新制作「アシジの聖フランシスコ」初日について備忘録。一部冒頭から、その舞台奥に位置する管弦楽は御簾の後で指揮者の前に三人のシロフォン奏者が広がる。これだけでこの一部終了後の尋常ならざる聴衆の熱狂が導かれる。
つまりこの曲の最大の問題点であるその細かなリズムの核をこの三人のソリスツが指揮者と共に舞台上に収まらない120人の大管弦楽を律することになった。これだけで指揮者エンゲルが与えるリズムの妙味が音楽を明晰にすることになり、初演の小澤の天才的ながらある意味一本調子なそれを超える演奏とした。個人的にも喜ばしい以上にその音楽は直ぐにカトリックの確信へと進んで行く。
その前提として、演出家アナゾフィー・マーラーのヨゼフボイスのウサギを使った演出は、その歌詞内容と音楽的な主題の反復の意味を際立たせた。一景「十字架」でも如何に宗教的な意匠を避けて舞台とするかがこうした芸術には求めれるとしている。その一方、管弦楽を舞台奥にすると、オペラであるよりもこの作品自体が有しているよりオラトリオ的な特性をと演出家は語っている。つまり、中世の受難劇などがモデルとされる。
その歌詞は冒頭から、つまり作曲家メシアンが自ら編集したカトリック文学から編集したものであり、「完成された悦び」はどうしたものであるか、つまりそこには苦しみや痛みがないと至れないと教えることになる。光に対して夜への恐れが語られる一方、舞台前面に横たわるボイスのウサギの死体と紗に拡大されて映されるウサギがそこにある。
それは死であると同時に私たちはその肉体に想いを馳せ、「このウサギにこの情景を説明す方法は如何に」の有名な言葉が今回のプログラム冊子にも呈示されているように、その肉体はとなる。
キリストにおいても十字架に朽ちて初めて復活することで永遠の生命となる様に、それに値する価値があるのかどうかへの自省となり、可能な出来ることをするのが使命という結論へと結びつくのかもしれない。
人を愛する者のみが赦されると、カトリックにおけるモットーが謳い上げられて、十字架を背負う者がこそがという、我々もそのウサギのように肉体化されているものでしかないということが示される。(続く)
参照:
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
下向き▼の意味合い 2023-05-23 | 文学・思想
つまりこの曲の最大の問題点であるその細かなリズムの核をこの三人のソリスツが指揮者と共に舞台上に収まらない120人の大管弦楽を律することになった。これだけで指揮者エンゲルが与えるリズムの妙味が音楽を明晰にすることになり、初演の小澤の天才的ながらある意味一本調子なそれを超える演奏とした。個人的にも喜ばしい以上にその音楽は直ぐにカトリックの確信へと進んで行く。
その前提として、演出家アナゾフィー・マーラーのヨゼフボイスのウサギを使った演出は、その歌詞内容と音楽的な主題の反復の意味を際立たせた。一景「十字架」でも如何に宗教的な意匠を避けて舞台とするかがこうした芸術には求めれるとしている。その一方、管弦楽を舞台奥にすると、オペラであるよりもこの作品自体が有しているよりオラトリオ的な特性をと演出家は語っている。つまり、中世の受難劇などがモデルとされる。
その歌詞は冒頭から、つまり作曲家メシアンが自ら編集したカトリック文学から編集したものであり、「完成された悦び」はどうしたものであるか、つまりそこには苦しみや痛みがないと至れないと教えることになる。光に対して夜への恐れが語られる一方、舞台前面に横たわるボイスのウサギの死体と紗に拡大されて映されるウサギがそこにある。
それは死であると同時に私たちはその肉体に想いを馳せ、「このウサギにこの情景を説明す方法は如何に」の有名な言葉が今回のプログラム冊子にも呈示されているように、その肉体はとなる。
キリストにおいても十字架に朽ちて初めて復活することで永遠の生命となる様に、それに値する価値があるのかどうかへの自省となり、可能な出来ることをするのが使命という結論へと結びつくのかもしれない。
人を愛する者のみが赦されると、カトリックにおけるモットーが謳い上げられて、十字架を背負う者がこそがという、我々もそのウサギのように肉体化されているものでしかないということが示される。(続く)
参照:
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
下向き▼の意味合い 2023-05-23 | 文学・思想