Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ポンコツよれよれ引退?

2018-08-17 | マスメディア批評
血圧が上がったようだ。診療椅子に座って踏ん張ったので腰も具合が悪い。抜歯への道が無ければ意気が上がったのだろうが、透過している筈のレントゲンすら焼けて暑苦しく感じる。心理的な影響が大きい。そこに夜中のメールで仕事をすると最悪だ。朝一番に走れなかった。

しかし親知らずの抜歯が2013年だったから、二年後の2015年に軟骨を噛んでレントゲン、それと今回のを比較した。そして炎症領域が広がってきていて死亡宣告となった。それも二本もである。しかしそれでも2013年以降今が一番調子が良い。心理的には2014年頃が一番良かったかもしれないが、調子は今が一番良いのだ。如何に歯科の治療でさえ完全に治すのが難しいかが分る。だから私は医者に掛からないのである。なるほど先先に手を打っておけばこのようにならなかったともいえるが、結果はそれほど変わらないのではないか?

ガンの治療においても議論されるところだが、不治の病なら猶更、歯科でもこのようなものであるから病気の種類によっては、そもそもQOLが優先されるべきであろう。特にガンの場合もなにも気が付かずに健康に感じていたならばそれに越したことが無い訳なのだが、やはり少なからぬ影響は感じるものなのだろう。しかしそれ以上に心理的な病宣告の方が大きいような気もする。

ルツェルンまで二週間を切った。これのお勉強を片付けて行くことで落ち着きたい。先ずはDLしていなかった「死と変容」と「ラぺリのためのファンファーレ」を落とす。これで二日間の楽譜はフランツシュミット四番のフルスコア―以外揃った。キリル・ペトレンコが二日間のコンサートを通して聞かせるのはザルツブルクが初めてで、それにこのルツェルンが続く。恐らく客演しかしていなかった交響楽団でこうした表現方法は取れていないので初めて世に問うのではないかと思う。この辺りも全体像を観ながら一曲一曲も洗っていかなければいけない。更にズームアウトすると、「マーラー交響曲七番」、「マイスタージンガー」が外枠となっていて、その間に「指輪」や「パルシファル」が嵌め込まれている。残り時間を考えるとそろそろ泣きべそをかくようになる。

ザルツブルクからのマティネー中継を聞いた。ムーティ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏だ。予想通りポンコツ楽団ぶりを披露していた。指揮者が悪いのか楽団にやる気が無いのかは分らない。それにしてもこのコムビには馴染みがあるだけに、その指揮の鈍重さには驚くばかりだ。嘗てはこの楽団のリズム感の中で活き活きとした音楽を奏でていた。やはり年齢的なものだろうか、そしてシカゴでは常任という事でそこがカヴァーされて隠されているのが分かった。シカゴでの同じシューマンの四番も全くよくなかったが、この二番演奏の終わりに「ブラヴォー」の声を出すのはサクラ以外にはファンクラブしかありえない。バーデンバーデンの「オテロ」を断った理由はこれだったかもしれない。「レクイエム」の指揮が心配になって来た。後半のシューベルトも聞くと、完全によれよれになっているので、よほど体調が悪かったのかもしれない。このままなら引退も近いのではなかろうか。もしそういうことになったならば、ペトレンコに一部歌手を替えて「ミサソレムニス」を振って頂きたい。それにしても「オテロ」はどうなるのか?ムーティもそろそろランランと同じように招き猫になって来ているのかもしれない。今もっともギャラの高い指揮者であろうから、儲けは其れであまり出ない筈だが、売り切れていなかったというだけで関係者皆ショックだったのかもしれない。

さて金曜日からの放送予定表を作っておかないと分からなくなる。先ずは、ルツェルンから20時15分にオープニングコンサートの後半のYouTube中継開始である。そして土曜日2時からボストンからの中継でショスターコーヴィッチの交響曲四番。翌土曜日の19時30分からは「ポッペアの戴冠」となる。最後のは本年ザルツブルクでの音楽祭の頂点と言われていて、予想通り程度の高い演奏がなされているようだ。大劇場でアーノンクール指揮でこの作品を体験した時はまだもう一つ分っていなかったかもしれない。今回はベルギーのバレー団の露出もあって、その作品に相当するだけのエロがあるので、お試しで映像も20日に試してみようかとも思っている。それにしても初日に現われる女性はメイ首相ではないか。欧州人気取りで何とも厚かましい。

日本のNHKは上手く行かなかったと言われる「スペードの女王」の映像制作に公共料金を費やしているが、そもそもある程度結果も予想出来ていた。その映像化で興味深いのは昨年度の評判の悪かった「ヴォツェック」が商品化されていることだ。放送も中止されたぐらいだからよほど指揮者のユロウスキーがダメ出ししたのかと思ったら、製品化である。よほどの修正が必要だったのか、恐らくその辺りの事情があるのだろう。



参照:
Video: Jan Lauwers: Claudio Monteverdis Oper "L’incoronazione di Poppea" (ARD)
満期ご奉公御免まで 2018-08-03 | 雑感
針が落ちても聞こえるよう 2017-10-17 | マスメディア批評
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あまりにも忍びない

2018-08-16 | 生活
歯医者に行った。清掃は全く問題なく少しだけ痛い思いをしたが三年ぶりとしては天晴だった。但し歯石で炎症を起こしていたという事で、定期的に来いと言われた。磨き方も真っ直ぐではなく歯茎からブラシを斜めにする感じでやれと言われる。人が変わって若返ったのは嬉しい。しかし肝心の炎症の方はレントゲン結果で隣にも広がっていて悪くなっているという評価だった。確かに黒い部分が広がっている。

歯医者からすると、売上の上がるインプラント治療には早めに二本抜いて一年掛けて完了させたいので、急かされる。対案として四つ被せるブリッジで、これならば二ヵ月で治療完了となる。いずれにしても時間が無い現在、計画も経たないので、年始位に考えるという事にする。双方とも、価格は除いても長短有りそうで、やはり治療過剰のようなことはしたくはない。勿論二者選択可能なのは良いことであるので、ある程度早期の判断は必要となりそうだが、結局現時点で痛くも無く好転しているかに見える歯を抜くのは忍びない。そしておいておけばやはり炎症から痛みが出て来るというのならば、そこまで待つのも自然だ。自身注意しておいて、問題個所の歯がぐらつくとか出血とか、または右の鼻に影響が出て来るとかの様子を見るのが良いかと思った。問題を抱えたままなので嫌だが、もう少し時間稼ぎするのも悪くはない。そもそもインプラント治療は全く容易ではなさそうだ。先ずは掛けた歯の尖っているところを研いで貰った。

FAZが保養地パルムに出かけて報告している。そこの祝祭管は一月に既に欧州ツアーを建国百周年記念として行っていて、来年四月には日本旅行も計画されているらしい。そして既に書いたように、ナショナリズムが表に出されているのは間違いないようだが、プログラムなどが当地からの西ノ海沿岸の国々を代表しているようで、隣り合わせのロシアとの繋がりも管弦楽団として存在している。その最たる歴史として、主催者のパーヴォ・ヤルヴィが10歳の時に保養中のショスタコーヴィッチと出会ったというのもここの看板なのだろう。

音楽に関しては、先ず会場が千人規模で小さいことから室内楽的に広げて行っても飽満するほどで、ロンドンで披露したその通りだ。水曜日はエリプフィルハーモニー公演であるが、これも何れ批評が出るだろう。本拠地ではレオンスカヤが力強い演奏をしたようだが、コーダーでのフルートからの終わりにその民族的なものが示されたとしている。まあ、我々からするとライプチッヒに学んだグリーグの音楽として違和感もあるのだが、彼らの感覚からするとああなるのか?正直ノルウェーの感覚からは大分遠いと感じる。

楽団自体は、コンサートマスターとしてパリ管のフィリップ・アイシェ、ブレーメンからマテュー・ハントのクラリネット、フランクフルトからホセ・ルイス・ガルシアのオーボエなど各地のソロ奏者が核になっていると個人の特定こそは出来なかったが全てプロムで聞き取れた通りだ。

ルツェルンからメールが入っていた。指揮者交代のお知らせで、私が残券を購入してから丸4日経過していた。断り書きを考えていたのか、様子見をしていたのかは分らないが、ハイティンク指揮のマーラーの九番の紹介が踏み込んだ文章で驚いた。

ベルナルト・ハイティンクは、約三十年間華麗なコンセルトヘボー管弦楽団のシェフとして君臨して、特にマーラーの交響曲で注目を集めました。そして九十歳になる今、引き寄せられる第九番をもう一度ルツェルンでご披露します:自ら完成した最後の交響曲。若きアルバン・ベルクは、熱狂して敬愛した作曲家の作曲した最も素晴らしい作品と見做していました。別れのへ悲哀の調べは、同時にもう一つのよりよい世界へと開かれているかに響きます。マーラー自身そのスケッチに「ああ、青春の日々、過ぎ去った時、ああ愛、書き込んで、通り過ぎたもの」との叫びを記しています。そして、「さようなら、さようなら」と二回繰り返す。ベルナルト・ハイティンクは、ルツェルンのこの夕べを長年のマーラーの音楽の総決算と致します。昨年ロンドンでこの曲を指揮した際、ガーディアン紙は「この作品に、これほどまでに愛情を持って労わりつつ、あまりにもの人間性に導かれた指揮者に並ぶ者はいまいと」と認証していました。

