「アシジの聖フランシスコ」第二幕は四景の「天使の彷徨」である。そこの情景のト書きに作曲家は、「聖処女マリアへお告げするフィオレンツェのサンマルコ美術館のフラアンジェリコ天使像がモデル」と指定している。つまり五色の羽が顕著である。
つまり精霊が宿ることによって処女マリアが懐妊するという下りが描かれている。しかしここではフランシスコの修道院に天使がやって来て、入り口を軽くノックすると、轟くという下りである。応対する三人の弟子たちに天使が禅問答のようなものを交わす。音楽内容的にも色々あるのだが、今一つ分からないところがある。
それに続いて、「音楽する天使」では穴に籠る聖フランシスコとの対話から天使が奏でる弦楽が最後にはオンドマルトノとして昇華される。作曲家にとっての音楽への信仰告白のようなものだろう。
色々なテーマが隠されていることは分かるのだが、やはりこの辺りになると自然と音のモードというのを考えるようになる。既にそれらしいテクストが付けられているのだが、明らかな色彩が強い印象となる。
余談ながらここは、ザルツブルクの公演のプログラムでは、三島由紀夫の死を前にした遺稿連作「豊饒の海」から「天人五衰」の天使に関する箇所が引用されて載っていた。大毘婆抄論第七十二から解いているところで、大小二種の五衰から、一は五つの楽声を持ち、死に近づくと衰え、声が掠れ、二は影がないのに死が近づくと薄暮となり、三は死が近づくと肌は水をはじかなくなり、四は動きが鈍くなり動かなくなり、五は身力弱くなり盛んに瞬きするようになる。
またもう一つの大においては、一は衣服が垢にまみれ、二は頭上の華が萎み、三は脇から汗が流れ、四は臭気を放ち、五は安住とはならないとある。
ここでは天使がそれをしてという事は全く描かれてはいないのだが、広義に輪廻ということでこの文章が採用されていたのだろう。
今回の制作においてもやはりその衣装も興味深いところでもあり、其の儘ならばフランシス会の頭巾姿となるのだが、勿論芸術的に音楽的にそこで描かれているイメージとは離れる。特に色彩的な視覚の印象は音楽のモード即ち旋法でもある。全く無視されるべきものではない。
Olivier Messiaen - Saint François d'Assise, Act II (1983) (English Subtitles)
参照:
行動食、濡れティッシュなど 2023-06-03 | 文化一般
巡礼初日に向けての衣装 2023-05-25 | 音
つまり精霊が宿ることによって処女マリアが懐妊するという下りが描かれている。しかしここではフランシスコの修道院に天使がやって来て、入り口を軽くノックすると、轟くという下りである。応対する三人の弟子たちに天使が禅問答のようなものを交わす。音楽内容的にも色々あるのだが、今一つ分からないところがある。
それに続いて、「音楽する天使」では穴に籠る聖フランシスコとの対話から天使が奏でる弦楽が最後にはオンドマルトノとして昇華される。作曲家にとっての音楽への信仰告白のようなものだろう。
色々なテーマが隠されていることは分かるのだが、やはりこの辺りになると自然と音のモードというのを考えるようになる。既にそれらしいテクストが付けられているのだが、明らかな色彩が強い印象となる。
余談ながらここは、ザルツブルクの公演のプログラムでは、三島由紀夫の死を前にした遺稿連作「豊饒の海」から「天人五衰」の天使に関する箇所が引用されて載っていた。大毘婆抄論第七十二から解いているところで、大小二種の五衰から、一は五つの楽声を持ち、死に近づくと衰え、声が掠れ、二は影がないのに死が近づくと薄暮となり、三は死が近づくと肌は水をはじかなくなり、四は動きが鈍くなり動かなくなり、五は身力弱くなり盛んに瞬きするようになる。
またもう一つの大においては、一は衣服が垢にまみれ、二は頭上の華が萎み、三は脇から汗が流れ、四は臭気を放ち、五は安住とはならないとある。
ここでは天使がそれをしてという事は全く描かれてはいないのだが、広義に輪廻ということでこの文章が採用されていたのだろう。
今回の制作においてもやはりその衣装も興味深いところでもあり、其の儘ならばフランシス会の頭巾姿となるのだが、勿論芸術的に音楽的にそこで描かれているイメージとは離れる。特に色彩的な視覚の印象は音楽のモード即ち旋法でもある。全く無視されるべきものではない。
Olivier Messiaen - Saint François d'Assise, Act II (1983) (English Subtitles)
参照:
行動食、濡れティッシュなど 2023-06-03 | 文化一般
巡礼初日に向けての衣装 2023-05-25 | 音