Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

チャイコフスキーの音楽構造

2022-04-23 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ紙の「イオランタ」批評は、ペトレンコに単独インタヴューしていた筆者乍、「スペードの女王」では書き切れていなかった音楽について少し踏み込んでいる。

ペトレンコの指揮したチャイコフスキーの集中した壮麗さと感受的なエレガントを一度でも、その音楽的構造とバランスを意味合いを体験した者にとっては、そのようないい加減な評価に怒りと恥を感じるものでしかないと書いている。

要するにロシア音楽嫌い若しくは苦手な者にとっては漸く正しい評価の切っ掛けとなるのがペトレンコ指揮のチャイコフスキーの体験でしかないとなるだろう。

そうした意味のあるチャイコフスキー指揮者としてムラヴィンスキーなどが有名であったが、残るバレー音楽の録音などにも欠けるのはペトレンコにおけるエレガントであり、その柔軟性ではなかろうか。

ベルリンへ戻ってのコンサート形式での批評では、ゲルギーエフやヤンソンス指揮のチャイコフスキーを超えて嘗てない最高の体験だったとされているのだが、まさしく西欧の視線のみならず本物志向においても到底及ばないのがそこにおける構造感とバランスで表現されようとしているものかもしれない。

因みに上で批判対象となっているのが1948年のアルフレード・アインシュタインが「音楽におけるロマンティック」において、チャイコフスキーは中程度の作曲家であるとしていることに準拠する。

上記の集中というのは、声楽に付き添う管弦楽の心理的音色的な濃さであり、その管弦楽が舞台の上にあるにも関わらず、必要ないところでは轟くこともないベルリナーフィルハーモニカーとしているところである。彼らは、それ以上に狙いの定まった大きなフレージングと精密なアーティキュレーションでそれを為していたのは、歌唱上これ以上求めようのなかった「スペードの女王」で示されていたものだと後出しで今頃書いている。

例えばこれと1986年における大成功したカラヤン指揮「ドンカルロス」の録音とその復活祭でのベルリナーフィルハーモニカーを指揮した映像、並びに夏のヴィーナーフィルハーモニカーを指揮した映像などを比較すれば、少なくともカラヤンにはなかったペトレンコの天才性が確認できるだろう。なるほどその頃のカラヤンは、マイヤー騒動後で最早それだけ音楽芸術的な制御が効かなかったのは事実であり、そこ迄の意義をそもそもヴェルディのオペラや音楽に感じていなかったのであろう。

ベルリンでは、バーデンバーデンの千秋楽に明らかに嵌まったヘルマン役のアルセン・ソゴモーニヤンが大絶賛されていて、今まで聴いた一番大きな声とされた。メータ指揮の「オテロ」をスケルトンに代わってベルリンで歌っていたのでお馴染みのようだが、これでアスミク・グリゴーリアンが歌っていたらどうなっていただろうと思う。主役の次にペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーがいたとされて、舞台がない演奏では他のドラマが吹っ飛んでしまっていた様だった。
Agnes Baltsa - Ich bin ein Sorbas - Portrait ZDF cf.15m

Verdi: Don Carlo - "Nel giardin del bello", Agnes Baltsa, 1986

Don Carlo Karajan 1986




参照:
Ein wahres Himmelsgeschenk, JAN BRACHMANN, FAZ vom 21.4.2022
今後の指針盤となる為 2022-04-22 | マスメディア批評
2025年以降の復活祭へ 2022-04-20 | 文化一般
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