ここまで踏み込んだ売り文句は初めて見るが、売ろうとして思い付きで書いたというよりも思い入れが凄い。スイスに宇野功芳は知らないが、それに近い。音楽祭と指揮者の関係からするとまんざらこの煽り文句のようなものも必ずしも遠からずということなのだろう ― 当面マーラーは指揮しないのだろうか。勿論熱心に券を求める我々のような者は大なり小なり同じような感慨を抱いているのである。



参照:
組み込まれる経済プラン 2018-08-15 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
呪術から抜けられずに 2018-08-12 | 文化一般
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組み込まれる経済プラン

2018-08-15 | 文化一般
森の中の気温はそこそこだった。陽射しもあったので汗を掻いた。再び夏日和というが、一番都合がいいのは、猿股Tシャツで風も入れながら室内で仕事をして、夕方は遅くならないうちにバルコンでアペリティーフに続いて食事という感じだろうか。山道を走ると深い溝が出来ていた。豪雨が降ったようだが、直線距離で数キロの我が家ではなかった雨量のようだ。足の置き場に困って走り難かった。

帰りに開いているだろう洗濯屋に寄った。しばらく休んでいたので、前の奥さんは16枚ものシャツを渡していた。「出来るだけ早くないと着るものに困る」と希望日について答えていたので、「それはそうだろう」と思わず口が出た。人によって数は異なるだろうが、二週間ほどでの数としても多く、そもそもそれだけの数を持っているのが凄いと思った。色とりどりで、暑い季節にしても毎日着替えているのだと分かった。この夏休みの時期でも外回りかよほど暑い職場で働いていたのだろう。奥さんの雰囲気からすれば45歳過ぎの人だと思う。

ロイヤル・アルバートホールからの放送を聞いた。エストニアの祝祭管弦楽団公演だった。先日まで地元でやって来た仕上がりのお披露目らしい。寄せ集めで若い人も入っているというが、核になる奏者はブレーメンやそこらからの助っ人のようで腕のある奏者も入っているようだ。だからあれっと思うような巧さもあるが、やはりテュッティーで鳴り切らない。最近は未知の東京の管弦楽団の評判をそこに重ねてしまうのだが、その絶賛を差し引いてこの程度は可能か可能でないかと想像してみる。

先日YouTubeでの都饗での感想は、マーラーの交響曲になるとモーツァルトでは感じなかったやはり全体の鳴りが問題になってくる。一番致命的なのは管弦楽全体が大きな息を付けないことで、これは指揮者の技量にもよるかもしれないが、常任でないギルバートほどの経験があればそれを直すにはどれぐらいのどのような関係でないと駄目かが分っている筈だ。管弦楽団の実力という事になるのだろう。恐らく具体的には和音を下から積み重ねるところでのバスラインがしっかり刻んでいるかどうかで、そこに管楽器や中声部がどのように絡んでくるかでサウンドが出来るのだろうか。

そうしたサウンド以前に一体として全奏が上手く鳴らないとグスタフ・マーラーの交響曲などは幾ら演奏しても無駄である。その意味から上の祝祭管弦楽団がテュッティーで鳴り切らないのは当然で、それを補うようにしてピアニッシモの最弱音で聴衆を魅了するような戦略だった ― 皆一様に日本で指揮するとお勉強するらしい。それは大当たりして、ピアノのアンコールを含めて三曲もアンコール弾かれる大成功のコンサートとなっていた。

そもそもルツェルンなどのその水準は期待出来ないので、恐らく商業的には既に出来上がっていると認識しても間違いない。それを軸にして如何に世界の注目を集めて、地元経済に貢献する音楽祭の核になる準備は出来上がっているのだろう。アルヴォ・ペルトの曲はあれで致し方が無いが世界中に支持者もあるので、音楽祭の顔なのだろう。グリークやシベリウスなどの親近性を売りにしたいようだった。要するに民族主義的なアピールも基本方針のようだ。しかしそれはここでは売り要素になるが、指揮者本人には世界市場では邪魔になるに違いない。要するにイヴァン・フィッシャー程度のキャリアならそれでよいのだが、民族性が強く出るようになるとその上には行けない。

ハイティンク指揮のコンサートのティケットがまだまだ動いていない。なるほど安い席は20席以上が残り三席だけになったが、全体の動き方は気が付くほどではない。如何にガッティ指揮では売れていなかったか。そもそもグスタフ・マーラーの交響曲をコンセルトへボー管弦楽団が演奏するとなるとスイスでは飛ぶように売れるのだが、如何にMeToo指揮者への期待が薄かったかを如実に表している。そして突然の交代で御大が出て来て、恐らくこの管弦楽団では最も期待されるプログラムとなったのだが、気が付いていない人の方が多いのかも知れない。なるほど我々のように首切り発表からその後の進展を楽しみにしているような人間は特殊だろう。二週間先のワン、ペトレンコの方は掃けるだろうが、三週間先のこちらは難しいかもしれない。折角だったら満席になって欲しいと思う。

座ったことは無いが、舞台後ろの席は結構高い位置にあるのにも拘らず価格が上位なので、音響的にはましなのだろう。それでもコンセルトヘボーやベルリンのフィルハーモニーのように壁がなかったりではないので、何処までの臨場感があるものだろうか。音響と言えばエルブフィルハーモニーの音響の批判を読んだ。一杯になっても響き過ぎて、演奏者も落ち着いて聞けないようだから、やはり放送で気が付いた音響上の欠陥が存在する。何処でもやるように建築資材が落ち着く二三年してから修正しないと駄目のようだ。修正の休みまで経済プランには組み込まれている筈だが。



参照:
濃くなる縦波の密度 2018-08-14 | 音
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評
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濃くなる縦波の密度

2018-08-14 | 
寒くなった。車内温度を19度に設定しているのでヒーターが効くが、雷雨が予想されて、生冷たい風が吹くと肌寒い。久しぶりの厚めのTシャツを取り出した。一月以上薄いTシャツなどしか着れなかったからだ。ジーンズに履き替えて、猿股を洗濯とする。湿気が50%ほどあるので快適ではなく、夏の疲れが出て来る。ここ暫く居眠りがちな時間が少なくなかった。洗濯ものが乾きにくいかもしれないが、まだ気温が摂氏20度を超えるので大丈夫だろう。

歯医者に出かける前に身体状況もメモしておこう。気候の影響もあるかもしれないが、左上歯茎の炎症が収まってくると、右の鼻の奥もより大人しくなった気がする。要するに殆ど分らないぐらいになっているのだが、時々違和感もある。歯茎から炎症が無くなると鼻も完治するのかもしれない。全身に与える影響も少なからずあると思うので期待したい。

その他では、右足の親指の付け根が痛くて歩けないぐらいになったが、駄目かと思って走ってみると治った。そして椅子に座っていると同じように痛くなった。左手の指先が痺れるのも机の高さまで左手を上げて体を捩じっていると痺れる。どうも座業の弊害のようでもある。

ルツェルンの準備の為に先ずは古いべルリナーフィルハーモニカーの録音を聞く。SPのCD化されたもので、DGの古い録音が集められたものだ。1927年から1943年前の録音が並べられている。私達にとっては実際に体験したことの無いサウンドで、当時一体どのように鳴っていたのかの貴重な資料となっている。一緒に収められているクライバーのシュターツカペレなどの豊穣のサウンドと比べると如何にも骨皮のような印象を得るが、その傾向は今でも座付き楽団と交響楽団と差異であり、しばらく聞きこむと如何にシュターツカペレとはいいながらリズムを刻むとジンタになってしまうのだ。これは致し方ない。現在もその傾向は全く変わらない。

ニキシュ指揮の録音は有名だがあまり分らなかった。想定以上に良かったのは1924年録音のブルーノ・ヴァルター指揮の「フィンガルの洞窟」で、録音の制約に拘わらず明確なアーティキュレーションでダイナミックスも正確に付けている。その読みの明確さが意外にキリル・ペトレンコにも共通する。勿論バッハにも影響されている古典的なメンデルスゾーンであるから低声部の発音も歯切れが良い。クナッパーツブッシュ指揮の「ヴァルキューレの騎行」が1928年録音である。やはりこの人の指揮は劇場向きな印象で、それほど上手く行っていない。

さてフルトヴェングラー指揮は1935年録音で「魔弾の射手」序曲で流石に低声部から中声部へとコントロールしている。そして1942年録音のフォン・カラヤン指揮「ツィゴイナー男爵」と比較できるようになっている。驚くのは客演でも完全にカラヤン節が聴かれ、問題の低音のにじみを上手く使っている。そして気が付くのはまさしくそうしたサウンドこそは座付き管弦楽団の妙を機能化したものだという事だ。まだ完全に完成していないからそれが分かったのだ。名録音と誉れ高いフィルハーモニアでの一連の録音では全く消されてしまっている過去の軌跡ではなかろうか。

