Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

改訂版イタリア交響曲

2020-11-22 | 文化一般
零度の寒気の中を運動したので疲れたようだ。夕方早くザウワークラウトと温めた細いソーセージなどを食して、料理リ―スリングを引っ掛けてビールを一缶開けたら起きていられなくなった。二時間以上寝た。薄い酔いも醒めた。

NASが一杯になって一割未満になったのでPCの表示が赤色の警告になった。文字通り後無いという事で、先ずはそこに入っている映像ヴィデオの数々を外付けUSBハードディスクに移すことにした。3Tあるのでそれ一杯にうつせば、NASの8Tx2に四割程の余裕が生じる。オーディオも大きなファイルにしているが、流石に数Gを超えるものは少ない。ヴィデオはDLしたMP4でもオペラなので5Gを超えるものがある。それだけのものだから購入すれば結構な価格になる。スペースを使ってでも置いておきたい。殆どは趣味のバロックオペラで、CDではあれだけ流していても念願の舞台映像を見る時間が殆どない。時間がある時にマニュアルで選ってうつして行こう。

承前)オクサーナ・リニヴBR交響楽団デビュー演奏会のプログラムをDLした。そこには今回演奏されたメンデルスゾーンのイタリア交響曲の改訂版についての記述は限られている。但し、指揮者本人がインタヴューで今回偶々「聴いた」と語っていた、その改訂版での録音は2001年になって初めて発売されていたと書いてあった。兎に角、それ以降に出た録音を彼女は聴いたことになる。プログラムを決めるに際して指揮者が急遽新録音を聴いたというのは珍しい話しで、多くの指揮者はそのように素直には語らない。少なくとも出版社の読み物などを読んで知っていた顔をするのが普通だろう。この素直さにも好感を抱いた。男性の見栄っ張りと女性のそれとの違いかもしれない。それでも彼女は指揮者はカリスマ性があってのものと考えているようで、そのカリスマ性も虚勢とは全く正反対のものであり得る。

さてその改訂版は、1833年5月13日にロンドンで初演されて好評を得たのにも拘らず、指揮をしていた本人だけが不満で修正して行ったマヌュスクリプトで、現行版は初演の原典版らしい。DLした通常の楽譜を見ながら聴いていたので直ぐに分かったが、二楽章のアンダンテがどんどんと和声的に色付けされていって、対旋律の管楽器が書き加えられている。初演の時に評判が良かったのも実はこのアンダンテの様で、所謂メンデルスゾーンの「テキストの無いの歌」のようなものに全く異なる情緒が付けられている。この辺りの歌い口とかグラデーションの付け方がこの女流の音楽の最も魅力的なところでありキリル・ペトレンコには求めようもないしなやかさだ ― 似ているのは彼女がサポートしているバレンボイムの音楽でウンターデンリンデンの音楽監督に成るのだろうか。

序でに、ラディオ番組の二曲目のバムベルクでの指揮の「三角帽子」にもあったが、この女流が振るとまるでおちょぼ口の女性が吹いているようなあまり息を吹きこまない管楽器などが聞こえて面白い。通常はいい事と思われないそうした音色とか呼吸感が、コンセルトヘボーのホルン首席カティー・ウーリーなどにも共通するものが新たな音楽表現ともなり得る。スポーツでもあるように女性の動きを見るともはや男のごつごつとした動きからそうしたしなやかな方向へと移ることが理想に思えるのとよく似ている。三楽章のホルンのトリオにおいてもそのような吹かせ方をしている。フランクフルトの室内楽版「清教徒」の指揮でも確認したのだが、そうした色合いと精妙さとクライマックスで、ここ「イタリア」では四楽章におけるサルタレッロのリズム感などのコントラストとして上手に活かす。歌声に付けるとかの特級技術よりもこの女流はコンサート向きであると感じたのはまさにそこである。

ここでもバロックの対位法的な扱いと二楽章の殆どマーラーの世界に近い円熟のロマンへの流れは明らかに19世紀後半のものであり、当時の出版やの判断としてその手前の原典版で止めておいたというのもとても良く分かる判断だ。交響楽団演奏会に求められる感動とはそうした裏付けがあるものでなければいけない。二百年のそうした流れを想起させない演奏会などは態々出向く価値も無い催し物であり、大交響楽団に必要な公的資金の援助というものが必須とする文化事業の核心である。(終わり)



参照:
21世紀の機能和声の響き 2020-01-26 | 音
メンデルスゾーンの響き 2019-11-16 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする