Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

夏至の頭に響いた音楽

2021-06-22 | 
夏至の日は未明から活動した。用事があったのとやはり太陽の引力か。先ずは日本の銀行に電話をした。午前中に電話をした。先週は電話の掛け方が間違っていたようで、午後は休業かと思ったので午前中に掛けたのだ。

それから一っ走りして戻ってきた。起床後時間も経っていて、気温は下がっているのだが、それでも陽射しにやられた。年寄り夫婦が歩いて来ていて、二人ともノルディックウォーキングのような二本のストックを持っているのだが、その足音からしてアザラシの様で見て確認するまで想像できなかった。あのストックは転ばぬ先の杖だと思った。

「トリスタンとイゾルテ」のお勉強を始めた。五年前に一度やった筈なのだがこちらの読みが全く異なっている。五年前にはサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカーでの批評もしていてそれを読み返すと問題点は分かっていたようだ ― 幸運にもBRにもその時の音の断片が残っていて聴ける。しかし、今はどういう風に演奏されるべきなのかが分かるのだ。

だから、今回ピエール・ブーレーズ指揮NHK交響楽団の演奏をお勉強資料に選んだ。そして一幕を聴いた。想定通りの指揮だった。ブーレーズ指揮はリズム正しく早めのテムポでどんどんと進む。演奏のN響にもこの指揮者にもドイツ音楽のアウフタクトは求められないが、それが上手に機能して、なるほどそれ以上の座付管弦楽団の合奏は到底期待できないとしても破綻していない。楽劇は指揮者さえよければ何とかなるのだなと改めて思う。これだけで充分である。

ブーレーズ指揮は「パルジファル」しか聴いていないのだが、そしてこの「トリスタン」も他では振っていないということで、この録音の価値は高い。但しキリル・ペトレンコが振ってしまうとたちまち意味を失ってしまうだろう。

この「トリスタン」で「マイスタージンガー」との繋がりも沢山聴き取れる。これが今回キリル・ペトレンコ指揮で演奏されるときにはその楽想の隅々までが有機的な意味を持って来ると思われる。まさしくブーレーズが全く以って関心が無いようにサクサクと進めていたそこが明晰に示される筈だ。

先ほど発売されらマーラーの第七交響曲の終楽章も「マイスタージンガー」のパロディーの様にもなっているのだが、メディアの発売も含めてコロナ禍が無かったら更に多くの人が身体で全ての意味を感じられた筈だ。

ミュンヘンの新陽性者指数は145人で9.8と一桁台になった。此の侭半減してくれれば、最早空調の効いた大劇場で四分の一の入場などと馬鹿げたことは無い。千人入場しても0.05人とかの確率で陽性者がいるとして考慮する方がおかしい。更にドイツ国内の指数はそれより低い。一体、外国からの訪問者は何割いるのだろう?



参照:
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
真夏のポストモダンの夢 2005-06-25 | 暦
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