勿論私たちが今キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのサウンドとして期待しているのは、交響楽団としての立派な響きであり、メローな座付きサウンドではない。引き続きフルトヴェングラーのSP録音から運命交響曲を聴いていきたい。七番交響曲の響きがどのようなものであるべきかの示唆がそこにあるかもしれない。兎に角、フルトヴェングラーのそれは拍の頭のアインザッツから次への落とし方が本懐であって、そうした音の密度の縦波が和音のグラデーションとして鳴ることをして和声の機能としていたので、カラヤンのようなずらしは無かった。ペトレンコが振るとその精度が三倍にも四倍にもなる為に演奏精度もそれ以上に高くなる。一度の本番では中々到達不可能な領域である。

今時大管弦楽団のベートーヴェンが本質的な関心を持って演奏されるとは思わなかった。少なくとも戦前の新生交響楽団の名声を取り戻すだけの成果は期待はしたい。それ程バーデンバーデンでのラトル指揮のそれは無意味な演奏行為だった。フランツ・シュミット4番交響曲の晩は大分掃けたがそれでもまだ余っている。四月とは比較にならないほどの名演が体験出来るのに惜しい。



参照:
歴史的年度になりそうだ 2018-08-10 | 暦
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活
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小さなライン大きなワイン

2018-08-13 | 雑感
森の中は清々しかった。ディスプレーが不調なので自信は無いが、摂氏10度であってもおかしくは無い。だからとても走り易かった。陽射しがあっても涼しいという事はやはりその気温だと思う。しかし街道筋に戻ってくると17度に戻っていた。

前夜のザルツブルクからの中継はおぞましかった。今年から「再びザルツブルクへ」と検討した時もこの「サロメ」の上演は気になっていたのだが、このポンコツ座付き管弦楽団には呆れた。つい先日あれほどまでの演奏をコンサートで繰り広げ、ネルソンスよりも大物のヴェリサーメスト指揮でこんなにポンコツな演奏をするなんて想像もつかなかった。いつもの誤魔化し演奏術だけでは事足りず、これならば楽譜に小節線もなにも要らないと思った。指揮者のメストもあれほどまでの演奏をクリーヴランドで披露しておきながら恥ずかしくないのかなと思った。なるほど一部の遅いテムポなどは効果を出していたが、お話しにならなかった。これならば彼が指揮するコンサートもあまり期待できない。ネルソンスとの指揮の技術の差はあったとしてもこれは無いと思うほど、この楽団とのずぶずぶの関係を感じた。

カステルッチの演出もMeTooを意識した演出のようだ。少なくとも自身も気をつけている感じで、あまりこれからの歌手にも誰にも無理はさせられないと考えたのだろうか?露出度はタンホイザーに及ばなかった。兎に角、物足りなかった。演奏と合わせてこれならばもし出掛けていたとしたらブーイングものだった。短い劇であり、休憩も無いのならもう少し集中力の高い公演にして貰いたいものだ。つくづくザルツブルクくんだりまで出かけていないでよかったと思った。

嘗てザルツブルクでのフィルハーモニカーの出番が過密過ぎて、他の楽団と分け合った時代があった。今は再びフィルハーモニカー公演が増えて、その質が変わってきているのは想像出来る。恐らくヴィーンでの上演程度までその上演の質が落ちてきているのだろう ― ベームやホルスト・シュタイン指揮の「アリアドネ」はこんな程度では無く、マゼール指揮程度にも到底及ばない。夏季休暇の間にこれだけ仕事をしているというのが尋常ではない。本年も月末のべルリナーフィルハーモニカー公演待ちという声が強いが、結局ザルツブルクはじり貧になっている印象である。

この乾いた暑い夏の葡萄についての記事が出ている。ことわざ「小さなライン、大きなワイン」がキーワードだ。水量が下がって河幅が狭くなり、ワインが立派に実るという事だ。そして、単純なワインや所謂ノイヤーヴァインなどの本格的なワインではないものの、急いで造って飲み干すものとして需要も高まり、早く摘み取ってしまえるのだ。それに対してリースリングなどは、出来るだけ葡萄を置いておいて一番良いのは十月に入ってから乾いた日が続いて朝晩が冷えるときに摘み取れるものが経験上最も素晴らしいリースリングとなる。

しかし今回は7月30日に糖比重が25度となり記録となった。あの暑い2003年を三日早く記録して、2011年の記録を打ち破ったようだ。つまり、そこから葡萄が熟していくと酸が分解して熟成へと近づく。リースリングは遅いとしても月末には熟成領域に至るであろう。問題はたとえ朝晩の冷えるといっても10月程度まで冷えるかどうかである。それほど冷えないと難しいだろう。もはや2003年は忘れられ、その次に来る2007年、2011年もあまり価値が無くなっていると書かれている。私個人的にはその双方の瓶熟成の可能性を特に前者を期待している。

そして皆が期待するような赤ワインは、来年の試飲で失望するのではないかとしている。つまりシュペートブルグンダーはあまりにも力強くなって、繊細さが無くなるというものだ。これも造り方によるのではないかと思う。



参照:
知らなかったなどとは 2018-08-08 | マスメディア批評
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活
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呪術から抜けられずに

2018-08-12 | 文化一般
歯医者の予約を取った。前回は2015年のようで軟骨を齧って歯がぐらついたのでセメンのブリッジで固めた。そこの炎症が続いていたが、歯の一部が欠けたのが四月だ。その後炎症は好転していったが、漸く歯がしっかりしてきた。この機会を逃せない。レントゲンを掛けて要らないが、これで抜くとは言い出さないだろう。少なくとも好転していることは間違いないから、クリーニングに耐えられるぐらいならば、整形的手当てをして貰えると思う。少なくともそれで暫くは問題が無い筈だ。

スター指揮者をペテン師にしてしまった。関心を持っていても、恨みは無いので、客観的な評価をしている心算だ。だから客観事実次第で直ぐに評価を変えても全く苦にならない。しかしソニーのアーティスツ選択は不愉快だ。昔ビジネスモデルを使いながらエンターティメント領域での方法をそのまま転用することは構わないが、どうも選択するプロデューサがその世界の人であるような趣だ。そもそもビジネスモデルが使い物にならないうえに、能力の無い人間がプロジェクトしているとなると悪でしかない。

同じように客観的に判断するとヴェテラン指揮者ベルナルト・ハイティンクの録音などには苦情するしかなかったが、兎に角、生でその指揮した音楽を体験しないと分からない効果もあるだろう。特に和声の移り変わりのようなところで特別な効果を発揮すると予想している。そもそもコンセルトヘボーの名物は、弦楽器間のその受け渡しなので、上手く行けばと今からぞくぞくする。だから九月が楽しみなのだ。それでもアムステルダムまで行って期待外れとなると恨み節も出ようが、ルツェルンならば他の仕事も組み合わせれる。

MeTooガッティの代役に、二つの出し物から一つを、老マエストロが受け持つことになった。期待通りだったが、もしかするとブルックナーの指揮かとも考えた、結局マーラーの最晩年の第九交響曲となった。五月にコンセルトヘボーで返礼中に倒れたことから最終日はキャンセルされたので、アムステルダムでは雪辱となるのだろう。作曲家の晩年の心臓の鼓動が表現されたような曲想に自分の体験が重なるのだろうか。

幸運にも、もともと七番交響曲が組まれたプログラムのルツェルンでの売れ行きは芳しくなく、下から二ランク目の二列目も余っていた。それで手を打とうかと思ったら金券30フラン分があったので、もう一つ上を狙ってみた。150が120フランになる。サイドバルコンで一度試してみたかったが、あまりにも舞台横だったので止めた。本当にハイティンクが振るかどうかも少し気になった。それならば七番交響曲の方が月末の「マイスタージンガー」の勉強に合わせてよかった。結局80フランを50フランで購入した。これならば捨ててもよく、どんなにハイティンクの指揮が悪くても文句をつけるだけの価値もある。

それどころか月後半にはハイティンク指揮のブルックナーの交響曲を聞くことになっている。調べてはいないが、この老マエストロもブロムシュテットと同じようにルツェルン在住だと思うので。体力気力充分の指揮を披露して貰いたい。その指揮からマーラーよりもブルックナーの方が向いていると推測したが、双方とも聞けば楽団こそ違え最終的な判断が出来よう。マーラーの演奏の前には、ラトル指揮の「グルッペン」も無料でついてくるというおまけがあるので無駄にはならない。ラトルが尊敬する指揮者の演奏会だから間違いなく会場に現れるだろう。

ハイティンクの解釈は知らないが、個人的にはクック版の十番ほどこの交響曲は生で体験していない。理由はバーンスタイン指揮の呪術から逃れられずに来たからである。十番はシャイ―指揮コンセルトヘボーをここで、またラトル指揮バーミンガムでも体験しているが、九番はそれ以外に記憶が無い。

これで、九月末までに勉強する楽曲のリストが完成する。

シュトラウス:「ドンファン」、「死と変容」
ベートーヴェン:第七交響曲イ長調

デュカ:「ラぺリ」、「ファンファーレ」
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲ハ長調
フランツ・シュミット:第四交響曲ハ長調

マーラー:交響曲九番

モーツァルト:ピアノ協奏曲K482
ブルックナー:交響曲七番

ヴァークナー:「マイスタージンガー」

十年以上前からするとこのリストのポピュラーさに驚くばかりだが、少なくとも二十年前よりは月並みでないものが体験できることになっている。涼しくなったので本腰を入れよう。

