」の最初の何ページかを体験してからであって、「ユダヤ系ロシア人に馬鹿らしい」と思って聴いていたからだ。要するにブーイングを用意していたが全くそうはならなかった。そこで判断されたのは、百年に一度の天才でもなんでもなく、「真っ当な音楽が出来る人だ」という事だった。どれほど音が取れようが、自由自在にリズムをとれて、テムピを扱えても無意味なのである。それが伝統音楽があるべき姿なのだ。それと同じところに根差したものをこのボンベイ出身指揮者の音楽に認めれるかどうか?

もしスヴァロフスキー門下の代表であるこの指揮者の音楽にヴィーンの伝統を見いだせないとすれば、二十世紀以降のヴィーンでの音楽活動は無意味としか思えなくなるだろう。奇しくもヴィーナーフィルハーモニカーに続いて日本でその権化のようなメータ氏がベルリナーフィルハーモニカーを指揮するので、どちらが本物の伝統かが明らかになるのではなかろうか。先ずは今晩のベルリンからの生ストリーミングが愉しみだ。



参照:
記憶の底から呼び起こす 2019-10-30 | 雑感
孤陰不生,獨陽不長の響 2019-11-03 | 音
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