Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

動物のミミックな動機表現

2023-06-20 | 
承前)音楽的にはもう少し吟味したい。理由は第三回公演から最終第五回までまだ三回公演を体験する。そのうち一回は野外での二部の間にバーデンバーデンへと梯子するので、二部に関してはあと二回体験する。初日においても二部の音楽について吟味するだけの余裕も集中度も無かった。やはり陽射しが強くて、ひっきりなしに飲み物を摂り、熱中症対策に絶えず何かを摂り続けた。だから最も重要な鳥の説教の小演奏会と大演奏会の両方共に集中度が足りなかった。最も難しい場面は、指揮者のキューなどを観ていたのだが、そして難しい演奏はなされていたのだが、音響的に満足できる条件ではなかった。但し皆が書くように、森の鳥との掛け合いは見事であって批評の一部にもその絶妙な歌い交わしの歌声が評されていた。総稽古にいた人に言わせると初日は取り分け上手くいったということで天候が違ったのか。

しかし、第一部のフィナーレは今まで経験した中で最も感動的な喝采となったのは一景から二景のその音楽的な見事さのみならず演出における奇異さも全て受け入れらせるドラマ性にあった。既にボイスのウサギを使いその死体を説明する為の魂の存在が認知されると同時に、動物的な動きのミミックはそのもの我々の肉体への客観的な視座を与える。

そして三景になって、その肉体を蝕む籟病菌を我々生物の一つの起源とすることからそれを巨大化した着ぐるみとして籟病者即ち菌がのたうち回るような舞台とした。これ自体は必ずしも顔も見えない物体であることから情動的な舞台とはならないのであるが、やはりその歌の音楽の力から、基本モティーフの使い方からその存在の意味が明白になり、そこへと連なったウサギの葬送へと新たに顧みさせる演劇的な効果が見事な手腕であった。

それをして批評には決して安っぽい劇とはならないエンゲルの指揮と評価しているところである。エンゲルが音楽をお勉強していくにあたってその構図を最初に観ていくと語っていたのだが、それは丁度作曲家が創作していく工程を逆に辿っていることになる。それをして初めて場面の音楽へと視線を移していくことでより的確な表現となるということでもある。それをして演出に調和させていくのが音楽劇場指揮者のセンスである。そしてその仕事の質を聴衆の多くが認識した。

あまりにも抽象的な書き方となったが、分かり易いのは同じカトリック作曲家のブルックナーにおいてもその音楽に描かれている現象がどうした節理から導かれているかということが重要になる。例えば教会の威圧する巨大なカテドラルが想像されたとしてそれを教会の権威を示すものとしては神秘主義者のブルックナーは考えなかったのである。それを見誤らない様にする為の全体の構想への視座がファーストとなる由縁である。(続く



参照:
行動食、濡れティッシュなど 2023-06-03 | 文化一般
達する聖フランシスコ 2023-05-29 | 音
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