中継放送予定を一望する。先ず、ペトレンコ指揮のベートーヴェンプロは、初日フィルハーモニー、二日目シュロースは映像共々、三日目は中継録音、五日目はプロムスで、四日目は生で体験するので、追っかけをしないでも全てを聴ける。シュミットのプログラムは、ルツェルンが映像とも、そしてプロムスとなる。さてどれほどの脚光を浴びる演奏会ツアーになるだろうか。ここまで公共の支援があるので商業的なメディアと一線を隔すことが可能となっている。



参照:
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
既に遅しとならないように 2018-06-27 | 雑感
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ペテン師野郎の指揮

2018-08-11 | 文化一般
夕方前から雨が降った。気温の差だけでもその風の強さは推測出来よう。前日までは38度とかの高温が続いていたが、流石に久しぶりのお湿りで空気が冷えた。翌朝の森の中は気温摂氏11度超えだった。室内に居ても羽織るものが必要だったり、寒くなった。猿股からジーンズに履き替えた。

2018年プロム36コンサート中継を聞いた。繰り返して聞くのは面倒なので初めから楽譜も用意していた。一曲目は「夏の風」と思っていたら作品10の有名な小曲だ。ヴェ―ベルンのこの曲は京都で小澤征爾指揮のボストン饗でも聞いていて、その後もブーレーズ指揮などで比較的生で接している。録音も全集の旧録音が馴染みだが、最近はクラフト指揮の新全集CDがいつもデッキの上に乗っている。様々な楽器に取り継がれる音色旋律とまでも行かない鳴らない曲であるので、生での経験が印象に強い。小澤氏は二回同じ曲を繰り返したが、ここではマーラーのアダージョに続くという企画になっていた。

エサペッカ・サロネンと称する指揮者は最初から作曲家でもあるという触れ込みで市場に乗っていたので最初から聴いていたが、今回音を聞くまで四十年間過大評価をし続けていた。それどころか日本では大喝采を受けていたので、とても期待していた。数年前に出されたシェーンベルクの協奏曲の伴奏が棒にも箸にも引っ掛からぬ劣悪なものだったにしても期待していたのだった。その理由にはバーデンバーデンの新監督がこの指揮者とのプロジェクトで成功していることもあった。

そしてヴェ―ベルンの最初の小節からして失望した。流石にミニュチュアーな創作であるから最初の拍からしてまともに音を出さないことには話しにならない。つまり一つの音符ごとにしっかりとした拍を出さないと意味をなさない。細かな指定一つも疎かに出来ないのは当然のことながら基本拍からして明白に打たれていないならばそれはオカルトでしかない。嘗てヴィーナーフィルハーモニカーが新ヴィーン楽派を録音し始めたころのその拍子感は独特だったが、それはそれなりに一貫したシステムなのでそれとは比較のしようがない。小澤の指揮がとんとん拍子や浪花節であろうがそれはそこの拍子感が面白かったのでもあり、コンサート空間に魅力ある生気を与えていたのは間違いない。この指揮者のそれも杓子定規なその見た目からするといかにも正確に打拍しているように誤魔化されるのだが、次のマーラーのアダージョなどで、そのいい加減さが明らかとなる。

対位法的な線を主に置く、MeTooのレヴァイン指揮でも敢えて言えばラサール四重奏団などの演奏などにも似ているのだが、その拍節が揃わないことと当然あるべき響きが定まらなく殆ど偶然のような響きしか出ないのがこの指揮者の管弦楽ではないだろうか。それでもそれが美しいと思っても、管弦楽団自体が正しい律動を刻まないことではダルな音響にしかならない。それに相当するかのように管弦楽団が下手なのだ。どうしてあそこまで日本で好評だったのか理解に苦しむ。偶々、アラン・ギルバート指揮の都饗の一番三楽章からフィナーレまでを観たが、その水準はフィルハーモニア管とならば甲乙はあるがそれほど変わらないというのが正直な感想だ ― こちらの批評は改めよう。

兎に角、アダージョでよれよれとしていて、この指揮者はテムポを維持する基本的な技能があるのかどうかが疑われ、それを誤魔化すかのように不可思議なアゴーギクが掛かるかと思うと、サウンド修正の段となる。楽譜を読み込むのとは違って、丁度ポップスのトラックダウンをするディレクターのようにつまみを捻って試してみて「うん、気が利いたサウンド」とか「パンチの効いた一発」とかいう感じで鳴らそうとするのだが、残念ながらこの管弦楽団はロスフィルでもなく況してやシカゴシンフォニーでもない、するとお粗末な音程で何やらの雑音を奏でる。音楽のフォームが壊れて、響く爆発音はただのポストモダーンサウンドだ。恐らくその野卑なのが一部のファン層に受けるのだろう。結構、しかしそれは創作とは何も関係が無い。

今でも如実に目に浮かぶのが、「グランマカーブル」公演後のリゲティの不機嫌な顔で、私は当時演奏スタイルや解釈が気に食わないから腹を立て、この指揮者をリゲティプロジェクトから追放したのだと思っていた。しかしこうして聞いてみると作曲家が腹を立てていたのは、この指揮者のペテン師紛いの指揮活動だと分かった。そして一部の録音を受け持った指揮者ノットがトンでもない「ロンターノ」をベルリンで録音するという如何にもソニーらしい制作が完成したのだった。

自己弁護すればこの指揮者の演奏は十代の時から眉唾ものだと気が付いていたが、その後も何回か実演を経験していて、お恥ずかしいことにバーデンバーデンに迎え入れようとしていた。ゲルギーエフ指揮も絶対出掛けないが、そもそもクラスが一つ以上違う。二流と三流の相違は職業の基礎があるかどうかだろう。



参照:
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音
三段論法で評価する 2017-02-28 | 文化一般

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歴史的年度になりそうだ

2018-08-10 | 
散髪屋に行った。早めに行ったつもりが既に二人ほど先客がいた。九時ではなく早めに開けたのだろう。それでも直ぐに空いている椅子を勧められて、隣の美容師さんが手が空くのを待っていると、背後のおばさん美容師がやって来た。「決まった切り方がありますの」と聞くから、隣の姉さんに助け船を出して貰いたかったほどだ。一番そのお姉さんが気に入っていて、信用している。それでも前回切って貰った他の人のも素晴らしかった。素晴らしいのはそれほど形が崩れずに、この暑い期間を伸び放題で過ごせた実績があるからだ。髪が薄くなったのだろうかと思うぐらい、うなじも寝ずに上手く風通しが悪くはならなかった。

最初の頃は街道沿いの店に行っていて、おばあちゃんが戦中からこてを使てやっているような美容院だったので、息子は完全な散髪屋タイプだった。だから繁盛していたころには若い美容師さんが居てもそれほどの腕は無かった。おばあちゃんが刈ると如何にも昔風だった。その点今の店はマダムは腕が無くても、採用する美容師さんたちは皆最新の技術を持っている。そのようで、比較的誰がやっても考えながら形を作る。

今回のおばさんは、横にバリカンを大胆に入れた。この髪型では初めてなので、鏡を見て驚いたが、直に伸びてしまうから形がいつも問題になる。但し伸びても上手く伸びて呉れれば嬉しい。確かに若い女性でもサイドにバリカンを深く入れているのは見るが、どうなることだろう。兎に角前回は最後までよかった、さもなくばこの二週間の床屋の休み中に鬱陶しさで発狂していただろう。そして短くするとやはり気持ちいいい。それでも思ったほど全身が冷える訳でもなく、頭も冷却までは行かない。それにしてもおばちゃん可成り思いっきりやったと思う。

雷雨を待っている。そしてお隣のラインヘッセン地方では月曜日からワインの摘み取りが始まったという。土地柄ブルグンダー種であることは間違いないが、記録的な速さで数週間早い。リースリングも八月中の摘み取りがあるだろう。ここで雹に遭うのは得策でないとすれば、酸が分解したところで安物のリースリングは摘み取れれるだろう。質も悪くは無いのは朝晩の冷えで明らかだ。さて高級リースリングがどうなるかだけである。

8月25日のベルリナーシュロ-スでの野外演奏会がrbbで中継される。時差ライヴ放送である。rbbはローカル局なのでそれほど観ている人は居ないが、ネット配信されているので、楽しみである。rbbは山本太郎参議院が原発取材で訪れた番組をオンデマンドで観た覚えがあるが、ライヴ放送を日本から見るのは難しいかもしれない。当日はドイツアルパイン協会会員在籍二十五周年の会への出席の返事を保留していた。しかしこれで、もしこれにラディオ中継放送が入っても、夜9時30分に帰宅していれば、録画も時差があるので問題ないと分かった。この演奏会は前日のフィルハーモニカーでの初日よりも歴史的な価値を持つと思う。そもそも初日にはあまりいい演奏はしない。ペトレンコ指揮の管弦楽の常である。だから初日よりもこの二日目、それよりもザルツブルク、ザルツブルクよりも四回目のルツェルン、そしてプロムスなのだが、これは音響上何とも言えない。

