Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

聖フランシス「太陽の賛歌」

2023-06-24 | 文化一般
承前)木曜の第二回公演は雨天用の運びになるとあった。そこで第二部が教会等で演奏されるということだ。それでも鳥の説教の「鳥の大小演奏会」の演奏は難しい。それに合わせてSWRも初日印象を短く伝えていた。そこで一部が終わった後の聴衆のおばさんの感想が私と全く同じで、グレゴリアン聖歌に不協和から、そして解決で感動したとあった。流石にこの人たちは歌えるのだと思った。それにしてもやはり玄人である。そしてあの稀にみる感動の拍手の源がそうしたものであると分かって、流石に程度が高い聴衆で、最後に指揮者ティテュス・エンゲルへの大歓声の真が分かって嬉しい。通の世界では、第一人者であるだけでなく、 最早揺るぎない支持を得て、更に大きな活動への道が敷かれていると思う。

第三部の「聖傷」の場面も良かったのだが、一番感動したのはプロジェクターとも舞台装置ともいえないような黄色の網が広がっていくところで、音楽的にフィナーレのハ長調を準備している箇所である。まさしく聖フランシスコの「太陽の賛歌」そのものであり、舞台上でこのような表現が可能なのかと思った。同じ演出家マーラーの昨年のミュンヘンでのコーマにいる脳や心臓の動きは皆に感動を与えたようだが、この辺りの発想は只のプロジェクトやコンセプトでものを語る人ではない彼女の芸術性を証明している。

こうやって重要な場面局面をメモ代わりに綴ってきたが、未だ日曜日の第三回公演までににそこと楽譜を合わせておかないといけないと思っている。おぼろげな記憶だけではその正当性を宣言できない。

上の黄色いネットは第二部においても林の手前などに寝かされていたのだが、その意味は太陽の木洩れ陽ぐらいにしか理解できなかった。演出について判断を下そうと思えばやはりその意味合いを改めて吟味する。

そして聖フランシスコ昇天への流れで舞台は感動でしかなかった。一つには喜びの動機のその動物的な動きが、繭の脱皮の早送り映像で以ってそれが悦びへと意味が変遷していくものこそは、まさしくキリスト教における源罰が三位一体の過程を通して、再生へと向かうアキナスによって完成される哲学となっていることに相当している。

聖傷によって、その存在が聖的な意味を持つのであるが、第一部における宗教的なテキスト内容がここに初めて解決されていて、如何に作曲家メシアンが「パルシファル」のヴァ―クナーをして楽匠は聖杯の奇跡を信じていなかったというその真骨頂がこうした形で満たされることになっている。そしてフィナーレに至る合唱の指揮はエンゲルの息の長いクレッシェンドとなっていて、そこだけでもこの指揮者が嘗てのクナッパーツブッシュの様な大きな音楽を形作ることを聴衆は理解したと思う。(続く



参照:
悦びのハ長調への賛歌 2023-05-28 | 雑感
次はエディプスコムプレクス 2023-05-07 | 文化一般
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