久しぶりに衣裳をチェックした。ミュンヘンの新制作「トリスタンとイゾルデ」のゲネラルプローベの情報が伝わる。誰もいない土地とおかしなホテルが舞台のようだ。写真も数枚しかない。「サロメ」でも好評で、個人的にもオペラ美術賞に推挙した女性の衣裳などが垣間見える。兎に角色合いが冴えるので ― インテリアも不思議なホテルも茶色っぽいらしい ―、楽しみにしている。
演出家のヴァリコフスキーの新制作では「影の無い女」もあったが、そこでは舞台をダヴォースの「魔の山」のイメージに重ね合わせたのだが、美術的にはもう一つで無かったかと思う。今回はさてどうだろう。
初日の火曜日は前日の暑い日に続いて夕立勝ちになるようだ。ミュンヘンのこの時期のオペルンフェストシュピーレの情景かも知れない。薄い寒色のシャツにしておこう。初日とは言ってもマスクもせねばならず、寛ぎの装いが最も大切である。
予約してあるホテルに先によれば寄りたいと思うが、抗原検査の予約も15時10分に入れているので、ホテルを14時に出ないと危ない。ワイン街道を9時に出発で何とかなるか。
先日の大阪でのバイロイト音楽祭を聴いたので、今度は本番の1967年のベーム指揮の録音を聴こうと思った。すると1952年の録音というのがあった。昨年初めて放送されたカラヤン指揮の実況録音だ。歌手もヴァルナイやメードルでもう一つ古い陣容だ。これはと思って聴くと、カラヤン指揮があまりダイナミックスなどを丁寧に付けずに、歌手に寄り添うような指揮をしている。特に語りとなると殆どレティタィーボのような趣で、当時はそのように地方劇場でも演奏されていたのだろうと思った。
54歳でヴィ―ンやスカラ座で振っていた頃で、これからという時だった。既にレッグの下で録音を始めていたがそのようなシャープな指揮はここにはない。一幕を聴いた限りでは、なるほど才気にも溢れていてドラマを上手に描いているとは思うが、どちらかというととても保守的で、そこには丁度バイロイトデビューしたころのキリル・ペトレンコンの天才性は微塵もない。時代が違うと言ってしまえばそれで終わりなのだが、本人が番組内のインタヴューで語っている様にウルムから自転車で通ったトスカニーニが一つ手本だったことは間違いない。
アンチカラヤンでもないので可成りの数の録音などが手元にある。そしてオペラ指揮者としては超一流だったことは否めないが、またしても、その膨大な資料がお勉強に使えないのでがっくかりする。確かに音を聴いているだけでドラマが進んでその雰囲気がとても分かり易い。何気なしに劇場に来た人がその舞台と共に大満足する音楽をしている。
一方、キリル・ペトレンコのオペラ指揮はあまりにも音楽的、演劇的に詰め過ぎていて、その物語が流暢に流れるというものでは無いので決してオペラ的ではない。さして言えば音楽劇場的で全く保守的な劇場指揮者ではない。
参照:
首尾よく拾ったこぼれ球 2021-06-26 | 文化一般
最早コロナは政治課題では 2021-06-25 | 生活
演出家のヴァリコフスキーの新制作では「影の無い女」もあったが、そこでは舞台をダヴォースの「魔の山」のイメージに重ね合わせたのだが、美術的にはもう一つで無かったかと思う。今回はさてどうだろう。
初日の火曜日は前日の暑い日に続いて夕立勝ちになるようだ。ミュンヘンのこの時期のオペルンフェストシュピーレの情景かも知れない。薄い寒色のシャツにしておこう。初日とは言ってもマスクもせねばならず、寛ぎの装いが最も大切である。
予約してあるホテルに先によれば寄りたいと思うが、抗原検査の予約も15時10分に入れているので、ホテルを14時に出ないと危ない。ワイン街道を9時に出発で何とかなるか。
先日の大阪でのバイロイト音楽祭を聴いたので、今度は本番の1967年のベーム指揮の録音を聴こうと思った。すると1952年の録音というのがあった。昨年初めて放送されたカラヤン指揮の実況録音だ。歌手もヴァルナイやメードルでもう一つ古い陣容だ。これはと思って聴くと、カラヤン指揮があまりダイナミックスなどを丁寧に付けずに、歌手に寄り添うような指揮をしている。特に語りとなると殆どレティタィーボのような趣で、当時はそのように地方劇場でも演奏されていたのだろうと思った。
54歳でヴィ―ンやスカラ座で振っていた頃で、これからという時だった。既にレッグの下で録音を始めていたがそのようなシャープな指揮はここにはない。一幕を聴いた限りでは、なるほど才気にも溢れていてドラマを上手に描いているとは思うが、どちらかというととても保守的で、そこには丁度バイロイトデビューしたころのキリル・ペトレンコンの天才性は微塵もない。時代が違うと言ってしまえばそれで終わりなのだが、本人が番組内のインタヴューで語っている様にウルムから自転車で通ったトスカニーニが一つ手本だったことは間違いない。
アンチカラヤンでもないので可成りの数の録音などが手元にある。そしてオペラ指揮者としては超一流だったことは否めないが、またしても、その膨大な資料がお勉強に使えないのでがっくかりする。確かに音を聴いているだけでドラマが進んでその雰囲気がとても分かり易い。何気なしに劇場に来た人がその舞台と共に大満足する音楽をしている。
一方、キリル・ペトレンコのオペラ指揮はあまりにも音楽的、演劇的に詰め過ぎていて、その物語が流暢に流れるというものでは無いので決してオペラ的ではない。さして言えば音楽劇場的で全く保守的な劇場指揮者ではない。
参照:
首尾よく拾ったこぼれ球 2021-06-26 | 文化一般
最早コロナは政治課題では 2021-06-25 | 生活