しかし先日聞いたドイツェスレクイエムなどの中継放送の音響は決して悪くは無かった。会場よりも放送の方が良いのかもしれない。私は指揮者に向かってしか聞いていないので判断はつかない。そして木曜日の「ワルキューレ一幕」である。聴き所は、フィルハーモニア交響楽団の演奏の質とミュンヘンの座付きとの比較、その間でサロネンとペトレンコの指揮の相違はなになのかを明確に聞き分けることである。サロネンは四十年間の間に少なくとも三回は聞いていて、前回は二十年前だった。放送等でも殆ど聞くことは無いのはヤンソンスと同じように、聞く前から分かっているからである。しかしバーデンバーデンの新支配人とサロネンは幾つかのプロジェクトを成功させていることから、今後は春のペトレンコ、夏のゲルギーエフと並んで、サロネンが秋か冬に活躍すると予想している。だから一度改めてその腕前を評価してみたい。そもそも今回のプログラムでも、マーラー10番アダージョ、「夏風の中で」と並べてあまりにも名曲演奏会になっていてひねりが無い。だからコンサートに行く機会も無かった。MeTooガッティのプログラミングとさして変わらないのである。

ニューヨークタイムズにミュンヘンとバイロイトを掛け持ちして感想を書いている。一流新聞と思って期待して読むと失望した。そもそも企画自体が味噌くそ一緒にするグロテスクなもので、ヴァークナーで括るだけの流石にニューヨークでしか通用しないものだろう。やはり音楽芸術的には後進国だ。なにか「指輪」に関して読んでいるとまるで後半の作品はよほど管弦楽が支離滅裂になるか、それこそゴタ煮の轟音しか出さないものとしか理解していないようだ。楽譜などはほとんど見ていないに違いない。「オランダ人」から「パルシファル」まで同じような音楽として聞ける人の耳を検査してみたい。どうもこの手の人はロマンティックなレガート過剰の演奏を期待しているようだ。



参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
Fuck you, everybody! 2011-12-06 | マスメディア批評
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噴水の水音に涼む

2018-08-09 | アウトドーア・環境
暑い夜をやり過ごした。明け方おかしな夢を見ていた。北欧のどこかの立派な首都らしき旧市街の中心部でしけこんでいるのだ。劇場で出合った女性のようで、その近くに住んでいる。引けてから同伴帰宅となった。食事などを済まして、それならば「うちに泊まる」という事でいそいそとついていく。それほど魅力的でぴちぴちした女性ではなかったが、ちょっといいところがあったのだ。住まいは古い大きな家の屋根裏の広いスペースで、どうも共同生活しているらしく、他のカップルなどにも挨拶をする。

部屋に招き入れられるや早々、大きなダブルマグナム以上の瓶にシャンパーニュが入っていて、それを移して飲むようになっていた。尿瓶を印象させた。先ずはお国のそれを試してみたいなと喉を鳴らしているうちに、そろそろ就寝時間だという事で、大きな部屋の床の上に布団が並んでいるような丁度山小屋のラーガーのようなところでという事になって、彼女はシャワーを浴びて来るというのだ。こちらは、先のシャンパーニュが気になっているので、グラスはどこに行ったのかと聞こうと思ったが、流石にここは要らぬ欲は出さないようにと我慢した。手持無沙汰なので窓から向かい側の劇場のライトアップを見て涼んでいると、夜更けにも拘わらず轟音を立てて市電が走って来た。

その市電が凄いのだ。その特徴はブレーキを掛けないことで極力エネルギー消費を抑えて、自然に優しいという首都名物になっている公共交通機関である。そして、劇場のある広場の方に下りて行く坂が急坂なのだ。急坂の途中で大きな川を渡る橋を越えている。そしてその迫力がジェットコースターどころではないのは殆ど機関車のような二連連結の重量ある列車なのである。軽量化しなくても慣性を生かすという事らしい。その振動というか轟音が途轍もない。そうこうしているうちに彼女が布団に入って来て、添い寝するかというところで目が醒めた。

夢診断する以前にこのストーリーのネタ元を考えると、記憶の深いところで残っている雑多な印象を繋ぎ合わせたものでしかなく、その女性の顔だけは分からないのだが、更に最近見た映像に過去の共産圏のあの重そうでその地響きの轟音などそのまま材料ともなっている。場所は比較的ドイツ語が使えたことから旧東プロイセンだと思う。十年ほど前に見た原発施設に乗り込む諜報員ものもカザフスタンかどこかで最終的にはトロッコのようなモノレールに乗って逃走するというものだった。よほどその方に潜在的な何かがあるようなのだが、解釈すれば文字通り「レールに乗った」キャリアーという事にもなるのかもしれない。夢判断的に解釈するとそうなのだろう。

その他の女性口説きの関係は、いわば「男たちの悪巧み」のようなもので誰と話した訳でもないが、ちらちらと先日来考えていた口説き術に準拠している。それでもワイン系のものに喉を鳴らしているのもいかにも飲み意地としか思えない。潜在意識に関連するレールが例えばロンドンのテューブのようなものでなく、地上若しくは空中というのも面白い。若干空飛ぶ系の夢想にも近いのだろうが、レールに乗っていてちっとも飛躍しない。それでも坂を下りてくるそれは殆ど離陸しそうな勢いだが、当然のことながら、有り得るのは脱線だけである。寧ろ怖いと思ったのは、考えてみればわかるように、ブレーキの無い列車が路面電車としてとんでもないスピードを出していることである。そこが恐怖だった。以前は空中遊泳ものだけでなくて飛行機ものもあったのにどうしたことだろうか。それにしてもまだまだご気楽な空想をしていて我ながら呆れる。

涼もうとしたのも予定ならば就寝前に雨が降って、もう少し涼しくなる筈だったが、風だけが強くて温度が下がらなかったからだ。目が醒めると気持ち良かったのは寝室にも小さく響く、広場の噴水の音だった。これも今年最後の涼しげさかと思いヴィデオと写真を撮っておいた。風が強いのと、明け方になるとちょこちょこと車が通るようになって静けさが少なくなってきた。上のような旧市街中心部の話しになるのも、まさしく自身の環境を反映していて、離れて一軒家であると庭で造らないと難しい。ワイン祭りの迷惑の反面、こうした公共の恩恵を受けれるのが嬉しい。明日は散髪屋再開だ。朝一番乗りできるかな?今年最後のサマーカットである。

雨降りが予報されてそれまでに走ったが、結局全く降らなかった。これは少し痛い。明日は是非お湿りが欲しい。雨量は限られているようだろうが、全くないよりはマシだ。



参照:
悪夢の特命潜入員 2005-09-01 | 雑感
オージーの天狗裁きの朝 2016-12-22 | 生活
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知らなかったなどとは

2018-08-08 | マスメディア批評
暑さの山となりそうだ。早朝の約束があって、前夜の睡眠も足りていないので、走らなかった。30%を超える湿気もあり、予想される雷雨が待たれるところである。それによって早朝の22度まで気温は下がり続ける予報である。その後は、最高気温30度程度で、最低気温は金曜日には16度、最高気温も25度となる。来週は完全な秋ではなかろうか。流石に暑くなったためか、あまり見かけない蝶が寝室の窓際の壁に張り付いていた。そう言えば今年は乾燥しているから室内で蚊を見かけたのは一度限りだった。

ルツェルン行の準備もそろそろ始めよう。宿は再確認するがやはり予約してあるものが一番なようで乗り換えるならば同じホテルでキャンセル無しの5ユーロ引きだ。どうしても考えるのは二泊した方が良いかどうかだが、ホテルで前夜の興奮を夜食の飲み食いで冷まして、朝食を摂ってからも11時ごろまで粘って、その後の過ごし方に注意すればよい。車をあまり走らせないでゆっくりしたい。どうせ帰宅は午前様となる。

音楽祭の新聞評などを見る。例年よりも関心があるのはザルツブルクの音楽祭だ。一旦は、今世紀に入って初めての再訪を検討した位だからである。昨年のピーター・セラーズの「ティトゥス」の印象も強かったからである。今年は、後半にクリスティー指揮などのバロックを残しているようだが、それにしてもなぜ今頃モンテヴェルディなのか分からない。恐らくザルツブルクでの売券の確実な出し物という事が優先されたのだろう。ざっと見た感じではやはり「ザロメ」の話題性が高いようだ。土曜日に放映なようで楽しみだ。カステルッチ演出の露出度にも期待するが、それよりもサロメ役の新人がとても評判で一日で大スターになったとされている。残念ながらライヴではなさそうなので、カメラアングル上のハプニングなども期待出来ない。だからオンデマンドを落としても映像に関してはそれほど変わらないであろう。ヴィーナーフィルハーモニカーをヴェルサーメストがどこまで振れているかも注目したい。

先日のクリーヴランドからの「トリスタン」は前夜に留守録までしておきながら忘れていて最後の三幕は始めが切れた。それでも最初の30分ほどは大した歌声もないので、ニーナ・シュテムメの愛の死だけは堪能した。メスト指揮のクリーヴランドの演奏は最初の驚きが最後まで劇的感動には結びつかないのは、バーデン・バーデンでのラトル指揮ともそれほど変わらない。それにしてもあのこの操り人形指揮に似つかわしくなくとても歌い口が巧い。余談だが、アンドリウス・ネルソンスが「復活交響曲」のメロドラマ形式に言及していて、多忙な割にはポイントをしっかり押さえているのは流石だと思った。

