バーデンバーデンでの練習が始まった。こちらのお勉強も熱を帯びてきた。先日の小澤征爾指揮の映像に続いて2003年のバルセロナの劇場でのキリル・ペトレンコ指揮の新制作「スペードの女王」の一幕から二幕を流してみた。
予想以上に一幕冒頭から違っていた。二十年も若い指揮者であるが、意外にもテムポは落ち着いていて拘りを見せる。しかし楽団もあってか不器用にしか鳴らない。例えば同じ座付き楽団で録音して話題になっているマーラー交響曲七番のそれにも近い趣もある。逆に如何にも滑稽な動機が不細工なままに鳴らされるので、これは間違いなくカード勝負に負けてニヒリズムに陥る天地倒置した感じを与える。
すると交響曲四番から中心動機となる運命の動機が適当に鳴らされているだけでは無いのが分かる。勿論悪い映像からはその音響も細かくは確認できないのだが、明らかに楽譜以上のデフォルメがある。それがどのように導かれているかはもう少し調べて行かないと分からない。しかし大きな要因は歌詞からのアーティクレーションだとは分かる。
当時の評判は聴いた記憶があるのだが、確かにこの指揮ならばそれ程といったこちら側の受け止め方も間違っていなかったという言い訳にもなる。技術的に今よりも落ちていたとは思われないのだが、ベルリンでの成功前のことであり、奈落のコントロールや舞台との関係でも現在ほどには熟達していなかった可能性さえ感じる。しかし、同じようにベルリンを勤め上げた後で2008年のリヨンでのプーシキンオペラ公演では指揮に関しては大成功しているようだ。
反面ペーター・シュタイン演出は不評だったので、今回がそのリヴェンジとなって初めて成功するように専念しているに違いない。やはりこの作品は音楽的にも生半可には上演できず、演出も嚙み合わないと、十二分な表現とはならない難しさがあると思った。
そこで改めて気が付くのは、追放されたゲルギーエフ指揮の「マゼッパ」などに見られる適当なテムピ設定は、修正主義者ティーレマン指揮の楽劇などにおけるのと同様な優柔不断な姿勢である。この歌劇で描かれるチャイコフスキーの芸術はベルリナーフィルハーモニカーのHPにルツェルン音楽祭で活躍するシュトェール女史が楽曲解説している。全てをカードに賭けるヘルマンとチャイコフスキー自身の同一化である。
それを如何に深読みして表現するかとなれば、到底音楽家として同性愛者を法的に罰しようとするプーティン政権のネトウヨ体制を支持出来る筈がない。まさしく全てがそこに表れているのだが、それを音楽的に評論することが玄人の仕事であり、それなくしては広く社会にその意味が伝わらない。
それで分かる様に、音楽劇場指揮の第一人者テュテュス・エンゲルなどが演出に合わせて解釈を変えるというのとは全く異なった意味合いで、今回の復活祭での新制作にキリル・ペトレンコが全てを賭けて表現しなければいけないチャイコフスキーの全てなのである。それを通して、時を超えて、そして今表現すべきことが描かれると目されている。
四月二日の今日の雪、何とか降り止みそうで、月曜日には乾いた氷点下の道を夏タイヤでも歯医者に向かって走ることが出来そうだ。
参照:
ゾクゾクする奈落からの音 2022-04-02 | 音
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
予想以上に一幕冒頭から違っていた。二十年も若い指揮者であるが、意外にもテムポは落ち着いていて拘りを見せる。しかし楽団もあってか不器用にしか鳴らない。例えば同じ座付き楽団で録音して話題になっているマーラー交響曲七番のそれにも近い趣もある。逆に如何にも滑稽な動機が不細工なままに鳴らされるので、これは間違いなくカード勝負に負けてニヒリズムに陥る天地倒置した感じを与える。
すると交響曲四番から中心動機となる運命の動機が適当に鳴らされているだけでは無いのが分かる。勿論悪い映像からはその音響も細かくは確認できないのだが、明らかに楽譜以上のデフォルメがある。それがどのように導かれているかはもう少し調べて行かないと分からない。しかし大きな要因は歌詞からのアーティクレーションだとは分かる。
当時の評判は聴いた記憶があるのだが、確かにこの指揮ならばそれ程といったこちら側の受け止め方も間違っていなかったという言い訳にもなる。技術的に今よりも落ちていたとは思われないのだが、ベルリンでの成功前のことであり、奈落のコントロールや舞台との関係でも現在ほどには熟達していなかった可能性さえ感じる。しかし、同じようにベルリンを勤め上げた後で2008年のリヨンでのプーシキンオペラ公演では指揮に関しては大成功しているようだ。
反面ペーター・シュタイン演出は不評だったので、今回がそのリヴェンジとなって初めて成功するように専念しているに違いない。やはりこの作品は音楽的にも生半可には上演できず、演出も嚙み合わないと、十二分な表現とはならない難しさがあると思った。
そこで改めて気が付くのは、追放されたゲルギーエフ指揮の「マゼッパ」などに見られる適当なテムピ設定は、修正主義者ティーレマン指揮の楽劇などにおけるのと同様な優柔不断な姿勢である。この歌劇で描かれるチャイコフスキーの芸術はベルリナーフィルハーモニカーのHPにルツェルン音楽祭で活躍するシュトェール女史が楽曲解説している。全てをカードに賭けるヘルマンとチャイコフスキー自身の同一化である。
それを如何に深読みして表現するかとなれば、到底音楽家として同性愛者を法的に罰しようとするプーティン政権のネトウヨ体制を支持出来る筈がない。まさしく全てがそこに表れているのだが、それを音楽的に評論することが玄人の仕事であり、それなくしては広く社会にその意味が伝わらない。
それで分かる様に、音楽劇場指揮の第一人者テュテュス・エンゲルなどが演出に合わせて解釈を変えるというのとは全く異なった意味合いで、今回の復活祭での新制作にキリル・ペトレンコが全てを賭けて表現しなければいけないチャイコフスキーの全てなのである。それを通して、時を超えて、そして今表現すべきことが描かれると目されている。
四月二日の今日の雪、何とか降り止みそうで、月曜日には乾いた氷点下の道を夏タイヤでも歯医者に向かって走ることが出来そうだ。
参照:
ゾクゾクする奈落からの音 2022-04-02 | 音
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音