Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

今後の指針盤となる為

2022-04-22 | マスメディア批評
久しぶりに頂上アタックをした。日没までの時間を使った。4月6日以来で二週間ぶりとなった。この間、9回バーデンバーデン往復をして1800km以上車で走った。不順な食生活だったが、体重はそれほど増えていなかったようだ。但し走り始めから左足が全く蹴れなかった。結局それで時間を掛けて往復した。左足のケガは忘れていたのだが、これで殆ど治った感じもある。それ程仕えていなかった筋力があって、それが不自然な走りになったのだろう。足をあまりコントロールできなかった。

この間の復活祭での批評に改めて目を通す。特に新制作「スペードの女王」は今後のフェストシュピーレにおいて指針盤となるのでとても重要である。一番核心に触れているのは南ドイツ新聞の批評かもしれない。

そこでは金即ち権力と愛との葛藤が描かれた作品「ポッペア」、「フィガロ」、「トラヴィアータ」、「指輪」と来て、チャイコフスキーの最後の大作「スペードの女王」でその頂点に達した。大詩人プーシキンのシェークスピアを黒いロマン、社会分析、愛の心理学で洗練させた原作が作曲家を不可抗力の深層心理の音楽へとインスプレーションさせた。それが民謡であったり、モーツァルトのパロディーや、教会音楽やベルカントで、パトスとか、不安や出任せや深層心理やロマンティックな断章などの様に認知される。

バーデンバーデンにおいては、キリル・ペトレンコの指揮とベルリナーフィルハーモニカーがそれらの一瞬一瞬を正確に描こうとした。音の強弱における細分化、アゴーギク、音色においてその楽譜は殆ど悲愴に多くを学んだマーラーにおける精査に近づいていたとしている。

このことは最終日のカールスルーへのモェシュ博士の話しで出てきた、この曲をメトで初演したのはそのマーラーであって、実際に今回の舞台の背景で軍楽の響くシーンなどはまさしくマーラー交響曲における同種のコラージュ手法であって、同様の内容の「ヴォツェック」に引き継がれている。

ペトレンコは、総譜に息吹を吹き込み、まるでゴーレムを生き返すように、そのあまりに違和感のある独特な強調されたものを、一切の平均化や茶化したり、スマートにすることなく全てを納得可能とした。こうした細部へや近代的な響きに対する拘りと同時にペトレンコは、何ら無理ない静まり切った蠢きから鞭入れられた轟迄を、狂いまくる情熱を、長く紡がれたカンティーネを、暗黒の音響的縁迄を組み合わせた。そこに、何でもない、全てがあった。彼は、歌手やスロヴァキアの合唱団に殆ど手を携えているようなものだった。

指揮者への音楽的な評価として、この天才指揮者に対してこれ以上適格な批評は無かろう。そして、満席に入っていない聴衆がペトレンコとフィルハーモニカーを熱狂的に喝采するのは不思議でも何でもない。

そして祝祭劇場だけでなくて、今の世界でロシア音楽を排除できる筈などがないとも綴っている。



参照:
Spielball der Lüste, Reinhard J. Brembeck, SZ vom 10.4.2022
2025年以降の復活祭へ 2022-04-20 | 文化一般
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般
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