最も真剣に読んだのは、イゴール・レヴィットの演奏会評で、「ハムマークラヴィーアソナタ」へのリサイタル構成の全体が素晴らしかったらしい。放送はなさそうなので残念だが、ソロリサイタルは比較的身近で機会があるので、留意しておきたい。前回のラゼェスキーとのヴィースバーデンでのレートナイトも悪くは無かったが、ポピュラー曲のプログラムも一度早めに聞いておきたい。

八月に入ってからの初日では「スペードの女王」の評が出ていたが、これもヤンソンス指揮であるから、その出来はそれ以下でもそれ以上でもないことは初めから分かっている。「知らなかったなどとはいってほしくない」と謂わざるを得ない批判が出ている。一体ヤンソンス指揮に何を期待していたのだろうか?ヴィ―ナーフィルハーモニカーではなくて、主兵のミュンヘンの放饗だったらとかも無意味で、そもそもオスロの交響楽団以上のどんな楽団を振っても結果は変わらないから、コンセルトヘボウには役不足だと評されたのである。それもオスロの当時から分る人は判断していた。玄人筋で今頃まだそんなことを本気で書く人が居るのは驚きに堪えない。

演出のノイフェルスが「サウスポール」での共演で満足したからか、ペトレンコ指揮「悲壮交響曲」の印象をもとに演出に当たったとされるが、これもヤンソンスにとっては面白く無かっただろうなのは当然である。それで結局記事は、月末にべルリナーフィルハーモニカーと訪れるキリル・ペトレンコが救世主という副見出しになっている。否が応にこの記事を目にするヤンソンスの気持ちは知れよう。何処かとっちゃん坊やのような風情のヴェテラン指揮者が不機嫌になって、じわじわと嫉妬心のようなものが喉に込み上げてくる来る暑い八月である。



参照:
Diese zwei Hände sind ein ganzes Orchester, JÜRGEN KESTING, FAZ vom 6.8.2018
寛容の海を泳ぐ人々 2017-07-31 | マスメディア批評
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
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冷や汗を掻いて避暑

2018-08-07 | 生活
スタンドに燃料を入れに行く。予めネットで最寄りの安い価格を調べる。私が最近出掛けるチーパーワンは決まった時間帯に安売りする。その前の他所のスタンドの価格を見ておくと所定の時間帯になった時の推定価格が予想可能である。148から始まったが、他所が144ほどを付けている。上手く行けばその価格以下、少なくともその価格までは先ず間違いない。その時間帯が近づくと期待通り145まで下がった。そこからSHELLの自動車クラブ割引で更に1セント下がる。つまり144で購入となるので、急いでいることでもあり欲張らずに出掛ける。先ずはガス欠で動くかどうかドキドキした。幸い何事も無くスタンドに辿り着いて、給油口の横に停めた。再度価格を確認する。これで手をを打つしかないと思って、給油ノズルを取ろうとすると、更に2セント下がって、143になっていた。これで思い残すことは無い。結局142で20リットル給油した。どれだけ得したことだろうか。前日からこれを楽しみにガス欠の危険を冒して引っ張っていたのだ。メータの不調は変わらず、残り0が出続けていた。もしガス欠となると救援を呼ぶか、暑い中をガソリンが入ったポリタンを持って数キロ行軍であった。冷や汗を掻いたのだった。

ザルツブルク音楽祭のコンサート中継録画を観た。失望させ呉れ続けているアンドリウス・ネルソンス指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏で、マーラーの交響曲二番が演奏された。手元が空いていたので、もしやと思って録画していた。そのまさかで、この管弦楽団がこれほどまともに演奏するのを初めて聴いた。この楽団の演奏はオペラ、演奏会双方とも覚えきれないほど聴いている。カラヤン指揮とバーンスタイン指揮は生で体験していないが、ベーム博士指揮の時以上にまともに演奏するのを観聴きしたためしがない。それがこのマティネーの演奏会だった。

同じ場所で同じように「復活交響曲」体験したのはマゼール指揮のゲネプロであった。違いは明らかでその指揮の精度でしかない。マゼールも指揮台を降りて拍の振り方を研究していたが、その程度の精度では全くないようだ。なるほどミュンヘンの座付き楽団が感激して乞うて迎えたがった筈だ。キリル・ペトレンコの原則主義とは大分違って、この指揮者はありの侭を上手く受け入れて、客演でもとんでもない成果を披露する。楽譜の読みも、腰を曲げて頁を捲りながら凝視するかのように結構見ているとは思うのだが、ペトレンコの様には拘らない。これは利点でもあり欠点でもあるのだろうが、少なくともこの楽団を指揮することに関しては今までこれほどの成果を出す人を知らない。ベーム博士のように叱る必要も権威も必要ないのだ。技術と信頼関係だけだろうか。

しかしそれが音楽的な表現として効果があったかどうかは、会場の冷静な反応で測るしかないが、フィルハーモニカーは手応えがあったと思う。サロネン指揮も悪くは無かったようで、放送があればぜひ聞いてみたくなったが、その技術程度からしても音楽性からしてもそれほど期待しない。どんなに指揮者が良くとも11月定期のペトレンコ指揮にも全く期待できないようなドサ周り管弦楽団だけに驚いた。ヴィデオは永久保存ものだ。時間を見て細かな問題点を洗いたい。

取り分け見事だったのは、ヴァルツャーにおけるフィルハーモニカーの香り立つ響きで、これに類するのはメータ―指揮のDecca制作録音しか知らない。ここだけでも指揮者冥利に尽きるだろう。ゲヴァントハウスを振ろうが、ボストンだろうが、ベルリンだろうが、これは得られない。もう一つは終楽章のダイナミックスの付け方で、この指揮者の総譜の読みの確かさと、適格な音化の腕前にほかならない。とても楽団の合奏を活かしながら、その楽団の音響を脳裏に描けるのはこの指揮者の最大の強みだろう。それ故にミュンヘンには興味が無かったとしても致し方が無い。

ここからは妄想となるが、恐らくこの人以上にこの名門楽団を指揮出来る者は存在しないと思われるが、本人は若い男のように色々な楽団を試しながらの伴侶探しのような趣がある。サロネン指揮の演奏会が新鮮で評判としても、それとヴィーナーフィルハーモニカーための指揮とは全く違う。ロスフィルならばそれでもよいのかもしれないが、その方ではソニーグループがジョルダンを売り出そうとしている。国立劇場とフィルハーモニカーは直接関係が無いが、あれだけ立派な指揮をされるとジョルダンはコンサート指揮など恥ずかしくて逃げるに違いない。

どう考えてもゲヴァントハウスとよりはこちらの方が遥かに可能性が高く、相性が間違いないとしたら、ゲヴァントハウスは二年で辞めるのではなかろうか。ジョルダンが劇場でも成功する可能性はかなり低く、こちらも名物の支配人諸共の下ろし運動が起こるかもしれない。但し不可思議なのはザルツブルクの会場がそれほど湧いていなくて、披露したものは通向きなのかもしれぬ。まだ若いのだから、劇場で苦労するのも良いかもしれない。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
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サチって仕舞う音響

2018-08-06 | 
流石にこの二日ほどは暑くなった。それでも時折吹く風が涼しい。夜中は窓開け放たれると布団が気持ち良い。前日に走れなかったのでゆっくりと峠を往復してきた。徐々に摂氏22度へと上がって行くとやはりつらく汗だくとなった。車の燃料のボードコムピューターが0から上がらないので焦っていた。前日の晩には3l残っていることになっていたので、それが一挙に気化してしまうことは無いだろうが、少なくとも燃料計測の浮きのところにはなかたっとみられる。そのまま結局スタンドの前を通って自宅まで帰って車庫入れしたが、週明けに本当に動くだろうか?最悪の場合はまた前回のように暑いところをポリタンを持ってスタンド往復だ。水曜日までの我慢だ。木曜日に最後のサマーカットにして、そして涼しくなる。

クリーヴランドからの放送を夜中に録音しておいた。結局途中で目が醒めているのだが、途中から入力を落とすほどには覚醒していない。なので強音では完全にサチって仕舞ったが、とんでもないダイナミックレンジで収録されているようだ。そもそも歌手を高みにおいて、最小音から完全に鳴らせ切れない会場一杯の強音までだから、可成りマイナスに伸びている録音で、そのようなマイクロフォン設置なのだろう。通常にスピーカーで鳴らす限りはそれほど歪感は感じない。こちらの録音上の不備よりもこの管弦楽団の特徴とその会場の問題が良く分かった。それが丁度この楽団の限界にも通じる。音資料にはなりそうだ。

具体的には指揮者のメストが語っていたように、アメリカの楽団の特徴として棒が振り落とされた瞬間に音が出てしまうので、同じ拍で声を出そうとしても息を貯めるまでの一瞬遅れる。だから欧州の座付き楽団は音がなかなか出ないようになっていることで、この「トリスタン」二幕でも高台から歌うシュテムメらの声の指揮は、昨年の「子狐」のルクセムブルク公演の時のように合わせたのだろう。基本は声の方が棒を早めに見て合わせていたと記憶する。あの曲は難しい。

それで、そして夕刻のザルツブルクからの「魔笛」から、決して悪くは無かったラトル指揮のDVD化されているバーデンバーデンでの最初のそれを思い出したのだが、そもそも最後の「パルシファル」でも全く舞台の上を見上げずに振っていた事が話題になったのを思い出した。歌手も直後のインタヴューでなにも指示が無いから勝手にやらして貰っている旨を語って、直ぐにネットではその部分がカットされていた。

あのペトレンコでさえ「ジークフリート」では歌手に対して逐一と指揮していたのは其れこそマーキングしてある要所要所だけで、「三部作」との大違いに驚いたのだが、ラトルは顔さえ殆ど上げなかった。それでも「魔笛」となるとザルツブルクでのヴィーンのなんとなく合わせる妙技とは違うので少なくとも管弦楽団は見事に弾き切っていて、歌手の問題も殆ど無かったと記憶する。そして「パルシファル」でも最終的に破綻は無かった。

次に日本に滞在する機会があったら是非そこの管弦楽を聞いてみたいと思っている。「東京・春の祭典」のヴィデオが出ているようなので少し見てみた。都饗は昔黛の番組に出ていたかどうか知らないが殆ど聴いたことが無い楽団だ。N饗でもどこでも似ていると思うがやはり日本のそれらしい音が響いている。初めは会場や録音の特徴かなと思ったが、やはり独自の響きがある。最近は中声部のヴィオラ陣がとても気になるのだが ― なにもヴィオラ弾きの恋人がいる訳ではない ―、そこの弾き方次第で管弦楽がどのような和声を響かしているかがよく分る。MeTooデュトワとN饗のフランクフルト公演でその辺りが欠落していると指摘した時には、第二ヴァイオリンとヴィオラを同じぐらいにしか捉えていなかったが、今は後者の具体的な問題として認識する。しかしこれはなにも日本の楽士さんをバカにしているのではなく、先日もミュンヘンの座付きの課題であったり、ベルリンのフィルハーモニカーのそこがフィラデルフィアやクリーヴランドに比べるまでも無く、ゲヴァントハウスやコンセルトヘボウと最も異なるところだと考えている。そこにも留意して第七交響曲イ長調も勉強しようと思う。

なんだかんだ文句をつけながら女流指揮者が振った演奏会を最後まで流してしまった。モーツァルトのト短調交響曲はよく弾けていて、シュトッツガルトのSDRでも中々こうは弾けないだろう。なるほど訳の分からない東欧の楽団などを興業させても東京では入らない筈だ。そして日本人の几帳面さがリズムや謡いまわしなどによく表れていて、それが良くも悪くもある特徴となっていて、私はバッハの楽団で世界的な新鈴木メソッドとそれを呼んでいる。やはりこの四半世紀で日本の音楽市場事情は変わっていることは間違いなさそうで、歌曲の会にしてもある種のプログラムでは欧州ではなかなか成立しないような充実があるかもしれない。さて、日本滞在の節は、何処の会場で何を聴こうか。



参照:
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般
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最も暑い週末を迎える

2018-08-05 | アウトドーア・環境
朝一番で一汗掻こうと思っていた。体調が優れないので断念した。用意をして出かけて走らないことは珍しいが、右の胸に圧迫感があったので止めた。左ではなく、それほどのことではないと思ったが、木曜日にも走っており、日曜日にも走るので無理をしなかった。そもそも早朝走るのは不健康であり、それだけで循環器系への負担は大きく、寝方が悪かったにしても圧迫感があるところで走るほどのバカではない。なるほど走れば一汗掻いて暑い日を容易に乗り越えられるが週末の一日ぐらいどうでもよい。

ラディオでは河川の船輸送が特別料金になると話していた。理由は晴天続きの夏で大きな河川も水位が下がっていて、ラインでも二メートルを切っているとあった。つまり普段は満載にするのを三分の一の貨物量にして、喫水値を下げなければ航行不能となるからだ。すると一度に運べる貨物が三回に別れて、当然のことながら交通量も増えて危険性も増し、コストも嵩む。だから予め特別料金が設定されているらしい。

夕方閉店前の八百屋からの帰り道、車の外気温計が37.5度を指していた。その数字は見たことがある印象だが、摂氏38度を見ることはあるだろうか?暑い時間帯に車を動かさない限り無理かもしれない。兎に角、乾燥しているのが特徴で、なるほど暑いのだが、帰って来ても汗を掻いていなかった。シャワーを浴びる予定にしていたが、結局しぶしぶと浴びただけで、暑い2003年や2015年の夏のように水風呂に入るのは寒くて無理だ。これで木曜日まで耐えて床屋に行って、その次の週は最低気温が15度以下になるので一挙に秋支度となる。葡萄が日焼けしない限る凄いリースリングが出来ると思う。

ネットに昨年バイエルンの国立歌劇場東京公演に同行したフライ記者がノイエズルヒャーに書いた記事があった。興味深いのは、私が扱っているようにキリル・ペトレンコとヤニック・ネゼセガンを比べていることだ。勿論カーネギーホールでの書き込みにあったように、到底比較の対象でないとのことで、ネザセガンを一緒に出すなという声はあがろう。しかし現在活躍中の指揮者を見渡すと、そもそも取り上げる必要のあるのはネゼセガンぐらいしかいないのだ。この記者が私の呟きからヒントを得たかどうかは分からないが、まだ完売していないワンの弾くべルリナーフィルハーモニカーとネゼセガン指揮のロッテルダム管弦楽団の販促効果としてはこれ以上のものは無いであろう。

但し残念なのは私がBLOGで扱っているように、それならばネゼセガンの音楽のどこが良くてどこが悪いかには一切言及していない。コンサートが始まる前から書いても仕方がないのだろう。両者のキャラクターの比較で、ペトレンコをファントムとしてネゼセガンを交流者としていて、前者の表現はどうかとも思うが、そこをメディア人として若干修正して欲しいとしているので、意見としては致し方が無い。ネゼセガンが逆のコースを歩んで、コンサートからオペラへと進んでいて、欧州での活動も縮小する方向で動いていて、ロッテルダムで一緒に育った楽団とのお別れを悲しんでいるとあった。

先週録音した楽劇「トリスタン」一幕をBGMに流している。高みで歌わすのは気の毒だが、こうして歌うとシュテムメの歌詞も明白で、声の質がニルソンの方が子供っぽいだけで、その芸術的な仕上がりは素晴らしい。クリーヴランドの管弦楽がとっぴおしも無い音を出して、驚かせるが、ミュンヘンでのそれを準備する時のいい音素材となりそうだ。カムペのイゾルデもヴィデオがあるので、とても助かる。しかし思い起こすのは先ず「マイスタージンガー」における引用で、そこも9月までに詳しく見ておきたい。何か双子のような作品群にも見えてきた。

それにしてもヴェルサーメストがクリーヴランドをこうも易々と小気味よいノリで振ってしまえることも驚きでしかない。ヴェルサーメストが適当な楽団で素晴らしい仕上げをしてくることは知っているが、ペトレンコやネゼセガンが汗を掻いてとても苦労してリズムを刻ませているところを軽々とこの楽団は為している。上の記事にもあるように双方とも「室内楽的」にが共通しているとなるが、そもそも現在の大オーケストラで室内楽的に鳴らずに、厳格に音楽の合っていない粥のようなそれは美学的に認められない ― 何か日本の呟きを読むとどうも彼の国では鳴らし方が違うようだ。その点からも「細いピンセル」の楽団を手中にしたヴェルサーメストの幸運の程が知れる。



参照:
記録的な高気温になる予感 2015-08-08 | アウトドーア・環境
彼方の高みは? 2006-07-21 | アウトドーア・環境
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指揮者の手解き次第

2018-08-04 | 雑感
暗くなっても暑かった。バルコンで横になっていた。すると結構気持ち良いのだが、屋根裏部屋のベットに行くまでには少し時間を置いた。一日で一番気持ち良い時間だ。引き続き火星の輝きが激しい。あそこまで光ると写真を撮りたくなる。しかし三脚が無いのでまともな天体写真は撮れない。小さくてもしっかりした三脚があればと探してみたい。

仕事となるとご苦労様と思う。あの暑いバイロイトで良いものも悪いものも見聞きして記事にしなければいけないからだ。クーラーの効いたホテルに居るのかどうか知らないが、あまり愉快な仕事ではないだろう。ドミンゴの指揮の報告が載っている。問題を、丁寧に書いていて、記者に言わせるとこうなる。

通常の劇場と違う蓋付きのピットであるから、指揮のその打ちからのその距離感は大きく、とても危ういのにそれに責任を持つというドミンゴの勇気に言及する。つまり「指揮者は歌手に任せてはいけなく、引率しなければいけない。さもなくば、どんどんゆっくりになってしまう」とそのメカニズムを説明する。

このメカニズムは簡単なようで意外にそれほど直感的に理解出来ないかもしれない。つまり、普通の音楽愛好家はどうしても客席側での音響を考えるから、そこに届く前に起こっていることがなかなか把握出来ない。肝心なのは楽器と声が合うことでしかないが、例えば歌手が楽器の音を待っていて発声したのでは遅れるという事になる。

今回の生放送中に「シュテファン・グールドが息が続かなくて死んでしまう」というような指摘があったが、まさしく奈落の音を待っていて声を出すと、その次は今度は指揮者がそれに合わせて、それがまた遅れてとなると減速のループに入る。それがまさにあそこで起こっていた。あれはあれでプロのそれも超一流の歌手と管弦楽団での超面白実験だった。

これが少しでも分かるのは「三部作」でのペトレンコの指揮を舞台と客席の間で観ていたからだ。なにも加速域だけでなくて、ゆっくりしたところでも特別に歌手に指揮をするところがあって、本当に少しのずれを振り別けるのは「春の祭典」の複拍子どころではないのではと感じた。語学やピアノなんかと同じで子供の時かどんなに遅くとも20歳代の前半までに身に着けていないとどうしようもない技能なのだろう。

ドミンゴのそれほどブーを受けた指揮者は今までいないようだが、なるほど今まで登場した大植までを含めた指揮者は本当のプロの指揮者で蓋付きで合わせれるかどうかは時間の問題でしかないのだろう。初代音楽監督でも反復練習してマスターするものであるから、基礎のある指揮者では克服可能なのだろう。逆にあれだけ時間差があればキュウは出しやすいのかもしれない。楽譜にマークを付けておけばよい。クナッパーツブッシュなどという指揮者はその辺りを上手く逆利用していたのか、兎に角「パルシファル」などになるとアダム・フィッシャーあたりでも引き摺ったと批判されているので、容易な楽譜と困難な楽譜があるのは確かだ。

そのコツをご丁寧にネルソンズに手取り足取り教えようとしたのが初代音楽監督だが、今回は「クリスティアンはヴァークナーの権威だから」とまで言わせた大歌手ドミンゴに懇切丁寧になぜ解決策を授けられなかったのだろうか。またまた不信感を感じる。大恥をかかせるために大歌手を招聘したのかと言われても仕方がない。性悪な連中のことを考えるとそこに疑心暗鬼が募るばかりだ。

さて前日のガッティ解任騒動に対して、その反論がなされている。「アメリカの話しは古い話し」でとして逃げれたが、今回のコンセルトヘボー楽員の反旗は決定的だった。そしてガッティ側は法廷闘争も辞さずと、このままネガティヴキャムペーンが続くならと牽制した。コンセルトヘボーはそれなりの証言が得られたのだろうから、負けることは無いとしているのだろうが、その他のベルリンのフィルハーモニカーを含む客演する管弦楽団、特に客演に多く登場するべルリンの対応が注目される。コンセルトヘボーから事実関係への情報提供を求めて、もし告訴されても勝てる準備をしなければいけないのだろう。牽制の効果は少なくとも代替の発表を遅らせるかもしれない。どうみてもアメリカでの件は時効のような事例で、コンセルトヘボーの皆を驚かせた早期の明確な処置は、「舌をねじ込んだキスや身体を弄る」などがアムステルダムでも明らかに最近まで為されていたとしか思えない事象が確認されたという事だろう。

もう一つ興味深いのは、8月2日正午の広報時点で、月末からのツアープログラムの代替指揮者が定まっていなかった気配があることだ。つまり3日正午時点ではまだ代替指揮者の発表がなされていない。通常ならば契約解消前にその後の影響がどうなるかを検討して発表する筈だが、間髪を入れずに訂正が無いとはどういうことか?組織としてシェフの裁定権がどのようになっているかなど定まっていて、首を切るまでは少なくともアーティスト選定に動けなかったのかもしれない。要するにクーデターなどと同じように首を残しておくと横槍が入る可能性があったとなる。すると余計にツアーまで一月を切った契約解消は時間的な制約もあり、可成りばたばたと後先無しに動いた可能性も捨てきれない。もしかしてまだスキャンダラスな事実が明るみになるという事なのだろうか?



参照:
満期ご奉公御免まで 2018-08-03 | 雑感
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
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満期ご奉公御免まで

2018-08-03 | 雑感
スピード違反の写真付き聴取が届いた ― 眠気を堪えるために鼻を押さえている。予想した通り違反だ。誤差を時速4㎞差し引いて、100㎞制限を121㎞出したことになる。違反金70ユーロで、持ち点8から減点1である。これは二年半後に消えるが ― 以前は二年で消えた ―、一年以内に繰り返すと常習犯扱いとなる。先ず一年間は更に安全運転だ。来年新車に乗り換えると、最初の二年ぐらいは安全運転となる。これは悪くは無い。

今回自身自覚したのは、以前ならば酒気帯びや飲酒運転での過ちが予想されたが、居眠り運転が課題となった。罰金額70ユーロは一泊の費用とあまり変わらないので、それだけなら問題は無かったが、減点が痛い。20㎞超過以内ならば35ユーロのみで済んだ。そもそもアウトバーンで100㎞制限というのが異常で、大抵は80㎞制限での撮影が多い。モーバイルのカメラで日曜日の午前1時42分だ。合流してくる車の影も無い下り坂だ。卑怯なやり方で腹立たしい。

それでも事故を起こして車を壊し、罰金も取られ、大怪我するよりは安くついた。自身ミュンヘンからの帰りは危ないと思うことが少なくなかった。今後はこの違反金額を予算に入れて宿泊を考える。怪我の功名としなければ、何時かは大事故を起こしていた可能性が少なくなかった。居眠り運転の怖いのは、飲酒運転ならば興奮していて過剰反応するが、居眠りはブレーキ痕無しの衝突で死亡事故の起こる可能性が少なくない。やはりどこかで反省しておくべきだった。

通常ならばプッチーニ作「三部作」の短めの上演で軽く見た。なによりもロージェの価値が分らなかったのでそこまで集中する必要があるのも知らなかった。それでも19時に始まることも大きな要素だった。幾ら短くても終演が遅くなると、一番眠たい時間に走行しなければいけないからだ。

そこで、写真をとられたことから二回目の「ジークフリート」には宿を手配したので、ある意味惨事を逃れられた可能性が強い。潜在的に危険性は十分に感じていたからで、とても良い切っ掛けになった。逆に今回のことがなければ、宿を取らずに往復した可能性もある。今考えると更に厳しい復路となっていたと思う。やはり外から何らかの力が働かないと自身ではなかなか改められない。事故を起こさなかっただけ幸いだ。ミュンヘン詣は少なくともまだ三年は続くのだ ― つまり、その時には晴れて満期ご奉公御免となっている筈だ。その間に減点が無くなり、幾つかの定宿に安く泊まればそれでよい。しかし先日泊まった宿のおばさんが、「私、減点三点よ、それでも生きていけるからね」と言っていたが、一体何をしたんだ。

アムステルダムのコンセルトヘボー管弦楽団のシェフの首が飛んだ。MeTooの被害者ともいえるが、まだ二年も務めていないのに自身の管弦楽団で複数の女性団員にチョッカイを出していたのが決め手になったようだ。イタリア人だから女性に声を掛けるのは当然かもしれないが、それをパワーハラスメントと見做された時点で終りである。複数でなく、一人ならばなんとかなったかもしれないが、同じ楽団で複数となると牽制なども働いてこれは駄目だろう。

指揮者とオペラ歌手などは日常茶飯事の付き合いだと思うが、それもその立場に拠るかもしれない。この直ぐ騒がれるご時世に凝りもせずに今も遣っていたのだろうか、それとも二年半前のことだろうか?それによってもこちらの見方は変わるかもしれないが、そもそもこの指揮者をあまり知らない。しかし様々な要素からこの人の指揮する演奏会等には興味を持たないでいた。

そして今回のことから、ベルリンでもバーデンバーデンでもコンセルトヘボー管弦楽団以外の客演もキャンセルされる筈だ。私の注目点はバーデンバーデンでの「オテロ」公演である。一体誰がそこに入るか?そもそもその公演はリカルド・ムーティ指揮でプロジェクト開始されたようだが、早々マエストロは断りを入れた。理由は「十分な準備が出来ない」というものだった。だからその公演に挟まれるように二度だけ「死者のためのレクイエム」を指揮する。シカゴ饗で振ってから、全く異なるフィルハーモニカーでバーデンバーデンだけで振る。ベルリンでは振らない。つまりその時期にバーデンバーデンに滞在する。稽古は10日ほど前からだ。それでは足りないと言ったのだろう。

興味深いのは、キリル・ペトレンコも同時期にバーデンバーデンに滞在する。ほとんど同じ期間滞在する。万が一、ペトレンコがそこに入る可能性は日程的にはあり得る。重なるのはベルリンでのその後のコンツェルタントとイタリアでの第九の練習だ。これをキャセルしなくてもベルリンでの日程を変える可能性は無いだろうか。まあ、ペトレンコのためには殆ど価値は無いかもしれない。この二人以外で一体誰が三週間ほど時間を開けれるだろうか?誰だったら行くだろう?

日程とか度外視して好き勝手にその指揮を知っている指揮者名を思いつくまま挙げてみる。

バレンボイムは飛んで来れるか?ネゼセガンならば可成り期待される。シャイ―も忙しいだろう。穴で、ヤロウスキーにも任せられないだろう。ガッティの代わりに、上の二人以外で、それ以上に期待させるのはこの三人ぐらいだろうか。

そもそも指揮者だけでなく演出のロバート・ウィルソンには感心したことが無いので全く興味を持たなかったのだが、興味津々になってきた。前日に予感した通りになった。兎に角、ガッティはこれで少しは有名になったかもしれないが、当分は干される。

#MeToo



参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般
語る価値のあるもの 2018-08-02 | 女
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